1201年 (正治3年、2月13日改元 建仁元年 辛酉)
 
 

10月1日 戊寅 晴
  御所の御鞠。北條の五郎・紀内・富部の五郎・肥多の八郎・比企の彌四郎・源性・義
  印等これに候ず。数三百六十なり。
 

10月2日 己卯 霽
  夜に入り、観清法眼潛かに江間の太郎殿の館に参る。申して云く、去る月二十二日能
  成に談り仰せらるる事、具に聴に達す。但し紕謬相交わるかの間、父祖を閣き諷諫申
  さるるの條御気色に違うの由、慥にその形勢を見るなり。然れば御所労と称し、暫く
  在国せしめ給うべきか。先々他を見るに上の御気色強ち旬月を歴ず。ただ一旦の事な
  りと。亭主仰せて云く、全く諷諫申すに非ず。愚意の及ぶ所、聊か近習の仁に相談す
  るばかりなり。罪科に処せらるるに於いては、在国に依るべからざるか。但し急事有
  り。明暁北條に下向せんと欲す。兼ねて出門せしめをはんぬ。今の告げに就いて構え
  て出ずるに非ず。貴房の推察を恥ずると称し、旅具(蓑笠等に至り悉くこの中に在り)
  等を召し出し見せしめ給うと。
 

10月3日 庚辰 晴
  卯の刻、江間の太郎殿北條に下向せしめ給う。
 

10月6日 癸未
  江間の太郎殿昨日豆州北條に下着し給う。当所去年少しく損亡するに依って、去る春
  庶民等粮乏す。耕作の計を費え失うの間、数十人の連署状を捧げ、出挙米五十石を給
  う。仍って返上の期今年秋たるの処、去る八月大風の後、国郡大損亡。飢えに堪えざ
  るの族すでに以て餓死せんと欲す。故に件の米を負い累ねるの輩、兼ねて譴責を怖れ
  逐電の思いを挿むの由、聞き及ばしめ給うの間、民の愁いを救わんが為鞭を揚げらる
  る所なり。今日彼の数十人の負人等を召し聚め、その眼前に於いて證文を焼き棄てら
  れをはんぬ。豊年に属くと雖も、糺返の沙汰有るべからざるの由、直に仰せ含めらる。
  剰え飯酒並びに人別に一斗米を賜う。各々且つは喜悦し、且つは涕泣して退出す。皆
  手を合わせ御子孫繁栄を願うと。飯酒の如き事、兼日に沙汰人用意せらるる所なり。
 

10月10日 丁亥 霽
  江間の太郎殿伊豆の国より帰着せしめ給う。
 

10月21日 戊戌
  御所の御鞠。北條の五郎・紀内・富部の五郎・比企の彌四郎・肥多の八郎・源性・義
  印等その庭に候ず。相模の守重頼・若宮三位房等見證に候ず。数九百五十なり。
 

10月27日 甲辰 晴
  鶴岡八幡宮の廻廊・八足門の上棟。匠等禄を給う。遠州・大官令・大夫屬入道等、宮
  寺に参りこの儀を行わる。その外の人々群参す。