答武陵田太守 | |
王昌齡 |
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仗劍行千里,
微躯感一言。
曾爲大梁客,
不負信陵恩。
武陵の田太守に答ふ
劍に仗りて 千里を行き,
微軀 一言に感ず。
曾て 大梁の客と爲りたれば,
信陵の恩に 負かず。
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◎ 私感註釈
※王昌齢:盛唐期の詩人。700年?(嗣聖年間)〜755年?(天寶年間)。字は少伯。京兆の人。七言絶句に秀で、辺塞詩で有名。
※答武陵田太守:武陵の田太守(のお世話)にお答え致します。 *侯嬴が信陵君に遇せられ、その恩に報いるために、信陵君が出陣するとき、侯は、「自刎して公子(信陵君)を送ろう」と言い、その言の如く自刎した故事を以て、自分の志を表した。 ・答:(先方の問いを受けて)返事する。 ・武陵:現・湖南省常徳。 ・田:姓。 ・太守:郡の長官。
※仗劍行千里:剣を持って遥かな旅路に出で立とうとしておりますが。 ・仗劍:剣を持つ。剣に頼る。剣を執る。剣をつく。 ・千里:千里におよぶほどの広い地域。遠いところ。
※微躯感一言:わたくしめは、田太守のお言葉に感激いたしました。或いは、わたくしめは、(お世話になったお礼までに)敢えてひと言申し上げますが。 ・微躯:卑しいからだ。微賎の身。わたくしめ。拙者。自分を謙遜していう。 ・感:「敢」ともする。その場合「微躯敢へて一言せん」となる。 ・一言:「微躯感一言」では、武陵の田太守から賜ったことばであり、「微躯敢一言」では作者・王昌齢が武陵の田太守に言ったことばになる。
※曾爲大梁客:かつての大梁(=戦国・魏の国)の食客であった(侯嬴と同様に、御世話になっていましたが)。 ・曾爲:かつて…だった。 ・大梁:戦国時代の魏の国都。現・河南省開封。『中国歴史地図集』第一冊 原始社会・夏・商・西周・春秋・戦国時期(中国地図出版社)35−36ページ「戦国 韓魏」にある。現在では黄河の近くになるが、当時、黄河(河水)は、大梁(現・開封)の80キロメートルほど北側を流れていた。唐代でもほぼ同様。(『中国歴史地図集』第五冊 隋・唐・五代十国時期(中国地図出版社)44ページ「洛陽附近」)。ここでは魏の信陵君と侯嬴のことをいいたいために出した。 ・客:魏の信陵君の客となった侯嬴を指す。戦国時代の魏の隠士の名。自分の一言を重んじ、その信義のため、自ら言ったとおりに命を絶った故事による。侯嬴は、七十歳で夷門(東門)の監者となり、後、信陵君の客となる。信陵君が出陣するとき、侯嬴は、献策するとともに、老齢ゆえ従軍不能のため、従軍を辞退した。しかし、「(信陵君が目的地に着到すると思われる日に、)自刎して公子(信陵君)を送ろう」と言い、その言の如く自殺した故事に拠る。『史記・魏公子列傳』に「魏有隱士曰侯年七十,家貧,爲大梁夷門監者。公子聞之,往請,欲厚遺之。不肯受,曰:“臣身藉行數十年,終不以監門困故而受公子財。”公子於是乃置酒大會賓客。…於是公子請仇亥。仇亥笑曰:“臣乃市井鼓刀屠者,而公子親數存之,所以不報謝者,以爲小禮無所用。今公子有急,此乃臣效命之秋也。”遂與公子倶。…侯生曰:“臣宜從,老不能。請數公子行日,以至晉鄙軍之日,北向自剄,以送公子。”公子遂行。」という壮烈な場面がある。唐・魏徴の『述懷』に「中原初逐鹿,投筆事戎軒。縱計不就,慷慨志猶存。杖策謁天子,驅馬出關門。請纓繋南越,憑軾下東藩。鬱紆陟高岫,出沒望平原。古木鳴寒鳥,空山啼夜猿。既傷千里目,還驚九折魂。豈不憚艱險,深懷國士恩。季布無二諾,侯嬴重一言。人生感意氣,功名誰復論。 」とある。
※不負信陵恩:(侯嬴と同様に)信陵君の恩義に負(そむ)くことはいたしません。あなたさまの恩義は忘れません。 ・不負:そむかない。 ・信陵:信陵君のこと。ここでは、田太守を重ねている。 ・恩:恩義。前出紫字参照。
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◎ 構成について
韻式は、「AA」。韻脚は「言恩」で平水韻上平十三元。この作品の平仄は、次の通り。「梁」は固有名詞故、如何ともしがたかったのだろう。
●●○○●,
○○●●○。(韻)
○○●○●,
●●●○○。(韻)
2007.12.21 12.22 |
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