1212年 (建暦2年 壬申)
 
 

7月2日 丙午 晴
  去る月の刃傷の事に依って、御所侍を造替せらるべきの由、相州・大官令等沙汰を致
  せしむ。而るにその儀無しと雖も、憚り有るべからざるの旨、計らい申すの輩有りと
  雖も、御許容に能わず。千葉の介成胤に仰せ、造進すべきの由これを定めらると。
 

7月7日 辛亥
  駿河の前司惟義の使者京都より到来す。籐中納言(資實卿)の奉書を持参す。これ賀
  茂河堤の事、江丹両国並びに神社・仏寺・権門の庄領等を除き、穏便の沙汰を致すべ
  きの由、惟義等に下知せらるべし。またこの趣諸国の守護に仰せられをはんぬ。てえ
  れば、駿州の使者申して云く、件の堤の事、当時その沙汰を致すの処、去る月二十四
  日籐中納言(資實卿)仰せを奉り、相触れられて云く、堤の事、関東に仰せらるる時、
  全く諸国を費やし煩わすべきの由思し食し寄らず。而るに九箇国の御家人に仰せ、権
  門・勢家・神社・仏寺領を論ぜず宛て催すべきの由、下知を加えらるるの間、賀茂・
  八幡已下の庄々・面々訴え申す。就中修理職杣役の事、この所々に於いては、奉公他
  に異なるの地なり。また大甞會卜合の両国この中に在り。彼是免許すべしと。惟義申
  して云く、件の杣分何れの所を宛て催すべきかと。而るにこの申状の事、太だ以て言
  い足らざるなり。仍って直に奉書を遣わさるるの由、同二十五日重ねて仰せらるるの
  旨と。
 

7月8日 壬子
  弾正大弼仲章朝臣の使者参着す。去る月二十七日、造閑院の事始めなり。上卿は光親
  卿並びに家宣、行事は官人明政なり。上卿の事は思し食し定められず。度々これを改
  めらる。所謂、始めは光親、次いで定通、次いで師経、遂に以て光親に治定すと。大
  夫屬入道御前に於いてこの状を読み申す。而るに善信申して云く、適々造営の事有り。
  須く上臈上卿・宰相・弁これを奉るべきかと。
 

7月9日 癸卯
  堤の事難儀たりと雖も、勅定の上は、早く彼の所々を除くべきの由仰せ出さる。仍っ
  て駿州の使者帰洛す。今日、御所侍これを破却せられ、寿福寺に寄付せらる。即ち新
  造せらるべしと。これ去る月七日の闘乱の事に依ってなり。和田左衛門の尉・清図書
  の允奉行たり。千葉の介成胤一族等を催しこれを沙汰す。
 

7月23日 丁卯 晴
  永福寺並びに大倉堂等の惣門これを建てらる。永福寺の門は、去る比焼失するに依っ
  てなり。
 

7月24日 天晴 [明月記]
  夜に入り籐中納言家に行き向かう。吉富の解状の事を示し付けんが為なり。答えて云
  く、この堤の事、関東に仰せらるる時、全く諸国を責め煩わすべきの由思し食し寄ら
  ず。而るに九ヶ国の家人に仰せ、権門・勢家・神社・仏寺領を論ぜず宛て催すべきの
  由下知するの間、賀茂・八幡以下の庄々その責め此の如し。面々訴え申す。今朝修理
  職の杣、この一所に於いては奉公他に異なり、免除すべき由、惟義に仰せ遣わさるる
  の処、申して云く、畏み承りをはんぬ。但し件の杣分何処を宛て催すべきかと。此の
  如き事言い足らず。就中大甞會卜食の両国この中に在り。当時未だ思し食し定まらざ
  るか。これすでに天下の大事なり。てえれば、然りと雖も向後の事の為、早く奏聞有
  るべきの由示し付す。即ち参院す。彼の卿また参入す。
 

7月26日 天晴 [明月記]
  籐中納言消息に云く、江丹両国は堤の事を除くべきの由関東に仰せられをはんぬ。ま
  た国の守護人に仰せられをはんぬと。これ卜食の国に依ってなり。尤も宜しきと謂う
  べきか。
 

7月27日 天晴 [明月記]
  今日造閑院の事始め。上卿光親卿、弁家宣と。適々造営の事有り。須く上臈上卿・宰
  相・弁を承るべきか。近代の事ただ当たるに随いその沙汰有るか。この事始めは光親、
  次いで定通、次いで師経、また光親卿に定め改められをはんぬと。