わたしがいなくなった世界に/七河迦南
- 「遠い星から来た少女」
学園の“主”の正体は、やや特殊な知識に基づくものではありますが、三月末で退所した園生であることまでは早めに明かされる(*1)ので、あとは何かの事情で退所が遅れたことは見当がつくでしょう。しかして、序盤で亜紀が何気なく語ったバスのストライキ(17頁)が、その事情につながる伏線となっているのにうならされます。
バスの中での“サイトウさん”の消失――運転席に隠れたという真相そのものは、たわいもないといえばたわいもないものですし、(いわれてみれば)“そこしかない”ものではありますが、それを飛ばしていきなり運転手の正体から明かす(*2)ことで運転席という真相を暗示する、“考えオチ”のような見せ方が面白いと思います。が、注目すべきはやはり、
“どうしていなくなったかわからない”
(37頁)という言葉をめぐる文と春菜のすれ違いで、運転手が“サイトウさん”の父親かもしれないとまで考えていた文が、にもかかわらず“どうして”がわからなかったことで、(表現は悪いかもしれませんが)文の異質さが際立っている感があります(*3)。“斎藤”が父親の名字であれば、運転手の名札を見て春菜が真相(夜希子と運転手の関係から消失の方法まで)に思い至るのが(どちらかといえば)自然といえそうで、その場合には文中で名札を示さざるを得ないため、読者まで真相に気づきやすくなってしまう――という事態を避けるためもあって、父親を別の名字にしてあるのではないかと考えられますが、それがよりによって
“西島と書いてサイトウ”
(53頁)なのはおそらく、(前述の狙いのために)運転手が父親という真相に文だけがいち早くたどり着くための手がかりとするためで、運転手の名札をあえて読者にも示すことなく文だけの手がかりとしてあるのではないでしょうか(*4)。*1: 聞き手の佳音が、四月からの名簿は確認できるものの、まだ詳しい事情まではわからないという絶妙な立場なのも効果的です。
*2: 海王さんは謎を解いたわけではなく、夜希子の消失とは無関係に、夜希子の父親が何者か知っていたということではないでしょうか。
*3: もっとも、これは文の発達の問題を強調することで、文と父親の関係――ひいては後に明らかになる事件を(ひとまず)隠蔽しておく狙いがあるように思われます。
*4:“最近になって(中略)お父さんの戸籍にまた入った”
(51頁)にもかかわらず、その後だと考えられる四月一日の時点で自発的に“サイトウ、と名乗った”
(32頁)ことで、父親の名字も“サイトウ”であることまでは推測できるかもしれませんが……。
- 「国境のない国」
某国内長編(*5)のおかげで、死体の腕時計の“九月二十六日”がエチオピア暦であることは見当がつきましたが、そちらと違ってこの作品では日付のずれをあらかじめ示しておいて、“未来の日付”と死体の消失を――さらに後述する他の“予知”も――組み合わせることで、“未来の殺人”に仕立ててあるのが非常に面白いところです。
死体の消失自体はトリックというほどのものでもありませんが、死体の出現の方はなかなかユニークで、ちょうど九月二十六日に嵐が訪れ、埋められた死体が露出しかけたその場所までプレハブが風で移動し、床板が割れる――という具合に、犯人さえまったく予想外の偶然の積み重ねではあるものの、実に鮮やかな現象が目を引きます。
犯人につながる現場の施錠についての葉子の推理は、はしょり気味で少々わかりにくいところがありますが、(おそらく)もともとは隣室に続くドアも鍵がかかっていなかったはず(*6)なので、犯人が
“隣室の鍵を閉めてしまった”
(111頁)ことになり、アヤナが外に回っている間に犯人が元の部屋に戻った後、間のドアは再び施錠されていた(*7)わけですから、犯人が鍵を使った――という推理になるでしょう。メリッサが本国に戻るよりも日本にとどまることを望んでいるのはわかりましたが、さらにそこから先、息子のテディが日本国籍を取れる可能性を残すために、サムエルが父親だと確定させるわけにはいかなかったという、何とも想像を絶する事情には圧倒されます。サムエルの側の心情や事情も理解できなくはないだけに、悲劇的な事態といわざるを得ませんが、テディが無事に保護されたのがせめてもの救いでしょうか。
“未来の殺人”という図式を補強するために、他にもいくつか盛り込まれているアヤナの“予知”については、その大半がアヤナの敏感の嗅覚で説明がつくものの、やはりそれを隠蔽するガス漏れに気づかなかったエピソード(78頁~79頁)があまりにも強力……とはいえ、無意識に嗅覚を抑圧してしまったというのも、納得できるところではあります。また、母親の死期を記したカレンダーの問題については、
“数字がぎっしり書いてある”
(77頁)五年カレンダー(*8)の最後の日に、“この日に死ぬ”ではなく“この日までは生きる”と書き込んだ――という、優しい解釈に安堵させられます。*5: いうまでもないかもしれませんが、(作家名)歌野晶午(ここまで)の長編(作品名)『ジェシカが駆け抜けた七年間について』(ここまで)です。
*6: 外部につながる二つのドアだけを開錠しようとすると、わざわざプレハブの外を回らなければなりませんし、開錠した後に内側のドアだけ施錠する理由もないでしょう。
一応はここまで検討しておかないと、アヤナが一旦立ち去っている間に犯人が死体を抱えてプレハブの外に出た可能性も、否定できないのではないかと思います。
*7:“つまみを回せば簡単に開きそう”
(72頁)とあるので、アヤナがつまみを回して開錠したということになります。
*8: 伏線として、さりげなく“商工会議所から寄贈された五年カレンダー”
(105頁)に言及されているのが親切です。
- 「夏の夕のポリリズム」
真由子を悩ませた事故死の謎の核にあるのは、星羅と思われた“少女”が星羅の母親だったというシンプルな人物誤認ですが、それを補強するトリック――過去の日記をそのまま再現した添付ファイルと、現在の視点から補足を行うメール本文とからなる特殊な構成を利用した、亜紀が中心となった“一人称談義”(155頁~157頁)を発展させたかのような、一人称の時間差による認識の違いに基づく、実にユニークなトリックが秀逸です。
添付ファイルでは
“星羅ちゃん”
(136頁など)と書かれる一方、メール本文では同じ人物が“星羅ちゃんのお母さん”
(136頁・142頁・144頁)と書かれることで(*9)、その場に母娘二人が存在していると誤認させられる叙述トリック(*10)ですが、メール本文の方で事実が書かれることによってトリックが成立している――そして登場人物の誤認(過去の真由子が“星羅の母親”と認識していないこと)が隠蔽されている――ところは、いわゆる“逆叙述トリック”(→拙文「叙述トリック分類#{H}逆叙述トリック」)に近いものがあります。逆に添付ファイルの方では(一人称とはいえ)地の文に“嘘”があるので、フェアプレイという点で引っかかる方もいらっしゃるかもしれません……が、当時の真由子の認識が素直に書かれているわけですから、むしろ自然な記述(*11)というべきでしょうし、作中での春菜の謎解き(*12)をみる限りは妥当といえるので、(“地の文に嘘があるか否か”ではなく)あくまでも“読者が解決できるように書かれているか否か”という観点でいえば、問題なく十分にフェアだと思います(*13)。
これについて少し補足すると、作中でも春菜が
“同じ一人称のわたしが当時のことを語っているとしても、視点は全然違う。(中略)何より違うのは、その時起きた真実を知っていたこと。”
(158頁)と指摘していますが、これは記述者が同じであっても認識に違いがあるというだけでなく、真相を知らない状態の日記と真相を知った状態のメール本文とでは、読者にとっていわば信頼性に差がある、と考えることができるのではないでしょうか。つまり、日記の記述とメール本文の記述の齟齬については、メール本文の方が信頼できる――というスタンスをとれば、日記の地の文の“嘘”を“嘘”と見抜くことができるので、読者による解決の妨げにはならないのではないかと思われます。具体的には、“美央里以外の五人が全員揃った”という過去の真由子の認識と、メール本文で紹介された新聞記事に基づく“美央里以外の一人が事故死していた”という解釈――両者の食い違いこそが謎となっているわけで、新聞記事が作中での客観的な事実として扱われるべきだと考えれば(*14)、当然ながら前者の方に誤りがあることになり、そこから日記での星羅の母親の不在とメール本文での星羅の不在(*15)に気づいて、春菜と同じように真相に思い至ることは十分に可能でしょう。
*9: もちろん、
“じゃあママも一緒に連れてきちゃえばいいんじゃない? 保護者付き添いってことで。”
(131頁)という美央里の言葉も、誤認に一役買っているのはいうまでもありません。
*10: 母親を星羅本人と見せかける部分は、記述者である真由子の誤認によるものなので、叙述トリックとはいえないと考えます(→拙文「叙述トリック概論#叙述トリックとは [6]叙述トリックと信頼できない語り手」を参照)が、添付ファイルとメール本文を並べた叙述の形式によって人数を誤認させる部分は、叙述トリックといっていいでしょう。
*11: 逆に、まだ真相を見抜いていないはずの春菜の視点で、“いずれも魅力的な五人の少女の写真、としか見えなかった。”
(150頁)と表現されているのは、やや作者が気を使いすぎているようにも思えますが……。
*12:“亜紀の与太話じゃあるまいし”
(150頁)から始まるのは少々ひどい気が(苦笑)。
*13: 「阿津川辰海・読書日記」の「第118回」では、この作品について“アンフェアすれすれ。しかし、ここまでやったら、あまりにもフェア。 ”
と評されていますが、個人的には“すれすれ”とも思いません。
*14: 一人称の地の文の中でも、引用に近い新聞記事の内容であれば、視点人物の内面描写/知覚を通した描写よりも信頼性が高いと考えていいのではないでしょうか(もちろん、新聞記事も“視点人物が目にした”という形で書かれるわけですが、そこまで疑ってしまうと何も信頼できなくなるので、(ひとまず)事実として扱うのが妥当でしょう)。
*15:“ステファニーちゃん”
(142頁)・“凪ちゃんと久美ちゃん”
(144頁)の三人は、メール本文に登場しています。
- 「サンクトゥス」
舞台からの消失の機会の問題を考えると、吉野先輩の父親ならずとも替え玉を疑いたくなるところです(*16)が、“吉野先輩”が舞台で見せた数々の傷跡が最大のネックとなるのは確か。しかして、体の一部分にだけスポットを当てていくことで、両腕・両足・背中の傷を五人で分担する、“五人一役”のトリックがまずよくできています。
で、正直なところここから先は、初読時には劇の展開に頭がついていかなかった(恥)(*17)……のですが、最もわかりやすい清原先輩に焦点を当てて考えてみると、両腕と両足を見せたので当然“背中の担当”のはずが、
“傷だらけの背中”
(195頁)が見えたすぐ後に、梯子の上で“みんな同じ制服、結構じゃないの”
(195頁・204頁)という台詞を発したことになるわけで、“五人一役”だけでは不可能状況が生じてしまいます。それを打破する、“五人一役+一人五役”(*18)のトリック――五人の声色を使い分けた亜紀の超人的な大活躍(*19)が圧巻。「国境のない国」で葉子の声色を披露している(80頁)とはいえ、いささかやりすぎの感もないではないのですが、冒頭から
“七色の声の女”
(169頁)と、ぬけぬけと宣言されているので納得せざるを得ません(苦笑)。ということで、
“照明が落ちて真っ暗になる”
(194頁)ところから始まる盛大な叙述トリック――言動の主体が亜紀自身であることを徹底的に伏せて、“それは岩館先輩の台詞だ。”
(194頁)などの語りで先輩たちの言動だと見せかけるトリックは、“信頼できない語り手”
(169頁)の真骨頂といったところですが、「夏の夕のポリリズム」での“一人称談義”(155頁~157頁)がある種の伏線となり、これだけ忙しい中では描写の“省略”があっても仕方ない(?)と思わされてしまう(*20)のが巧妙です。謎解き役となった葉子が、“信頼できない語り手”と対になる
“信頼できる読み手”
(219頁)の役割を振られている――亜紀の“語り”を“読んで”こそいないものの、読者に近い立場で謎が解けることを示しているといえます――のが面白いところですし、“消えもの”
(219頁)というオチ(*21)も決まっています。また本筋ではありませんが、“アラワシコーギョー”
(181頁)のあの人や、“今はなかよしだけどね”
(212頁)という一言にもニヤリとさせられる(*22)ところで、全体的にみて本書の中で最も愉快なエピソードといえるでしょう。*16:
“信用してるさ。演劇部って奴を。”
(201頁)という一言が、何とも魅力的です。
*17: 実のところ、葉子による謎解きにも若干の混乱があります。劇中では“左腕”
(194頁)→“右腕”
(195頁)の順だったのが“最初に右腕”
・“次に左腕”
(いずれも214頁)になっていますし、最後に背中を見せたのは大道具の“水樹”
(205頁)だったはずが、“最初と最後に腕と背中を見せた織田と松苗”
(214頁)とされています。
*18: “一人二役+二人一役”のトリックは前例があったような気がしないでもないのですが、残念ながらまったく思い出せません。
*19:“あんたは引っ込んでな、一言も喋るんじゃないよ”
(200頁)という何気ない、そしていかにも亜紀が受けそうな(失礼)内田先輩の注意が、必要かつ的確な指示だったことにうならされます。
*20: 亜紀自身による、“そんな忙しいことをしながら自分のやってることを描写したりできないもんね”
(156頁)という大胆な犯行予告(?)があるのに脱帽です。
*21: これについても、伏線として事前に説明されている(190頁)のがお見事。
*22: (一応伏せ字)『空耳の森』に収録された(ここまで)某作品を読んでいれば。
- 「その走り抜けた一瞬」
重要な人物である二人の正体はぎりぎりまで隠してあります(*23)が、それでも『刹那の夏』を読んでいれば、そちらに収録された「千夜行」の後日談(*24)であることが次第にわかってくるので、より緊張感が高まっていきます。正確にいえば後日談だけではなく、「千夜行」の本篇と「エピローグ」の間の出来事が補完されているのが注目すべきところで、南浦暖野が七海学園を経由していたことに驚かされました。
さて、吉田理水のレースからの消失そのものは、トンネルの暗闇にまぎれて離脱するとともに、南浦暖野と二台目の自転車で実況係の亜紀と勝弘になりすまし、爆竹を鳴らして現場が混乱している隙に(*25)脱出する、海王さんいわく
“稚拙で無謀な計画”
(277頁)ではあります。しかし、トンネル内で亜紀と暖野が違う自転車に乗り込んだアクシデントが効果的で、爆竹の音が勝弘の“後ろ”
(263頁)で亜紀の“前から”
(264頁)聞こえた不可解な状況もさることながら、“女子の高らかな笑い声”
に続いて“あわてた声は紛れもなく勝弘だ。”
(いずれも253頁)と、勝弘とセットになることで、爆竹を鳴らした“女子”がまさか亜紀でないとは考えられなくなっています(*26)。そして発覚を遅らせるための仕掛けが、身体の前後のゼッケンを利用した“一人二役”で、アトムの
“お前は前だけ見てろ”
(237頁)、そして理水の“本番では後ろを見るな”
・“真直ぐ前だけ見て走り出せ”
(270頁)という指示が、駅伝としては違和感がないのがお見事。と同時に、短期間しか七海学園にいなかったにもかかわらずアトムを“共犯”として引き込んだ、暖野の影響力の恐ろしさが伝わってきます。結末では、いわば“レースに勝って(相手は違うものの)勝負に負けた”中村華の涙が印象に残りますが、事情を知らないウランの“脳筋”気味(失礼)の反応が、何ともいえずいい味を出しています。
*23:
“――ミウラさん”
(260頁)が絶妙です(直後のワーグナーでほぼ明らかになりますが)。また、比較的ありふれた“吉田”という名字も、ここまで計算されたものだったのではないかと考えられます。
*24: 〈七海学園シリーズ〉の読者であれば、「千夜行」の“施設”の様子をみて桜沢実践学校を想起してもおかしくないのはもちろんのこと、「千夜行」の冒頭には“冬の駅伝大会に向けて”
と伏線が張られています。また、“北京でオリンピックがあった”
(いずれも同書143頁)――すなわち2008年の物語であることも伏線といえます。
*25: これは当初の予定ではなかったようですが(276頁~277頁)。
*26: もちろん、“亜紀のバカ、なんてことを。”
という葉子の独白――「夏の夕のポリリズム」と同じく一人称の地の文の“嘘”――も強力ですし、最後の“自転車の荷台に亜紀の後ろ姿”
――こちらは“嘘”ではない――というダメ押しもお見事です。
- 「わたしがあの人を殺した」~「わたしがいなくなった世界に」
まず“鏡の国”の真相は、葉子の“双子の家説”を発展させたともいえる、対称的な構造のもう一つの部屋(*27)だったというもので、“対話”の中では文の左右盲のせいもあってか、二つの部屋の描写――少なくとも
“一階に部屋が二つ。”
から“二階へ続く階段。”
(285頁/297頁~298頁)までがまったく同じになっていることで、真相が見えにくくなっているのが巧妙。その“対話”の中にも、佳音が指摘する(361頁~362頁)ように左右対称の手がかりが埋め込まれていますし、“隣り合った二つの玄関を持つ(中略)「二軒長屋」”
(314頁~315頁)というのも有力な手がかりです。続いて解き明かされるのが“わたし”の謎ですが、解明に至るまでに多数の伏線/ヒントが用意されている――巻頭のエピグラフ(*28)に始まり、「プロローグ:ある対話」の最初のやり取り(*29)、「遠い星から来た少女」での春菜の
“わたしって誰?”
(11頁)という自問、「夏の夕のポリリズム」での春菜と佳音の“わたし”をめぐる会話(153頁~155頁)、さらに“わたし”の違いを利用したトリック、裕美が指摘した視点の揺れ(356頁~357頁)、そして解明の糸口となるサミュエル・ディレイニー『バベル-17』(*30)――ので、文がいう“わたし”が文自身ではないことは、予想できてもおかしくはないかもしれません。そして、文が自分以外の人物を“わたし”と呼んでいたことで、“見えない大人”の存在が隠されるトリックが秀逸。「夏の夕のポリリズム」での過去の真由子の誤認と同様の、“わたし”についての文の認識のずれを発端として利用して、文がいうところの“わたし”の存在を隠匿する叙述トリック(→拙文「叙述トリック分類#{A-3}人物の隠匿」)で、とりわけ“一人称に見せかける”某作品(*31)の仕掛けに近いものになっているのが注目すべきところです(この段落、2026.03.30修正)。
文の父親を殺した“わたし”が文の母親というのは妥当ですが、過去の事件なので犯人が明らかになるところ止まりかと思いきや、その犯人が調理ボランティアの山本一実として序盤から登場していたことにまた驚かされます。と同時に、やけに力が入れられていながら謎解きの前半では不発気味(?)だったシンメトリーネタ(*32)が、ここにきて重要な手がかりとなってくるのに脱帽で、クッキーのローマ字の
“TOUFU”
(310頁)と“HUYOU”
(311頁)の使い分けもお見事です。さらに、(“幕間”と題されているだけあって)本書の中では浮いている感のあった「夏の夕のポリリズム」が、思わぬ形で本筋につながるのに仰天。“末吉美央里”のシンメトリーにはまったく気づきませんでしたが、“山本一実”が美央里だとすれば、なぜか屋上の鍵を開けることができたのも納得ですし、学園の屋上からの風景を
“わたしは見ていた”
(37頁)のはもちろんのこと、前の園長先生の口癖を“わたしは聞いた”
(101頁)というのも、学園にやって来た実央里が“花だんの手入れをしている園長先生に話しかけて”
(130頁)いたから、ということになります。亜紀の思わぬ大活躍で事態は収束します(*33)が、後に明らかにされる
“両親は姉を連れて消息を絶った。”
(411頁)という亜紀の過去を踏まえると、太字で表現されている“つれてって”
(403頁)という言葉も、“山本一実”だけに向けられたものではないように思われて、一層強く印象に残ります。“対話”の時点での
“わたしがあの人を殺した。”
(303頁)から、“わたしが、殺した。文が殺したの”
(350頁)で“わたし=文自身”となってそれまでの“わたし”(母親)が“わたし”ではなくなり、最後に“わたしの――お母さん”
(405頁)と呼ぶところに、文の成長がはっきりと表れており、感慨深い結末となっています。*27: 某国内作品((作家名)泡坂妻夫(ここまで)の短編(作品名)「曲った部屋」(『亜愛一郎の狼狽』収録)(ここまで))を思い起こさせるところがあります。
*28:“かつてわたしは、自分を「わたし」としてではなく、はるかに遠い存在の「彼女」としてしかとらえることのできない人間だった。”
(2頁)。
*29:“《誰と住んでいたの?》”
という問いに対する“あの人とわたし。”
(いずれも5頁)という返答が正確だとすると、話者は“あの人”と“わたし”と一緒に住んでいた、と解釈できます。
ちなみに、(以下伏せ字)『刹那の夏』(ここまで)をお読みになった方はお気づきかと思いますが、これは(以下伏せ字)「わたしとわたしの妹」の最初の日記――“わたしはまりあです。あとおとうさんがいます。(中略)あとおかあさんがいます。(中略)あとはあたしです。”
(同書205頁)とほぼ同じ仕掛け(ここまで)になっています。
*30: 『バベル-17』の内容を知らなかった(351頁)春菜(恥ずかしながら私も未読です)が、佳音が説明しなかった“『バベル-17』には『わたし』って言葉も概念もない”
(365頁)ことを知っていたかのような謎解きになっているのは、作者の勇み足でしょうか。
*31: 1990年代の国内作家“Y”の長編(→(作家名)依井貴裕(ここまで)の(作品名)『歳時記』(ここまで))です。
*32:“イマミチマミとかイマイチアミとかじゃなくて?”
(336頁)は意味がわかると笑ってしまいましたし、“お馴染みの先生が異星人だった”
(338頁)にも苦笑を禁じ得ません。
*33: 葉子が泣いたのは、亜紀に“うっせーな、屋上から落ちろ”
(14頁)と憎まれ口を叩いてしまったこともあるのではないかと思われます……が、よくよく考えてみると、春菜の前でこれを口にするのはちょっと……。
- 「もう一つの対話」
“殺人を告発するメッセージ”とはいうものの、
“あなたは、あの人を、殺した”
(223頁)という具体的な内容がようやく示される(*34)のは、物語も後半、「幕間II」の終わりになってからで、“アレ”との関連が容易に見えにくくなっているところがよく考えられています。また、「第一話」では夜希子経由で父親に、、「第二話」ではアヤナに、「第三話」では文に、そして「第四話」では暖野に――という具合に、それぞれに“心当たり”がないでもない人物に届いているのもうまいところです。 そして、学園理事の“貴婦人”こと元カフェ・ヴァーミリオン・サンズのオーナー(*35)が容疑者として浮上するのが強烈。あまりにも意外すぎる容疑者なのはもちろんですが、その素性が明らかになってみると、文の部屋にメッセージを置く[機会]にとどまらず、告発のための情報を入手する[手段]、そしてある種愉快犯的ともいえる[動機]まで兼ね備えているわけで、見事な“ダミーの犯人”となっているところがよくできています。そしてそれを、
“十二文字”
(346頁)という手がかりでひっくり返す手際も鮮やかです。実をいえば、原稿用紙の体裁の「送る言葉 裕美」(62頁~63頁)を目にした時点で、“あ・な・た・は”と“わ・た・し・は”の文字列を見つけたのですが、そこから先が進まず途方に暮れてしまいました(*36)。ここで示された原稿用紙のフォーマットと、「夏の夕のポリリズム」の中で紹介されているユリのバージョン(124頁)とを組み合わせればメッセージが浮かび上がるものの、序盤も序盤での
“ユリのバージョンもある”
(17頁)という一言を覚えておかなければ気づくのは困難で、なかなか巧妙な見せ方だと思います。メッセージの再三の出現については、暖野が受け取った
“『ようこそ七海学園へ』”
を“裏返してみたら”
(242頁)メッセージが現れたことが最大の手がかりで、印刷ミスを“裏紙で使えば”
(171頁)(*37)と考え合わせると、プリンタの動作の説明(309頁)を待たずとも、おおよその見当はつくのではないでしょうか。春菜が指摘しているように、メッセージが最初に学園内で見つかった際に、アヤナはエリカは
“変な紙”
と表現しているにもかかわらず、裕美が“エリカはその手紙見たの?”
(105頁)と口にしているのは確かで、メッセージが学園にいない人物に宛てた告発の手紙であることがわかります。作中で描かれている裕美の人物像、そして何より春菜が生きていることからすると、思いのほか厳しい裕美の態度に驚かされますが、“結果よりも、殺す意思があったっていう方が悪い”
(84頁)という考え方からすると、“結果”はどうあれ“あの瞬間、あの人が春菜さんにかけた手は血に汚れた。”
(422頁)、というのも無理はないかもしれません。最後に裕美は、春菜が生きていることを知らせる新たな手紙を書くことを決意したようですが、それがいつ届くかわからない“郵便事情”(426頁)が絶妙で、結果が不確かなまま終わることである種の余韻がもたらされているように思われます。
*34: しかもこの期に及んで、
“一言ずつ区切りながら”
(223頁)という形で、若干とはいえ字面を違えてある徹底ぶりに頭が下がります。
ついでにいえば、「目次」の時点で明らかになってしまわないよう、「幕間III」の題名を「***は***を殺した」と伏せ字にしてあるのも周到です。
*35: いうまでもないかもしれませんが、カフェ・ヴァーミリオン・サンズは『アルバトロスは羽ばたかない』の重要な舞台の一つです。
この人物がまさかこのような形で再登場してくるとは思いもよりませんでしたが、佳音との関係がよくわからないという方は、「発音されない文字」(『空耳の森』収録)をお読みください。
*36: 前述のようにメッセージの内容が明かされるのがかなり遅いので、この時点では“あなたは”・“わたしは”に意味があるのかどうかすらわからないのも困ったところです。
*37: ここで亜紀がいう、急に入所になった“中三の子”
は暖野のことで、歓迎メッセージの印刷に予備のカセットの裏紙が使われた(であろう)経緯まで、しっかりと説明されているのがすごいところです。
最後に、本書とともに『刹那の夏』もお読みになっている方は、(蛇足かもしれませんが)こちらをご覧ください。
2025.11.24読了