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和歌山県忠霊塔(平和塔) |
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和歌山市西高松1丁目10-23 「ちゅうれいとう」どんな漢字なのか知らない時から、そう呼んでいた。 実家の近くである、子供の時は、ここと和歌山大学(今は移転した・・・)が遊び場であった。40年振り位に母と一緒に訪れた。 この塔は昔のままだが、300m近い参道と周りの広大な松林は、みるかげもなく縮退している。松の木に登っている写真や、大きくなってからは松に寄りかかっている写真がアルバムに何枚かある。 【忠霊塔の歴史】 昭和16年5月、歩兵第61連隊の戦没将兵を葬った陸軍墓地の地に忠霊塔が建設された。その後、国道42号線から忠霊塔外苑入口まで250mの参道を建設、全国に誇りうる忠霊塔であった。 昭和20年8月、終戦により、軍国主義復活を危惧する批判から忠霊塔は「平和塔」と改称された。 昭和56年6月、祭典実施・遺族集会等のための平和会館が完成し、一階を戦争遺品・資料等を保存展示するための平和祈念資料館として公開された。忠霊塔内には37,500余の英霊を合祀している。 つまり子供の時から、正しくは「平和塔」だったのだ(笑) 鎮魂の思いを込めて 靖国神社 和歌山護国神社 |
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碑文には、こう書かれている。 茲に第二次世界大戦ビルマ戦線で散華された戦没者並びに同じ運命を辿られし連合軍戦没者のために生きながらえた我等発願して今日の平和の礎となられし諸士を偲び感謝し弥陀三尊を建立す。願わくは、かかる悲惨なる戦争の無きことを祈願しつつ大慈悲の大願力に救われ永遠の幸の得んことを。 ビルマに派遣された部隊等として、歩兵第61連隊、日赤第490救護班の文字がある。 「看護婦さんの慰霊碑」と呼ぶ人もあるようだ。 |
ビルマ慰霊碑 昔はなかった。昭和55年建立。 |
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ここの松林は風の影響で、みんな傾いている。 向こうは墓地。母の実家の墓もある。 |
今は残り少なくなったが、この手前も全部松林であった。 |
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米軍MK25型機雷が展示されている。 我が国沿岸航路を封鎖するため米海軍が空中投下した約6,000個の中の1個で昭和40年に大阪湾で引き揚げたものである。 海底に沈め、機雷の上を鉄鋼船が通過すると磁気を感知し爆発する仕組み |
平和会館 平和祈念資料館 |
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館内 いろんな展示がある。戦地から両親に、あるいは兄妹に宛てた遺書も展示されています |
館内 出征の時の寄せ書き 千人針は、寅年の母は、年の数だけ縫えたようだ。 |
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コレヒドール島 こんな遠くまで行って・・・・ コレヒドール島Corregidor 展示の中でも、コレギトールと表記しているのもありました。 |
母の戦死した兄の写真 展示室の中にありました。勲章と共に。 私にとっては、伯父さんです。 |
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平和祈念資料館の係員の方とお話しする機会がありました。 忘れてはいけませんよね。 この人たちのおかげで、今の私達があるのですよね。 |
母子像 和歌山県の未亡人会が昭和45年建立 父亡き家の母と子に無言の励ましを |