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 作品論  
「動かぬ女」の行く末
        ―「ゆく雲」試論―

杉山武子                                     


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「ゆく雲」は明治二十八(一八九五)年五月発行の『太陽』第一巻第五号に掲載された短編小説である。しかし その前後に立て続けに発表された 「おおつごもり」「にごりえ」「たけくらべ」という作品の狭間にあって、目立たない場所に位置している。「ゆく雲」 の題名と主題は、日記の「忘られて、 忘られはてゝ、我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」(「塵之中」明治二十六年七月二十日)から着想された ものであることが、日記を読む人には 容易に気付かされる。

この稿を書くにあたって、私の手の届く範囲で「ゆく雲」に関する情報にあらためて触れてみた。そこで私が得た のは、古くは湯地孝が「ゆく雲」を、 進歩を示した作品として一定評価し、和田芳恵は代表作のひとつにあげていたことである。近年では「ゆく雲」 の最後の一行を「観音様の感想」 (岡保生「『ゆく雲』論」)と見る見解や、お縫と桂次のモデルをめぐる諸説、作品の中で重要な役割を占める 桂次からお縫への「手紙」に注目した論 (菅聡子「樋口一葉『行く雲』試論―心のゆくえ」)、最近では「桂次の演ずる悲しい別離と彼の心がわり」と 「お縫いの抱える孤独と虚無感」の二重構 造になっていると指摘する論(山本欣司「樋口一葉『ゆく雲』論―「冷やか」なまなざし」などがあることを知った。

また題名が示しているように、この小説の基調は流れゆく雲のような恋のはかなさであり、桂次の心変わりである。 本来ならばそういう研究成果を熟知し、 踏まえた上で「作品論」を書くべきであろう。しかし、いまさら自分の無学を嘆いてもはじまらない。

一読者として繰り返し一葉の「日記」を読み、さらに小説作品群を読んで感じるのは、その両者が常に合わせ鏡の ような関係にあることである。おたがい を映し、照らし出して、そのあわいから一葉という女性像が立体的に立ちあがる仕組みになっている。一葉は意図 せずにいただろう。しかしそれは死んで のちに発火する、巧妙に仕掛けられた時限装置のようにも私には思えるのである。

作者の伝記的な側面から作品を読み解いたり、作品からことさら作者像を想起する読み方は、本来好ましくないだろう。 しかし一葉の作品に限っては、 私は「日記」を併せ読んできた。なぜなら一葉の「日記」は、明治初期の若い女性が、限られた行動範囲の中で見、 聞き、考えたことの、たくさんの栄養が 貯えられた土台をなしているからである。その上に小説作品が芽吹き、花開いたと私は考えている。一葉という筆名 で書かれた小説と、一貫して実名で書 かれた「日記」。書く行為への執念を一葉はどう小説と日記とに書き分け、それぞれに何を託したか。それを一葉に 問い自分にも問うてきた。その読者とし ての視点を捨てては一葉を語れない私は、自由な発想で「ゆく雲」について考えてみたい。

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 「ゆく雲」は早くには馬場胡蝶が、一葉の身辺の人物と事実を材料にした作品であろうと指摘している。東京での 遊学ののち山梨県大藤村の養家である 野沢家に戻り、そこの娘お作と結婚して造酒家の家督を継ぐことが決まっている野沢桂次のモデルとして、野尻理作 や渋谷三郎、馬場胡蝶の名があげら れている。また桂次が世話になっていた上杉家の娘お縫は、一葉の妹邦子であるなど、モデル探しの材料には 困らない。確かに一葉の作品は実体験に 材をとって書かれていることが多い。誰彼をモデルに当てはめてもある部分当たっていようし、外れてもいよう。

野沢桂次の語る大藤村は、一葉は実際に行ったことはなくても父母の生地であるから、幾度となく聞かされ知って いる土地。またお縫の家は隣家が 「腰ごろもの観音さま」のある寺としているから、一葉が四歳から九歳まで過ごした本郷赤門前の大きな屋敷が想定 される。このように登場する人物像に しろ場所にしろ、一葉が熟知している設定になっていることから、自伝的要素が随所に感じられる作品となっている。

作品は上・中・下の三部構成となっている。
(上)で東京での遊学を切り上げ養家へ帰ることを余儀なくされた野沢桂次の境遇と、桂次が世話になっている伯父 伯母でもある上杉家の家族関係、 継母に仕える上杉の娘お縫と桂次との出会いが提示される。

(中)では継母育ちのお縫の生い立ちに始まり、お縫の身を案じ別れを惜しむ桂次とお縫の会話が、後半の大部分 を占める。桂次はお縫を思うあまり未来 の妻となるお作のことを悪しざまにいい、上杉家の隣家の観音様に「我が恋人のゆく末を守り玉へ」とお参りする。

(下)は、大藤村に帰る桂次がお縫に熱い思いを告げ別れる場面。お縫はお作を思いやって贈り物を桂次に託す。 桂次はお縫に一生手紙を書き続けると 約束するが、お縫は何も言わず涙をこぼすばかりだった。

後段は語り手の独壇場である。「世にたのまれぬを男心といふ」に始まり、「一生は夢のごとし」「はかないの上なし」 と人生を達観した言葉が続く。桂次が 約束したお縫への手紙も、月三四度が一度になり、やがて半年、一年に一度と遠のき、年始と暑中見舞の葉書だけ となってしまう。お縫は相変わらず継母 に尽くす毎日を送っているが、「ほころびが切れてはむづかし」という印象的な一行で終る。

「ゆく雲」には桂次を取り巻く、三人の境遇の異なる女性が登場する。
桂次がのぼせている上杉家の娘お縫は、継母に「もの言へば睨まれ笑へば怒られ、気を利かせれば小ざかしと」 言われ、「ひかえ目にあれば鈍な子と 叱られ」ている娘。訴えようにも実の父の心は「鉄(かね)のやうに冷えて」いる。そのためお縫は見るからに遠慮 がちでおとなしく、「十が七に見えて三分 の損」があるような性格。これは継母育ちにもいろいろあって、「しゃんとせし気性ありて人間の質の正直なるは、 すね者の部類にまぎれて其身に取れは 生涯の損おもふべし」と語り手が例える部分と呼応する。

お縫がせっかく真っ当に育っても、その先の人生は頭から割引かれているのも同然。お縫の落ちつきも冷やかさも、 継母育ちからくる後天的なものである。 お縫の本来持っていた若々しい芽が十分伸びず、押さえつけられたままである。しかしお縫はまだそれに気付いて はいない。

桂次から見た伯母、つまりお縫の継母は「口先ばかりの利口にて誰につきても根からさっぱり親切気のなき、 我欲の目當てが明らかに見えねば笑ひかけた 口もとまで結んで見せる現金の様子」「上杉という苗字をば宜いことにして大名の分家と利かせる見得ぼうこの 上なし」と散々な性格。その上お縫の継母に なったいきさつも、「父親が上役なりし人の隠し妻とやらお妾とやら」「難物のよしなれども、持たねばならぬ義理 もありて引きうけ」たという、いわくつきの女性 である。

お作は、大藤村の造酒家野沢家の一人娘で、ゆくゆくは桂次の妻となる「無地の田舎娘」。それを不運とも思わ なかった桂次も、最近では送ってきたお作の 写真を見るのも嫌で、いっそ「頓死」してくれればいいと口走る。継母の想像では、お作の容貌は「横巾ひろく長 (たけ)つまりし顔に、目鼻立ちはまづくもある まじけれど、ビン(原文は漢字)うすくして首筋くつきりとせず、胴よりは足の長い女」とか。

口の悪い伯父伯母夫婦は、桂次のことを「容貌のわるい妻を持つぐらゐ我慢もなる筈、水呑みの小作が子として 一足飛のお大盡なれば」と出自まで持ち出し 陰で嘲っている。それを聞いたお縫は桂次を気の毒に思う。

お縫と桂次とお作は三角関係のようであって、そうではない。桂次の親切が嬉しくはあっても、その熱っぽさに対 してお縫いはあくまで「冷やか」で儀礼的な 態度を崩さない。自分の感情を表に出して軽はずみな行動をすれば、上杉家に「やかましき沙汰」を引き起こす ことをお縫は十分知っている。「木にて作られ た」ように見えても、お縫は自分の幸福より人の幸福を願うような娘である。だから大藤村の造酒家の家督を継ぐ 桂次の身の上を尊重し、「頓死」すればいい とまで桂次に嫌われるお作をかばいさえする。お縫は、好かれてもいない人の妻に定められたお作の身の上に、 自分と同じ理不尽な境遇を重ね合わせて同 情している。お縫はお作を恋敵とは思っていない。

上司のお下がりとして上杉家の後妻におさまり、奥様気取りのお縫の継母の性情は、三人の女性の中では一番 際立っている。男を変えていきながら、 口先上手で我欲と見栄を武器に世渡りをするその姿は、どんな時代であれ、押し込められた境遇から這い上が ろうと、したたかに生き抜く女性の一典型 であろう。それを仮に「動く女」としよう。

それに比べるとお縫もお作も動かない。受身だけの、自分の境遇に従順な女との印象が否めない。お縫は継母 の仕打ちに耐えかねて井戸に手を掛けたり するが、思いとどまり「一筋に母様のご機嫌、父が気に入るやう一切この身を無いものにして勤むれば家の内なみ 風」も起こらないと内向していく。桂次にも 冷やかな態度しか見せない。しかしお縫がそこまで自分の感情を殺して生きていても、語り手は「これを世間の 目に何と見るらん、母御は世辭上手にて人を 外らさぬ甘(うま)さあれば、身を無いものにして闇をたどる娘よりも、一枚あがりて、評判わるからぬやら」と、 手厳しい。そこには自分の感情を封じて境遇に 殉じて生きる「動かぬ女」の行く末が、何やら暗示されてはいないだろうか。

大藤村のお作も与えられた境遇の中で生きる「動かぬ女」である。家付き娘として親の決めた結婚に従い、 子をなし、造酒家の奥様として采配をふるい、 一生そこを動かないであろう。先が見える分、お作にはまだ救いがある。

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桂次の雄弁に対して、お縫の「冷やか」な態度は不自然である。その原因が継母の存在にあったことは先に述べた。 お縫は世間の悪い噂を恐れるあまり、 死ぬことすらできないが、そんな世の中を生きても「人並のうい事つらい事、さりとは此身に堪へがたし、一生五十 年めくらに成りて終らば事なからん」と、 孤独な上に虚無的にすらなる。それよりは家の安穏のために自分の感情を殺して生きようと、お縫はあえて岩木 のような生き方を選んだのである。

桂次はお縫に東京での自由な暮しへの未練と田舎の生活への不満を並べたてる。さらにお縫に熱い胸のうちを 告げるが、その言葉はどこか上滑りしている。 故郷に帰りたくない口実に、お縫の「冷やか」な気持をことさら掻き立てているようにも聞こえる。いよいよ帰郷する 際、桂次はお縫に

   我れは唯君の身の幸福なれかし、すこやかなれかしと祈りて此長き世
   をば盡さんには隨分とも親孝行にてあられよ、母御前の意地わるに逆
   らふやうの事は君として無きに相違なけれどもこれ第一に心がけ給へ
     (中略)
   我れは世を終るまで君のもとへ文の便りをたゝざるべければ、君より
   も十通に一度の返事を與へ給へ、睡りがたき秋の夜は胸に抱いてま
   ぼろしの面影をも見ん

と言って、男泣きに泣いて見せたのである。それを見てお縫のほろほろと流す涙は、桂次の言葉に深く心を動 かされたことを物語っていよう。語り手は 「此時こんな場合にはかなき女心の引入れられて、一生消えぬかなしき影を胸にきざむ人もあり」と、恋を知り 尽くしたかのような口ぶりである。桂次か らの便りは、継母に仕えて生きるお縫の孤独な心の支えとなり、桂次と精神的に結ばれた絆ともなったのである。

しかし桂次からの手紙は、半年も経たないうちに急速に途切れていく。語り手は「思へば男は結髪(いいなづけ) のある身」「浮世の義理をおもひ断つほどの こと此人此身にして叶ふべしや」「やがて父とも言はるべき身なり、諸縁これより引かれて断ちがたき絆次第に ふゆれば」と桂次を弁護しているが、桂次が あれほど嫌がってみせた旦那様の身分も案外悪くはなく、お作も実際には桂次に尽くすいい女房であったろう ことを暗に物語っている。

「手紙」は重要な役割を持ってはいるが、その内容も「數々思ひ出の詞」とあるだけで、手紙文そのものは作中 には出てこない。しかもお縫からの返書に ついては何も書かれていない。お縫は桂次の言いつけどおり継母に逆らわず、桂次からの手紙をただ待っている。 桂次からの手紙は少なくとも十数通は 超えているのに、一度の返書も出さなかったであろうお縫は「動かぬ女」のままである。

そんなお縫を静かに見ているのが、隣家の寺の「腰ごろもの観音様」である。この観音様は桂次が「我が恋人の ゆく末を守り玉へ」と拝むまでもなく、お縫の 幼少時代からずっとお縫を見守ってきたのである。届かぬ便りを待つお縫の身の上を、「若いさかりの熱」と柔和 な顔に笑みを浮かべて憐れんではいても、 観音様は何も言わない。語り手はそんな観音様のまなざしにも注目して、登場人物たちを俯瞰しているかのようである。

「ゆく雲」は確かに恋のはかなさ、男心の変わりやすさを描いてはいるが、それだけがこの小説の主題だろうかと 私は思う。語り手は桂次の恋を「時のはづみ 」「男傾城ならぬ身の空涙こぼして何になるべきや」と突き放している。はかない恋のその先を、語り手は見ている。

最後の一行「ほころびが切れてはむづかし」も、あとに余韻を残す言葉である。桂次とお縫を結ぶ「絆」はほころび、 切れてしまったから、お縫はもう家の安穏 のために生きるのは難しいだろうと。見方を変えれば、お縫は「身をない物」にして生きる必要はもうないのである。 お縫は継母からも桂次からも自由になった、 と読めないだろうか。

語り手は「冷やかのお縫も笑くぼを頬にうかべて世に立つ事はならぬか」と問うている。ほころびが切れた先にお 縫の「狂気」を見る人もあるが、私はそ こまで一足飛びには考えられない。お縫が桂次に見切りをつけ、本来の活発な自分を取り戻せるかどうか。語り手 はお縫に、境遇に殉じる「動かぬ女」 からの脱却を暗に求めているのではないだろうか。それができなければ、お縫はついに「闇をたどる娘」のまま、 はかない一生を閉じるしかないのである。

国文学『解釈と鑑賞』 第68巻5号所収(2003年5月1日発行)


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