1201年 (正治3年、2月13日改元 建仁元年 辛酉)
 
 

9月7日 甲寅 霽
  紀内所行景(鞠足)上皇の仰せに依って下着す。蓋しこれ左金吾申請せらるるに依っ
  てなり。今日大膳大夫廣元朝臣の亭に到着す。下向の間、彼の朝臣駅路の雑事等を沙
  汰せしむ所なり。
 

9月9日 丙辰 晴
  廣元朝臣始めて行景を相具し御所に参る。行景(花田の狩衣、襖袴)先ず侍所に候ず。
  次いで召しに依って石壺に廻り、廂御所の簀子に参る。頃之左金吾(烏帽子、直衣)
  出御す。その後勧盃の儀有り。御盃を行景に給う。この間仰せられて云く、蹴鞠師範
  として召請するの処、適々重陽の日を迎え、始めて対面を遂ぐ。故に猶前庭の籬菊を
  以て盃に浮かべ、永く万年を契るべし。てえれば、行景盃に跪く。金吾自ら銀劔を取
  りこれを與えしめ給う。
 

9月11日 戊午 天顔快霽。
  行景参着の後始めて御鞠有り。左金吾立たしめ給う。北條の五郎時連・紀内行景・富
  部の五郎・比企の彌四郎・肥多の八郎宗直(已上布衣)・大輔房源性・加賀房義印(已
  上等身衣)等参候す。
 

9月15日 壬戌 晴
  早旦、御所に於いて行景を召し御鞠有り。北條の五郎已下五六輩これに候ず。但し揚
  数えらるに及ばず。今日鶴岡放生会を遂行せらる。式月、八足門・廻廊顛倒に依って
  延引する所なり。左金吾御出で(八葉の御車)。山城左衛門の尉行村御劔を役す。江
  間の四郎殿・大膳大夫廣元朝臣・右近大夫将監親廣・右近将監能廣・新判官能員・右
  馬大夫右宗・左兵衛の尉常盛・左衛門の尉章清・源三左衛門の尉親長・太田兵衛の尉
  ・後藤左衛門の尉信康・雅楽の允景光・前の右兵衛の尉義村・結城の七郎朝光等御後
  に候ず。随兵無し。希代の新儀なり。近日事に於いて陵廃す。先蹤を忘れる如し。古
  老の愁うる所なり。
 

9月16日 癸亥 陰
  左金吾また以て御参宮。流鏑馬以下例の如し。
 

9月18日 乙丑
  左金吾犬を飼わしめ給うの間、各々その飼口を定められ、毎日これを結番せらる。皆
  これ事を狩猟と為すの輩なり。件の御簡石壺に置かる。
   一番 小笠原の彌太郎      細野兵衛の尉
   二番 中野の五郎        工藤の十郎
   三番 比企の彌四郎       本間の源太
 

9月20日 丁卯 晴
  御所の御鞠なり。凡そこの間政務を抛ち、連日この芸を専らせられ、人皆当道に赴く。
  北條の五郎以下参集す。但し各々布衣を着さず。今日員七百これを揚げらるる所なり。
  今夜深更に及び、月星の如きの物天より降る。人以てこれを怪しまずと云うこと莫し。
 

9月22日 己巳 陰
  また御鞠會。人数同前。今日人々多く以て見證に候ず。その中、江間の太郎殿(泰時)
  密々に中野の五郎能成に談られて云く、蹴鞠は幽玄の芸なり。賞翫せらるるの條庶幾
  う所なり。但し去る八月の大風に、鶴岡宮の門顛倒し、国土飢饉を愁う。この時態と
  以て京都より放遊の輩を召し下さる。而るに去る二十日の変異常途の儀に非ず。尤も
  驚き思し食さる。司天等に尋ね仰せられ、異変に非ずんば、此の如き御沙汰に及ぶべ
  きか。且つは幕下御在世の建久年中、百箇日の間、毎日御濱出有るべきの由固く定め
  らるるの処、天変出現の由、資元朝臣勘じ申すの間、御謹慎に依ってその儀を止め、
  世上無為の御祈祷を始めらる。今の次第如何に。貴客は昵近の仁なり。事の次いでを
  以て盍ぞ諷諫申さざるやと。能成甘心の気有りと雖も、発言すること能わずと。