1212年 (建暦2年 壬申)
 
 

8月14日 天陰、午後雨降る [明月記]
  (前略)昨今の伝聞、八幡の神人数十輩隆衡卿の門前に立つ。その根源は、去年山城
  の国に件の神人殺害の物有り。或いは精進の御園供御人と称す。予御厨子所口入の時、
  宮寺より頻りに相触る。尋ね問うの処、鳥羽御所侍の由を称す。仍ってその旨を示し
  をはんぬ。件の事此の如く相讓め、無音の間、去年の放生会に御輿を振り訴訟を成す。
  上卿翌日沙汰すべきの由宥め仰すの間、今年上卿の家門に遮り到りこの訴訟を成す。
  裁許無きか。宮寺に帰らず逐電すべきの由訴訟すと。今日未の時ばかりに両三度叫喚
  の音有り。怪異と謂うべきか(この神人半分また院の御所に参ると)。また云く、今
  年重ねて神人を殺す者有りと。これを聞き重ねて憂う者有るか。泰山婦人の哭虎に似
  たり。長厳僧正領にこの事有りと。また伝聞。明旦以前に裁許有るべし。もし遅々せ
  ば、神輿を振り奉るべきの由仰せ下さる。神人退去す。上卿出門すと。前駈(衣冠)
  六人・侍七人と。
 

8月15日 戊子 晴
  鶴岡の放生会、将軍家御参宮例の如し。これより先尼御台所並びに御台所(各々御車)
  舞楽を覧玉わんが為、廻廊に渡御す。

[明月記]
  筑後の前司頼時来たり示す関東下向の便書の事、人を以て謝し返す。
 

8月16日 己丑 陰
  将軍家御出で。馬場の儀等また例の如し。
 

8月18日 辛卯
  伊賀の前司朝光・和田左衛門の尉義盛、北面三間所に候すべきの由、今日武州伝え仰
  せらる。彼の所は、近習の壮士等を撰び結番祇候せしむと。而るに件の両人宿老たり
  と雖も、古き物語を聞こし召されんが為これに加えらるる所なり。

[明月記]
  前の大膳大夫業忠朝臣一昨日帰泉す(生年五十三)。相撲の間、忠綱朝臣に合い頭の
  骨を損う。これを以て病と為り遂に終命す。生年十五歳より法花を読誦すと。酉の刻
  ばかりに束帯、先ず院に参る。御幸泉をはんぬと。
 

8月19日 壬辰
  鷹狩りを禁断すべきの由、守護・地頭等に仰せらる。但し信濃の国諏方大明神御贄の
  鷹に於いては免ぜらるるの由と。
 

8月22日 乙未
  相模の国片岡・前取等の社の事、将軍家の御祈祷所たるべきの由、今日これを定めら
  る。図書の允奉行すと。
 

8月25日 戊戌
  御持仏堂に於いて恒例の文殊講を行わる。
 

8月27日 庚子
  安達左衛門の尉申す上野の国奉行辞退の事、今日その沙汰有り。恩許無し。殊に検断
  を行うべきの由と。
 

8月28日 [玉蘂]
  女院に参る。今日天王寺詣で延引す。念仏停止に依ってなり。