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 会社が問題としている具体的な箇所について、私は説明を受けていない。処分についての明確な理由と根拠が示されないのはおかしいし、今後の基準にもならないから、具体的な根拠を教えろ、と「質問状」を送った訳だが、とても社外に向けて説明できるような合理的な理由などあるはずもないので、文書で明示するなどとんでもない、という訳だろう。完全に逃げている。2月17日に脅迫を受けた際にも、「どこが問題なのか具体的に教えてくれ」と聞いたが、編集局総務の丹羽と法務室の森は「全部だ」と開き直り、訳の分からない回答しかしなかった。だから議論が8時間超も続いたのである。社長の鶴田よ、世間に言える理由があるなら文書で回答してどうどうと見せよ。

 以下は、会社が問題としていると推測される箇所であるが、これが全てではない。私は文章を書くのが好きなので、コンテンツはタイトル数で150程度はあったし、そのうちの半数は、政治に関するもの、学生時代の論文、旅の途中で書いたもの、書評等々の会社と関係のないものであった。会社はHPの全面閉鎖だけでなく、私に「自宅のパソコンにある文書も消せ」と命じてきたが、ほとんどは知人にメールで送付しているため、かなりの修復が可能だった。ただ、当時の全ての文書は揃っていない。当時を完全に再現できないのは残念である。会社は証拠として当時のページのコピーを全て保存しているだろうから、全て世に公開し、そのうちのどの部分がどのように問題なのかを具体的に公開し、是非を問うべきだ。世間から笑われて、その「非常識さ」に初めて気が付くだろう。

例1:記者クラブの「機密を漏らし」「取材上の秘密」にかかわる、とされたらしい文書(就業規則第三十三条の二)

例2:企業との癒着に批判的で「取材上の秘密」にあたる、とされたらしい文書(会社は就業規則ではなく「鉄則だ」などと主張している)

例3:「会社の経営・編集方針を害した」とされたらしい文書(同第三十三条の一)

例4:「責任者の命に従わない」、反抗的だ、とされたらしい文書(同第七十一条の一)

例5:「機密を漏らした」「流言した」とされたらしい文書(同第三十三条の二、第三十五条の二)

 


例1:記者クラブの「機密を漏らし」「取材上の秘密」にかかわる、とされたらしい文書

掲載時期:96年春(当時の原文そのまま。文章が拙いのはお許し下さい。以下同文。)

「県警記者クラブ事情」--その実態-- 

 どういう訳か、新聞記者のほとんどは、地方の警察担当からスタートを切る。私もその例に漏れず、福岡県警の記者クラブを拠点に事件や事故に追われる毎日を送っている。 

 県警本部、午後二時。夕刊も刷り終わり、朝刊までは時間がたっぷりある。夕刊が配達される午後三時半ごろまでは、少し気を抜ける。県警本部の記者クラブ室は、建物の一階、かび臭く目立たない所にある。中は、共有スペースにソファーやテレビ、冷蔵庫などがあり、残りのスペースが、各社ごとのブースに分かれている。

 昼飯を食べ終わった記者たちが、ソファーで寝ている。普通、記者クラブには、横になれるソファーと毛布、枕があり、記者たちが仮眠をとるための用意ができている。カンジュースの自販機、テレビやお茶コーナー、そしてマージャン卓に囲碁卓。談話室などという部屋もあって、二段ベッドまである。シャワー室まで使える。

 担当のおばさん(県警職員)が毎日ゴミ箱や灰皿を掃除してくれ、昼前になれば「昼食はどうしましょうか?」と聞きにきてくれ、頼めば弁当を届けてくれる。
 昨年、全国の各署別の一一○番通報件数で、ベスト二とベスト三が、福岡県内の西署と東署(一位は那覇署)。福岡はそれほど、事件、事故が多いようだ。そのせいか、記者クラブ日経ブースのファイルやスクラップ帳では「暴」の字を良く見かける。暴力団、暴走族、校内暴力、婦女暴行、そしていじめによる暴行。

 日経ブースの壁には、銃の種類が解説されている「犯罪拳銃の基礎知識」、逮捕から送検、起訴までの流れをチャートで図にした「逮捕から夢の二十二日間」、そして「この顔見たら一一○番」の数々のポスターたち。昭和時代のものまでが、所狭しと貼られている。

 記者クラブに突然入ると、タイムスリップした気分になる。ここだけ時間の流れが遅いのではないか、とも思う。外界での情報化の波にも飲まれず、記者クラブが閉鎖的だと批判されようが、この部屋でやっていることは、ほとんど変わっていないようだ。三年目の先輩の話では、手書き原稿が完全になくなったのは、つい三年前の話だとか。

 県警記者クラブでの基本的な仕事は、広報担当官が記者クラブ内でアナウンスする発表(主に事件や事故)を、同時に配布されるペーパーをもとに記事化する作業だ。わからない箇所は、二階に上がって、それぞれ担当の課の管理官(副課長)に尋ねたり、管轄の署に電話取材をかける。大事件の逮捕者が出ると、記者クラブ内に併設された部屋で記者会見が開かれる。個別に記者に対応するとキリがなく、能率が悪いという事情もある。よくテレビに映っている記者会見のシーンは、大抵が記者クラブ内にある会見室での出来事だ。

 そして、一ヵ月に一度は「懇談会」と称して、暴力団に対する方針やら、暴走族対策などについて、部長クラスの担当者が、会議室で、クラブ員に対してレクチャーをする。「今度、封鎖ネットを利用して効果的に暴走族を取り締まるが、ネットに引っかかって事故が起きるかもしれない。そこばかりを取り上げて強調した記事を書かないでほしい」などといった感じだ。
 警察側としても、仕事を円滑に行うために、報道機関との連携プレーを重んじている。例えば道路の混雑が予想されるならば、電車や徒歩を呼びかける報道によって、警察も交通整理が楽になるわけで、その効果は馬鹿にできない。

 夏になればホテルのビアガーデンを会場に「暑気払い」と称した県警本部詰め記者と本部長以下各課長職以上との飲み会がある。県警本部だけでなく、「社会正義を語る場」などといって、年に数回、各署ごとに記者と署長以下課長クラスとの懇談会も設けられている。
 こうして、記者クラブ内の記者と警察は、閉鎖的な世界を築いていく。

 この代々受け継がれてきた閉鎖的な空間は、確かに体制側にとっては能率的だ。邪魔者は完全にシャットアウトされており、広報担当者が体制側情報だけを効率よく流す。突発的な事件が起きて記者会見があるとなれば、まずは記者クラブ室に情報が入り、そこに記者がいない場合は、加盟各社へ電話連絡されることになっている。情報が必ず入る仕組みである。
 そぞろ不思議な空間で、それなりの緊張感もあり、ここにいるだけで仕事をしているような錯覚に陥りやすい。しかし、ここにいる限り、実際には県警の広報部と言ってもいいくらいの仕事しかできないのも確か。
「私は違和感はないです。なにか起これば、みんなそれぞれ外に行って取材してくるんだから、これが能率的でいいんですよ」と記者クラブ担当の広報官は言う。だが、それは体制側の論理だ。

 確かに、警察を監視する意味で、常に近くにいる意義も無視できない面がある。しかし、現状では、ほとんど事実関係に限っては警察発表を鵜呑みにして報道しており「福岡県警〜課は〜したとして、〜を〜容疑で逮捕した。調べによると、〜疑い」という決まった形に当てはめるだけで、警察広報の事実関係について疑うことは、まずない。記者が現場に行って検証するのは相当に大きな事件に限られるし、全ての現場に行く暇はない。容疑者サイドからの情報はシャットアウトされており、新人は警察側からのみの偏った情報だけで記事を書くよう教え込まれる。それならば「今日の交通事故死亡者は〜人」というようなデータだけを載せる方がましだ、と思うこともある。

 そもそも、警察のやっていることを報道する必要などないのでは、という論もある。よほどの大きな事件や事故以外で、いちいち水死体が見つかったり、トラックが事故を起こしたり、火事があったり、といった記事を関心を持って読んでいる人がどれだけいるのか、疑わしい。
 地域の安全を守る役割は交番が担っているので、防犯上に必要な情報は、交番の連絡協議会などで吸い上げられ、回覧板などで重要な情報が回る。

 少なくとも、警察の広報部のようなことを民間企業がやる必要があるのか。特に、新聞、通信社だけで七社も八社も県警に常駐し、各署の副署長を尋ね回っては「何かないですか」と朝から夜まで体制側からの情報を集めるいわゆる「サツ回り」に、どれだけの意義があるか、はなはだ疑問を感じる。 警察に都合の悪い情報はクラブにいる限り、入ってこない。つまり、ジャーナリズムにとって最も重要であるはずの「権力のチェック機構」は、ここにいるだけでは働かないのだ。


掲載時期:96年夏           (当時の原文そのままです)
「県警記者クラブを考える」--改革法--

 最近、会社が「記者クラブ費」というのを払っていることを知り、その額に驚いた。県警記者クラブ費として、一人一ヵ月五百円。日経はメンバーを五人登録している(常駐は私とキャップだけだが)ので、一ヵ月二千五百円だ。私は電話などは、思いきり利用させてもらっているが、その金がどこから出ているのかと言えば、勿論、税金だ。制度に問題がある。私は税金を使いたくないし、できるならば会社の経費に含んで欲しい。

 一ヵ月二千五百円で、エアコンの効いた、四畳半ほどの個室に近いスペースを借り切り、ロッカーや新聞受けを使用し、衛星放送つきの大型テレビと仮眠用のソファーを利用でき、ゴミ箱の処理や部屋の掃除、昼食の注文とりといったサービスを受けられるのは、破格の待遇といえよう。これと引き替えに、記者たちは体制側に接見しやすくなり、警察を担いだような記事ばかりを書く。そう考えると警察の広報費としては安いのかもしれない。

 事件や事故が起きると、所轄の各警察署から、県警本部の記者クラブに、逐一、広報文が上がってくる。一日で五枚〜十枚ほどであろうか。それをもとに、取材が必要なら取材し、現場に行く必要があれば行って取材する。それを受けて、クラブにいる記者が記事を書く場合が多い。

 記者クラブの最大の問題点は、その「閉鎖性」だろう。一般市民はまだしも、雑誌記者やフリージャーナリストは記者クラブ規定で入れないのだ。彼等を締め出す正当な理由など、あるとは思えない。多様性を奪い、情報の画一性を高める原因にもなっている。
 例えば、今、手元に道路公団が出したお盆の渋滞予測がある。これはそのまま見れば非常に有意義だが、そのまま乗せるほど紙面に余裕がないので、私がこれを加工する。従って、主要な道路しか紙面に載らない。載っていない道路でも渋滞予測は出ており、そこを利用する予定の人にとっては、日経など、無意味な新聞である。

 事件にしても、現場の各署の担当警官→各署の副署長→県警本部記者クラブ、と既に三次情報となっているものに、さらに記者の誤解可能性が加わる。電報ゲームの理論で、明らかに情報は歪められる。実際、私は事故を報じる記事などで、広報文以外に加えて現場の状況も載せようと副署長を電話取材して書いたものの、実際には事実と違っていたことを何度か経験した。車が「被害者の後ろから来た」と確かに聞いたが、実際は横からだったりしたことがある。
 従って、少しでもこの次数を少なくするためにも、希望者が広報文をじかに受け取れるシステムが必要となる。
 広報文は、希望者全員に送れるようなシステムにすべきだ。広報文は基本的に手書きであり、またファックスの同報機能には限界があるので、ファックス送信を希望する人は、広報官の手間代として、一ヵ月に五万なりのコストを支払うようにする。一方、広報文はすぐさまパソコンでデジタル化し、電子メールの同報機能で、登録を希望した者のところに届くようにする。これは格段にコストが安いので、一般市民でも十分に登録が可能だ。登録費はタダにしてもいいほど安くできる。なにしろ、アドレスをメーリングリストに登録するだけでいいのだから。また、インターネットのホームページに掲載してもいい。
 受け取った広報文に関しての問い合わせ窓口は複数つくり、ランクつけする。市民からの問い合わせで回線が混むと、新聞やテレビが報道できず、市民にとってより大きな損失を生むから、このくらいは、マスコミ優先となっても仕方ない。
 次に、記者会見を行うような大きめの事件の場合。これも、現状の記者クラブ員に限定したものは閉鎖的で良くない。まず、いつどこで会見があるかは、希望者には電話、ポケベル、電子メール等で知らせるようにする。出席する用意がある希望者は、それなりの料金を、エクストラで毎月支払う。会見は、それなりに大きな部屋を用意する。

 そして、やはりテレビの力を利用するしかない。ケーブルテレビで、希望者は全ての会見を中継で見れるようにする。これには、ある程度の公費の投入もやむをえない。ノーカットで見た会見と、テレビで編集された会見では、全く違う印象を受けるだろう。テレビ受けするところだけ放送するのだから、当然だ。誤解を与える。新聞も同様で、面白いところ以外は省かれる。社会部系マスコミ人ほど偏った常識を持っている人種も珍しいので、マスコミから事実を知ることは容易ではない。

 こういった改革のために、税金が余計に使われることはない。記者クラブ室を使いたい社は、今まで通り使ってもいいが、それなりの金額は払う必要がある。月に五万円は払うべきで、電話など通信費は各社持ちにすべきだ。現在、月に二千五百円しか払っていない各社が、正当な使用料を払うようになるのだから、収入はあがる。ファックス送信や電話応答用に、広報官の一人や二人を追加配備しても、三十ほどの会社や人が加盟すればペイすること間違いなしだ。ただ、記者クラブにいる必要がなくなるので、現状の加盟社が脱退する可能性もある。

 県警本部に出入りしたり各課の次長に接見する権利も、現在は記者クラブ員に配布されるバッジが必要だ。これは全員自由にすると混乱を招くので、公益性を考えてランクつけすべきだろう。例え一般市民であっても、理由つけがあれば簡単に会えるようにすべきである。

 こうして、全てがオープンになったとき、新聞記者の無能さが露呈されることになるだろう。記者が会見で無能な質問を連発したら、ただちに糾弾されうる。こうして、記者自身も磨かれていく。

「記者相互の親睦を深める」が記者クラブ設立の大義名分となっているが、何のために親睦を深める必要があるのかが不明だ。日本独特の村意識以外の何者でもないと思う。福岡県警クラブでは、夏になると「暑気払い」などと称して、一社一万五千円も払い、県警本部長以下部長クラスと各警察署長ら二十人との懇親会がある。私も日経代表で出席し、密室性の高さを感じたものだ。

 しかし、問題意識を持っている人間を聞いたことがない。一生、会社にお世話になろうと目論む記者たちにとって、既得権益をみすみす逃す理由はないのだろう。「記者クラブ」という名の朱に染まっても赤くならないくらいの強靭な意思を持つ、独立心の強い記者がもっと沢山いれば、少しは変わっていくのかもしれない。



掲載時期:96年夏           (当時の原文そのままです)
「夜回り」--その志の低さ--

 記者をしていると「いったい自分は、こんなところで何をしてるんだろう」と思うことが多々あるが、それを特に感じるのが「夜回り」や「張り番」の仕事をしている時だ。

 張り番はガルーダ機事故の時ずいぶんやった。機長が入院している病院の中で、連日、県警の事情聴取があるため、出てきた捜査官から何を言ったかを聞くためだ。こういった昼間の張り番くらいならまだ明るくて「まし」なのだが、問題は夜。皆が家でのんびりしているであろう時間に、なぜこれほど間抜けな過ごし方をしなければならないのか。

 電灯のついた電柱のかげに隠れ、本を読みつつ、課長が家に帰ってくるのをひたすら待っていると、あまりの空しさに悲しくなる。これほど非生産的な仕事は世の中にないのではないか。だいたい、たとえ帰ってきても、無視されることもあれば、何も話さないこともある。

 福岡証券取引所の前上場部長が、三カ月で一割の利子がつくなどといって、知人らから十数億円を集めて失踪した、という出資法違反および詐欺の疑惑が持ち上がったため、捜査二課長の自宅前で、帰宅を待つ。もう○時過ぎだ。九時三十分から待っているので、もうすぐ三時間。いい加減に疲れてきた。待つだけという作業は、時間がたつのが遅い。本を読むにも、集中力を欠く。 

 電柱やら、マンションの階段やら、車の中やらで、よく見ると各社が隠れているのがわかる。一般人からみたら、なんて怪しい人達だろうか。疲れ果てて階段で眠りに入っている記者の姿も。
 取材先に対する倫理的問題もさることながら、周辺環境の悪化に貢献しているのは確かだ。これだけ怪しいことをやっていて、「いったい自分は何やっているんだろう」と思わない方がおかしい。

 夜回り終了まで待機するタクシーの運転手が言う。「マスコミん人達が、こげさ毎日取り巻いてっちゃ、警察も悪かこっちゃできんばい」。確かに一理あるだろうが、論理的結論としては、説得力に欠く。コストの割に効用が薄い。本質的に重要な情報は出てこないからだ。

 一度夜回りをすると、家の遠さにもよるが、大抵のケースで一〜二万円ほどのタクシー代がかかる。このような仕事に数万円のタクシー代と、記者の貴重な時間をかけるなど、企業としても社会としても個人としても、全てにおいてペイしない。夜回りによって出てくる情報は、いずれ出てくる「イエロースクープ」だ。例えば、「〜に逮捕状」などという見出しで朝刊に載ったりする記事。果たして、その通りに日中に逮捕され、記者クラブで広報文が配られる。そして各社の夕刊に載る。いずれ出てくる話をわずかに早く伝えるのみ。事態の本質とは全く関係がない。警察当局に関して都合の悪い情報は出てこないし、法的に言う義務もない。

 零時半ころ、やっと二課長が帰ってくる。実家に帰り趣味の楽器をとってきたとか。酔っ払っている。記者が暗闇の中から湧き出るように集まってくる。全部で五人だ。私は興味がないので、みんなが話しているのを聞いていた。夜回りの時はメモをとらないという不文律があり、記憶しなくてはならない。この上場部長の疑惑は内偵中。県警はまだ一応の情報があがってきているだけ。被害届も出されておらず、本人が失踪中なので、どうにもならない。このまま、絶ち消えるかもしれない。誰も被害を感じていない。単なる民事事件の可能性もあり、一般人には迷惑がかかっていない公算も高い。立件するなら、詐欺罪か、証取法違反。出資法違反の可能性は薄い、とか。

 夜回り制度のポイントは、「わざわざ家まで来た人にだけは、ちゃんと教えてあげるよ」という体制側の偉ぶった考え方、そして「行って自分だけ下らんスクープを貰おう」と考えるご機嫌とりの記者、それを代々継承し、批判せずに受け入れる新人記者たち、そして疑問を持つ記者に対しては議論を受け入れず、夜回りを強要する上層部、と多岐にわたり、日本の報道体制全体に病巣が広がっている。

 何にせよ、たとえ記者が夜回りに行こうが、警察は自分に都合の良いことしかしゃべらないし、しゃべる法的責任もない(警察は情報公開法の適用外)のだから、この作業は、権力をチェックしたり批判したり、といったジャーナリズムとは全く縁のない作業なのだ。良心的な記者なら、いずれこの下らない作業をしていた自分に後悔する時が来るだろう。ジャーナリズムではないからこそ、欧米では仕事として見なされない。このようなものに、一回、社の金を何万円もつぎ込むなど、考えられないはずだ。

 警察情報が情報公開法の適用外である現在、記者が「これは一般に広く公表すべき情報だ」としつこく迫ったり、警察が「捜査上の機密事項を教える義務はない。時がくれば、会見で公表する」といった信念を持っていたりするなら、まだいい。記者は、情報公開法の不備を指摘し、徹底的にその閉鎖性を追求すべきである。

 しかし、そうならない原因は「記者たちにおれの帰りを待たせている、という優越感」と、マスコミの「内輪のスクープゲームに躍起になる自己満足感」という、二つの人間の本性を指摘できよう。何にせよ、大義名分もなく、両者ともに視野の狭さと志の低さばかりを感じるのだ。


掲載時期:96年秋           (当時の原文そのままです)
「市政記者クラブ」--その功罪--
 
 新人としては異例の人事異動で、行政グループ、福岡市役所担当となった。市役所十階にある記者クラブ室に出勤(出クラブ)し、社に寄って帰る毎日だ。仕事は、記者クラブの発表モノの処理と、それ以外の自由な独自ネタの発掘、記事化である。

 記者クラブでの情報授受には二通りがある。普通は、資料が日経の所定の場所に投函されるだけ。重要なものについては、前日に会見予告があり、併設された部屋で記者会見形式をとる。いずれにせよかなりの量で、慣れないうちは処理するのが大変だ。記者会見は一日二回程度だが、投げ込みは十五種類くらいはある。お役所というのは数えられないほどの課に分かれており、会見は各課の授業を受けているかのようだ。不勉強の政治家が官僚に取り込まれてしまうのもわかる気がする。全てを理解するのはとても無理である。

 夕方、発表モノで重要そうなものを、キャップに連絡。指示に従って記事化する。あとは独自ネタの取材を勝手にやっていればいい。かなり行動の自由度は高まった。
 警察と市役所とで最も違う点は、警察ネタが、突発事件に対して、次々に取材をしなければ記事にならないのに対し、市政ネタは、主に発表モノを「要約」すればいいということだ。

 何にせよ、時間が決まっているところが魅力である。前日夕方に会見・レクチャーの時間や、議会その他の動きが張り出される。全部で六〜十件くらい。当日になって突発的に発表となるのは、「O157」をはじめとする食中毒の発生くらい。警察担当のように常に精神不安定とはならない。しかし、前日に張り出されるものは、当局の恣意が入り込んでおり、都合の悪いこと、触れてほしくないことは、避けられている。例えば、たまたま講堂を覗いたら同和問題に関する企業研修会をやっていた、ということがあった。マスコミは、知らず知らずのうちに記者クラブにより情報操作されている。

 他に「県警クラブ」との違いといえば、様々な買収行為が行われていることだ。
 多いのは、観光業組合が勧誘の一貫として配布するもの。観光課は、観光業を振興しなければならないので、九州近郊の観光業組合らとともに売り込みにくる。確かに、新聞の地方版に記事として載せてもらえれば、効果は絶大だ。
 観光課が「中国四国オレンジライン」への観光誘致活動をする、となれば、ミカンを一箱持ってきて、記者クラブに置いていく。天草地方なら、乾燥コンブを一箱。貰う人がいないので、余っているくらいだ。この程度のものは、その効果を考えれば安いものなのだろう。おかげで記者クラブはいつも何かしらの食べ物が置いてある。

 こういった買収作戦は、観光に限らない。交通課が「車よりも電車に乗るように」との政策を推進するため「ノーマイカーデーFカード」なるものを作って発表すれば、見本ができましたとばかりに千円分のプリペイドカードを各社に投函する。
 年金課は、国民年金推進期間になると、「二十歳になったら国民年金」という広告用の福岡市作成のテレホンカード(五十度数)を二バージョン、見本として資料投函箱に投げ込んできた。これが、写真入りで各紙の県版に載るわけだ。
 見本といいつつも実物なので、私は、有難く使っている。みんな使っているので、誰も文句は言わない。これらは紛れもなく税金である。見本を配りたければ見本と書いて、使えないものを配ればいいのに、とも思う。そこまでいくと、神経質だろうか。ただ、この事実はあまり知られていない。 

 これらに限らず、相変わらず行政側の便宜供与はかなりのものだ。記者クラブ室は報道課とつながっており、ほとんど記者クラブ専属の男性職員が三人ほどいる。他にも事務処理やお茶くみの女性が三人ほど。コーヒーを頼むと五十円で持ってきてくれる。さすがに、広報担当の人間というのは人選がよくできていて、人当たりがいい。私を、同じ社の後輩のように飲みに連れていく。大型テレビがあり、ソファー、二段ベッドがあり、新聞が十紙ほど、赤旗から日経産業新聞、産経、スポーツ紙までおいてある。そして各種週刊誌。

 マスコミが、それ相応の負担(事務所料や電話使用料)をしていないのは問題だ。また、同じ社に勤めているがごとく、一つの部屋に各社がいて、仕事をしていることの弊害も大きい。他社がお互いに何を取材しているのかは筒抜けだ。私は「日経」と「記者クラブ」という二つの会社に属しているようなものである。少なくとも、声を小さくすれば聞こえないくらいの「ついたて」で仕切るとか、ブースで分けるとかしてくれれば、この点は改善される。記者発表の公開性が低いことも問題だ。記者発表資料は翌日には情報公開室で一般に公開されるが、やはり、他マスコミや他社、一般人が時間差なしで資料を入手できたり、会見に参加できるような、高度情報化の工夫は必要であろう。

 一方、取材をする上では一概に悪いことばかりでもない。なにより、一ヵ所に集めているメリットがある。まず驚くのは、各紙の切り抜きの必要がないことだ。担当の職員が、毎朝、朝、毎、読、西日本、日経の五紙の市役所関連記事を全部切り抜き、B4版に両面コピーして、ホッチキスで止めて投函してくれるのである。多いときは五枚くらいになる。月曜など、土日の分もあるため、倍増する。これは記者にとっては楽だ。切り抜きは新人の仕事の定番だが、時間の無駄使いという面も多い。このシステムは能率的で、批判の余地はない。

 次に、市役所の外部からの情報がある程度、能率的に入ること。月別で幹事社が決まっており、外部からの「持ち込み」があると、幹事を通して資料が投げ込まれたり、会見が開かれる。記者クラブというと、官報ばかりが投げ込まれるところという閉鎖的なイメージがあるが、例えば市民団体が記者クラブを利用してマスコミ各社にアピールすることが、容易にできるわけだ。しかし、このシステムは、広く一般に知られていない。何とかして知らせる手だてはないものか、と思う。



掲載時期:96年冬           (当時の原文そのままです)

「脱・記者クラブ体制」--実現への道--

 記者クラブ問題に関しては、多くの論者が「現状に問題あり」と感じ、改革が必要であるという点では大方の議論が一致している。そこで有益なのは、理想の姿と、改革を妨げているものが何かを明確にし、改革への道筋を提言することだ。
 記者クラブ問題に関し、1.その問題点と2.利点を洗い出し、3.「こうあるべき」という理想論を述べたあと、4.「その障害となっているもの」について分析し、5.あくまで改革するための方法論、6.展望について述べる。

1.問題点
a.発表ジャーナリズムの温床 
 役所・警察系の記者クラブの場合、大本営情報ばかりが流される。市政・県政便りと全く同じ内容の記事が新聞に載っていることも、しばしばである。結果的に、独自性の強い面白い掘り下げた記事は少なくなる。

b.閉鎖性
 雑誌記者やフリーの記者は規約により入れない。情報の独占により既得権、馴れ合いが生じる。
 
c.自由な取材活動を阻害
 これは夕刊があることと密接な関係がある。会社からは夕刊締切の午後一時ごろまで記者クラブにいるよう命じられるので、どうしてもクラブにいる時間が長くなる。クラブ内では他社が何をやっているかが筒抜けなので、独自の取材ができない。キャップは、他社に何を書いているのかバレないように、ラップトップで記事を打つ時、見出しだけは、本文の内容と関係のない「ダミー見出し」を使っている。
 
d.加盟社内の相互批判がしにくい
 どうしても同じクラブ内では相互批判しにくい環境になりがち。どこかが誤報を流しても指摘するよりはかばう。仲間意識は極めて強く「読売さんは今日のレクのやつ、いつ書くの?」と毎日の記者が聞く、などということは日常茶飯事。
 
e.税金の無駄使い
 マスコミが相応の負担(事務所テナント料や電話使用料)をしていない。警察や役所といった圧力団体の陳情場に、マスコミが日常的に出向いて税金で接待を受けている構図。従って影響力の大きい巨大マスコミ以外は締め出されている。
 一般企業から接待を受けることも問題だが、役所系記者クラブの場合、その費用が税金であることは、深刻な問題である。
 
f.圧力団体の陳情場、五五年体制の残滓
 日経の西部編集部は、十五の記者クラブに所属している。福岡経済記者クラブ、証券・金融記者クラブ、福岡建設記者クラブ、福岡農業記者クラブ、福岡航空記者クラブ、福岡県政記者会、福岡市政記者会、福岡県教育庁記者クラブ、福岡県警記者クラブ、福岡司法記者会、九大記者クラブ、九州写真記者協会、福岡運動記者会、福岡レジャー記者クラブ、九州JR記者会で、一人一ヵ月、平均五百円程度を各社が払っている。日経は各クラブに、重複して一人〜八人が所属しており、例えば私は市政、県政、県警クラブの三つに所属。市政記者クラブは一人六百円で四人所属しているので、日経は市役所に対して、一カ月あたり二千四百円しか払っていない。
 これらの記者クラブに配備されている広報担当職員は、とても人あたりの良い、憎めない人と相場が決まっている。これは企業の広報や人事部と同じで、日経の人事部がいかに他部よりも人柄のいい人が厳選されているかは、多くの同期社員が感じていることと思う。これはある意味、非常に騙され易く、事の本質とかけ離れるケースが多い。
 結局、記者たちは、業界団体や職員らにうまく利用され易くなる。締切までに紙面を埋めねばならぬという至上命令の下、アクセスしやすい情報に頼らざるを得ないという事情がある。
 「ロビーイングの場としての記者クラブ」という性格が強いことは、次の事実によって裏付けられる。裁判所では、供給側による情報提供の「うまみ」があまりないため、記者は優遇されていない。私も福岡地裁の記者クラブには五、六回仕事で顔を出したが、市役所や県警とは違い狭くて、居心地の悪いところだ。警察や役所と違い、お茶やコーヒーのサービスはなく、雑誌も一切置いていない。
 裁判所担当の記者が言う。「十二月はうちが幹事だから大変だよ。県警とか役所とかの記者クラブだと、職員が連絡事項など全部やってくれるけど、裁判所では各社持ち回りでやらなきゃならないからね。裁判の記事なんて、裁判所がいくら情報提供したって、メリットがないからさ」。
 県警や市役所、県庁では、記者クラブには担当の職員がいて記者間の連絡を取ってくれたり、急な発表の時は各社に電話してくれたりと、様々な便宜供与がある。また、お茶やコーヒーを給仕する職員が必ず常駐している。「コーヒーを入れてくれんかね」と女性職員に頼む記者を見るにつけ、市の職員と区別がつかない。
 そして、赤旗から読売まで、各社新聞は言うまでもなく、スポーツ紙から週間現代、週間プレイボーイにビックコミックスピリッツまでが常備され、電話は使い放題。これはどう見ても便宜供与ではないか。
 裁判所クラブがなぜ担当職員も置かず、記者に冷たいのか、という現実を考えた時、その「圧力団体が接待をしている」という性格は、一層、明らかである。「市民の知る権利に応えるため」というならば、裁判所も同様のサービスがあるはずなのだ。
 企業・経済系の記者クラブがあり、消費者、市民系の記者クラブがないため、どうしても供給側の情報ばかりが読者、視聴者に流れてしまう。記者クラブ問題は、消費者、生活者よりも企業や役所といった供給者を優先させてきた五五年体制の構図と、切っても切れない関係にあると言えるだろう。時代遅れの構造自体の変革が迫られている。
  
2.利点
 利点を考えれば考えるほど、皮肉になってしまう。まず、読者は市政・県政便りを読まずに捨てることができる。全部、地元紙、テレビが報じてくれるからだ。また、クラブで貰うネタで紙面が埋るので、掘り下げた報道は少なくなり、社会の疑問点は表出せず、従って社会が混乱しないことも挙げられる。これは既得権者に都合が良く、また経済の高度成長至上主義には都合が良かっただろう。敢えて挙げるなら、当局に都合の良い情報(当局の言い分)ばかりが、高い速報性で効率的に新聞、テレビを通して市民に伝わること。あくまで当局に偏ったものになるので、読者にとって利点と言えるかどうか疑わしいが。ただ、能率性は軽視できない問題だ。記者が全てのネタを自分から動き出して集めるとなると、時間がかかり過ぎるのだ。

3.理想論
 記者クラブ室の開放化、有料化、情報化でかなりの程度が、解決されるはず。まずは記者クラブを開放する。加盟社は従来の大手新聞、テレビだけに限らず、原則、自由とする。一般人でもいい。加盟すれば、時間的、量的にも平等に情報が流される仕組とする。(クラブ室の投函箱への投函、電話、FAX、E-mailによって)。
 税金が無駄使いされないように、加盟社は市場価値に相応する負担金を払う。部屋を利用したい社は貸与代から机など備品使用代、電話代、光熱費まで、すべてを各社で自己負担する。職員の提供などの余計なサービスはなくす。各社ごとに声が筒抜けにならないように部屋をブースごとに分け、共有スペースには、資料の投函所を配置する。会見場は、希望する一般市民が入れるように公民館など広いスペースを随時、利用する。会見の知らせも、勿論、加盟社に平等に伝える。
 この情報化策により「情報を独占的に早く知る」という既得権が無くなる。 誰もが発表モノを知る立場になれば、ますます発表モノを要約して報道するだけのマスコミでは、意味がなくなる。
 警察、役所、業界団体だけに存在していた記者クラブでは、情報がどうしても権力側、体制側からのものに偏っていた。既に述べたように、記者クラブは役所を含む圧力団体の陳情場としての意味合いが大きい。陳情方法は「情報アクセスの良さ」という、形となって見えにくい実に巧妙な手口によって為されている。多くの人が理解していなかったこの概念により、実に巧妙に隠されてきた。
 そこで「市民、消費者、生活者の記者クラブ」を創る。現在、ボランティア組織やNPOなどの、これまでの五五年体制下では育ってこなかったセクターが急進しつつある。こういった新たなセクターに、従来の記者クラブは対応できない。行政への不満、警察の不正、企業の悪事などについての市民、消費者、生活者、市民団体などが発する情報が能率良くマスメディアに伝わるようなシステムを構築する。
 こういったマスメディアを積極的に利用する仕組みは、何らかの形で義務教育課程に組み込む必要がある。
 それでも、夕刊がある以上、午後一時までの時間が縛られ、自由な取材ができない→記事が画一化する、という現象が存在する。夕刊がある以上、締切直前に起きたことを入れないと「特落ち」になる。通信社の原稿は配信までに一時間以上かかるので、待っていたら締切に間に合わない。従って、夕刊を廃止する新聞が出てきてもいい。その変わり、その日あった発表モノは通信社を使い、独自の記事執筆に記者を投入する。現在の「オール通信社体制」から通信社と新聞社の役割分担の時代へと移行するのだ。これで、「つまらない新聞・テレビ」からの脱却が可能となる。
 一気に改革を進めるのは不可能なので、まずは、過渡的な措置として、現在のクラブ室内にある共同会見場とそれに併設した部屋(=現在の記者クラブ)を、加盟社の共同利用のために残し、正当な価格で加盟社が借りるようにする。正当な市場価格にすると、一社一クラブ十万円程度はかかるものと見られ、多くの社が撤退するだろう。
  
4.実現への障害  
a.多くの記者が望んでいない
 本来の仕事をしているとは思えないが、なぜか高収入と適度な社会的地位が保証されている。世間はなぜか、記者を格好いい仕事だと勘違いしている。実際には権力に付きまとい、ゴマをすって情報を貰っている(これをなぜかマスコミでは「食い込む」と表現する)のが主な仕事で、本質的に格好いい仕事をしているとはとても思えない。情報の既得権を握った記者は、ぬるま湯の中で、抜いたの抜かれたのと、レベルの低いスクープ合戦に明け暮れる。本来のジャーナリズムの仕事をしている記者、本当に社会的意義のある仕事をしている記者は大新聞には少なくなる。記者は新人時代から考える暇もないほど忙しいので、いつのまにか染まってしまう。

b.経営陣が望んでいない
 完全に既得権のシステムに組み込まれている。定年まで朝日新聞を勤めあげた本多勝一氏は入社当時と比較し、こう述べる。「テレビをはじめ関係する業界が多くなりすぎました。タブーがふえすぎた。なにしろジャーナリズムではなくて情報産業であり、デパートや銀行と同じレベルになりつつあるのですから。_もはやジャーナリズムなんか不要で、ただの情報産業でいいんだから、カネモーケ第一、あんまり社会の矛盾なんかほじくってほしくないのです。だからジャーナリストたらん記者は冷遇され、ゴマスリが重用されるようになってゆくのも当然でしょう。」(「滅び行くジャーナリズム」より)。要するに、テレビや新聞が系列化されていくに従い、新聞は系列局テレビ番組のスポンサーに気を使わざるをえなくなった。掘り下げた報道をすると、どこかでスポンサーの批判記事という意味合いを持ってしまうため、経営陣にとっては困る。新聞社の利益の約半分は広告収入だからだ。  

c.圧力団体が望んでいない
 記者クラブは、権力、圧力団体との癒着の場である。自らに都合の良い情報を効率良く流せる記者クラブ制度がなくなると、批判的な記事が増えるだろうし、都合が悪い。効果的な情報のリークも難しくなってしまう。

d.規制に守られている
 競争がほとんどない。しかも、各紙の販売部数は記事の内容ではなく、販売力、つまり勧誘員の「拡材」と呼ばれる洗剤やチケットで決まっている面が強い。
 販売店制度に基づく宅配制度が主流の日本では、新規参入が極めて難しい。そのため、夕刊などなくして、差別化を図ろうという新聞を創刊して売りたくても、作れない。本多氏の悲願である本当のジャーナリズムを追及する新聞が、流通問題から実現しなかったことが、新規参入の難しさを示している。日夜、激しい出入りを繰り返し、浮き沈みの激しい雑誌業界とは対照的に参入障壁が高いのだ。
 そうかといって、既存の新聞は大きくなりすぎて、もはや改革は望めない。日本の新聞ほど部数が多い新聞は世界的にも珍しい。再販制度に守られ、価格競争もないので、変えるインセンティブもない。従って、夕刊がある→記者は記者クラブに夕刊締切の午後一時ごろまで詰めている→独自の取材が少なくなる→紙面が画一化する、という悪循環となる。私は締切まで記者クラブに張り付いていなかったがために何度かデスクに怒られた。これでは、通信社だ。この時間を有効に使えれば、記事の質も高まり、各社ごとの違いも出るはずだ。それでも、日経が他紙に比べてまだ面白い(と私は思う)のは、一応、共同通信の記事を買っているので、独自の取材が他紙に比べればしやすいからだろう。朝毎読は、外信以外は自社原稿なので、記者は記者クラブネタを「処理」するだけで精一杯だ。

e.勇気がない
 業界全体にマンネリズムが蔓延している。「構造問題」で述べたように、もともと、官僚のような筆記試験ができるだけの人材が集まる制度だったので、上層部にはジャーナリストとしての素質のある人材がもともと少ない上に、終身雇用で外部からの人材はほとんど入ってこないから、ジャーナリストとして必要不可欠な改革を主張する勇気を持った人材が社内に少ない。本多氏が以下のように述べているのは、象徴的である。
「そういう根性のある記者はむしろ『出世』しないようになってきたのかもしれませんな。適当にゴマをする方がトクするような構造に。だいたい入社試験のやり方からして、独創性のある人間がはいらなくなっているようだ。選ぶ側も選ばれる側も、管理職になりたがるような連中ばかり。管理職にさそわれても断固ライターの道をとりつづける記者が、ゼロとはいわぬまでも希有ですからね。」(「事実とは何か」より)

5.改革するための方法論
a.「メディア利用」に関する周知徹底
 一般市民は、新聞がどうやって作られるのかを、もっと知るべき。多くの小学校は社会科見学で新聞社を見学させるが、一度も記者クラブで発表モノの処理に追われている記者の姿を見せることはない。実際には、多くの記者がメイン取材は記者クラブ内から庁内に電話することだ。いちいち現場に行っていたら、年々増ページを重ねてきた新聞紙面を埋めることはできない。
 一方で、現場の実感として、多くの新聞が、喉から手が出るほど面白い話題を求めている。何でもいいから、自分がニュースになるようなことをやっていると思ったら、投稿すればいい。何かベンチャー的なことをやっている、時代の先端を行くことをやっていると思うなら、FAXでも手紙でもいいから、新聞社に送るのだ。記者が喜んで飛びつくだろう。しかし、本当に時代のトレンドとなるような活動をしている人に限って自覚はなく、メディアを利用しようという発想は思いつかないようだ。また、なぜか「何で取り上げてくれないのか」などと文句を言っていたりする。そういうことは、少なくとも情報を発信してから言って欲しい。特に市民団体は自らの利益のために、マスコミにアピールするべきだ。
 こういった利用法を紙面を使って周知徹底する。これにより、記者は市民サイド情報へのアクセスがしやすくなる。皆がそういった意識を持てば、「市民・消費者・生活者クラブ」ができる前でも、紙面は面白くなる。これを地道に訴えていきたい。

b.業界再編のための規制緩和策
 新聞業界における規制緩和は、逆説的のようだが、「販売店にどの新聞でも配達するよう義務付けること」である。米国のように町角の新聞ボックス(五十セント入れると出てくる販売機)が沢山あるわけでもない日本では、新聞の九十九%が宅配である。土地代が高い日本では、販売店を新たに沢山作るなど、事実上不可能。これが大きな参入障壁となり、新たな新聞社を作れない。事実として、戦後、東京を中心とした新しい新聞社が生まれていないのだ。これほど固定化した市場も少ないのではないか。この宅配インフラの共通化は、業界全体の業務の効率化にもつながるメリットがある。
 例えば、東京を中心とした夕刊のない新聞がなぜ不可能なのかと言えば、夕刊をなくす→広告収入が減る→リストラが必要、という構図がある。そして既存の新聞は既に組織が改革の仕様がないほど大きい。新聞業界は労組の力が強く、もはや規模の縮小による質の向上は期待できない。従って、つまらない、読まれない夕刊でも、惰性で存続する。毎日新聞が経営悪化しても改革に乗り出せないのは、規模が大きくなりすぎたからだろう。今や、ニュースのない土曜の夕刊さえも廃止できない状態だ。
 だいたい、夕刊の存在自体が、世界的に見て珍しい。忙しい現代人にとって、情報を得る手段はインターネットや雑誌、ケーブルテレビと、多様化を進めている。朝夕二回も新聞をじっくり読むなど、返って読む精度を落とすだけだ。それよりも、独自の掘り下げた記事を増やす効果が期待される夕刊廃止策が進むべきで、需要もはあるはずなのだ。しかしこれも、新聞社の買収、合併、新規参入などがない限り、実現は難しい。規制緩和がもっと議論されるべき所以である。
   
6.展望 
 結論として、五五年体制が崩れ、経済・社会全体で構造改革が進んでいる現在において、五五年体制の残滓である記者クラブ制度に基づいたメディアが既存の体制を維持し続けるなど、不可能だと思う。制度疲労は明らかだ。他業界が規制緩和により業界再編、リストラを余儀なくされるのと同様、もはや世界にも稀な巨大部数を誇る新聞が、そのままの形で残ることはないだろう。
 既存の新聞は、肥大化しすぎている。もはや、既存のシステムの下でジャーナリズムが有効に機能することはありえない。それは、やはり関連業界が増えすぎたからだ。
 潰れる新聞社も出てくるかもしれない。税金の使い方が問われている現在、市民は記者クラブにつぎ込むことも許さないだろうし、価格に転嫁することを許さないだろう。しかし、構造改革は痛みを伴う。五五年体制の供給重視体制から、消費者、生活者重視の新体制への移行は、他の規制緩和、情報公開、NPO法制定、行政改革といった一連の流れと同様、避けられない問題である。
 ワクワクしながら読めるような面白いメディアが誕生するか否かは、読者の強い期待と記者の気概があれば、何も業界外からの圧力がなくても、不可能な話ではないはずだが、やはり現状は明るいとは言えなそうだ。


例2:企業との癒着に批判的で「取材上の秘密」にあたる、とされたらしい文書
掲載時期:98年夏           (当時の原文そのままです)
「悪意なき犯罪」
 
 NTTグループの「残暑払い」という会合に呼ばれ、出席した。担当記者とNTTグループの広報・役員・社長連中が計30人ほど集まるものだ。西鉄ホテルが会場で、前のほうに、包まれた大小様々の箱が山のように積まれていた。これは何なのかと言うと、ゲームの景品なのだった。

 ゴルフゲーム、ストラックアウトゲーム(ボールを投げて的に当たった数を競う)、ビンゴゲームなどをドコモ、パーソナル、NTT本体などのグループごとのテーブル別(記者も含む)で競うわけである。ビンゴでは全員に何がしかの景品が当る仕組みで、ゴルフゲームでは、誰が勝つかに1口2百円で総額6万円が賭けられるなどギャンブルも行われていた。

 他にもジャンケンゲームなどがあり、私が貰った景品は、ミュージカル「キャッツ」の観劇券2枚(計2万3千円)、地元大型遊園地「スペースワールド」一日フリーパス券2枚(多分2万円はする)、Mlesna Teaのティーバックセット、チキンラーメンの販促用ティーカップ、玄関の見張り番(犬が来客をセンサーでキャッチし吠えて知らせるオモチャ)だった。おそらく計5万円はする。ほかにもホテルの宿泊券など様々な景品があり、NTTの身内を外してジャンケンゲームをやらせるなど、記者が優先的に当るようになっていた。これは賄賂以外の何モノでもない。

 食事も豪華なものだった。鮨やステーキなどが次々と運ばれる。そして、バドワイザーの広告を身にまとった、いわゆる「バドガール」5人がサーブするのである。場所代・人権費など含め、1人2万円は下らないだろう。要するに私は、計7万円の接待を受けたことになる。

 まあ、芸者を挙げての宴会をお役所が税金でやっているのとたいして差はない。考えるまでもなく、NTTという会社は、株式の65%を国が所有している、要するに国の子会社なのである。「民営化」などという紛らわしい表現は使わないほうが良い。本質的に民営ではないのだ。初期の設備投資が最大の支出項目となる設備産業なのに、その設備のほとんどを公社時代に何のリスクも負わず税金同様のカネで作っている。民営というなら、その正当な消却資金も支払って当然だ。民間企業は、不当な競争を強いられているのである。

  ◇ ◇ ◇
 これは週刊誌のネタになってもいいパーティーだ。「まるで、ここだけバブル時代にタイムスリップしたみたいですね」と皮肉る私に対し、「こんなの、毎週のことですよ。別に驚くことじゃない」とNTTドコモ九州の社長。会場に居た連中が皆、退屈な人間であることは言うまでもないが、感覚がマヒしているとしか言いようがない。まったく、世の中狂っている。

 記者のほうにも問題がある。「記者さんたちも、いろいろ会合があって大変ですね」などと言われると、「今日は、西銀(西日本銀行)と重なってましてね」などと「来てやった」気取りだ。日経ほど経済記者が多いところはないので、他社は1人でいくつもの業界を担当している。従って、毎週のようにこうした接待の席に出掛けるわけである。地元紙の記者など、完全に身内気分で乾杯の音頭まで取る。

 私はこの事実を紙面に書いてやろうと思ったが、デスクが掲載するわけないのでやめた。実際、取材先を失うデメリットのほうがマスコミにとって大きいのは間違いないのだ。問題は三つある。第1の問題は、実質的な国営企業で、しかも赤字会社(九州地区ではNTT本体は経常赤字)が経費でパーティーを開いていること。第2の問題は、それに記者が問題意識を持たずに平気でたかっていること。(勿論、記者は関係を維持しないと取材拒否され仕事にならないので弱い立場にある)第3に、記者が費用を出したくても、企業(日経)が出さないこと。記者個人には通常、一切の経費が認められていない。(雑誌社などは1人で月20万円も使えると聞いている)

 私が2年前に警察を担当していた時も同じような会合はあったが、その時はさすがに税金そのままなのでまずいと思ったのだろう。県警が自発的に領収書を発行し、マスコミが自己負担する方式をとっていた。確かに、記者がどう対応するかは別として、民間企業なら勝手にやっていて良いのかも知れない。しかし、NTTは実質的に民間でもなんでもない。これは倫理の問題だ。「法的に問題ないから良い」というのは最悪である。

「これは私の個人的なテーマでもあるのですけれども、社会が悪くなるというのは必ずしも悪意の人間たちがたくさん増えていることを意味しないと思うのです。(中略)資本の論理を超える公正さであるとか、あるいは真実を見つめる目でありますとか、そういういわば理念的なものを、資本の論理、法則の上位に立たせるきっかけをわれわれは探さなければならないと思うのです。」(辺見庸「不安の世紀から」)

 確かに、NTTの人間たちや記者たちに悪意はないようだった。単に「公正さ」などの「理念的なもの」が完全にマヒしているのである。そして、記者たちは「資本の論理」に完全に覆われ、取材先との関係を崩すよりも記事になるネタを貰おうと、ますます平気で接待を受け、癒着したがる。そこには悪意はないが、社会は悪くなっていると思う。何とも滑稽な風景だ。夏冬の年二回あるというこのパーティー、小型カメラで隠し取りでもして報道番組を作ったら、反響はさぞかし大きいことだろう。


例3:「会社の経営・編集方針を害した」とされたらしい文書


掲載時期:96年秋          (当時の原文そのままです)
「天然記念物」--裏と表の顔--

 この会社の、面白くも絶望的なところは、紙面から受ける印象からは程遠い、天然記念物級の古い企業体質である。いくつかの事例を基に検証したい。

 まずは部内旅行。「不人気、社内旅行」などと紙面で書き立てておきながら、全員参加の一泊旅行を何の臆面もなく続けている。特に、日経産業新聞では「検証社内改革」として特集を組み、その時代遅れぶりを指摘。その書き出しはこうだ。

『秋の職場の話題は近くの温泉に出かける一泊旅行。昼間はレジャー、夜は浴衣姿でさあ大宴会――というのは昔の話。今もそのままの企業があったら天然記念物ものだ。旅行はプライベートな仲間内でという若い世代からの拒否反応を受け、かつての画一的なスタイルは変わり始めている。』  

 これでは、「まさにその天然記念物が、この会社じゃないか」とクレームの一つもつけたくなる。

 西部支社の場合、募集方式までがおかしい。ドアに張ってある募集用紙に、やむをえず行けない人だけ×をつける。最高裁判事の罷免と同じ、インチキ方式なのだ。しかも、『兵隊記者は原則参加のこと』などと勝手な注釈が付けてある。社則で決まっているならまだしも、勝手な解釈を加えるとは何たることだ。これでは、官僚による行政指導と同じである。よくも「官僚」などという企画記事を載せ、批判的なことを書けるものだ。この募集の紙一枚とってみても、日本社会の膿がつまっているわけだ。

 私が×をつけたことに対し、キャップがうるさい。「おれもあまり好きじゃないけど、こういうのは参加しとくもんだ」とか。「部長もあまり好きじゃなくて、昨年は中止したくらいだが、今年は部長も来るんだから」などと嫌がる私を盛んに説得する。私が説明を求めても「そういうもんだ」などと答えにならぬ答えしか返ってこない。
 最後には、あまりの時代錯誤さに思わず噴き出してしまった私に「笑いごとじゃないぞ。みんながそう思っているんだ!本当だぞ」と脅しまで入る始末。「口裏を合わせろ。おまえが×を付けた理由を聞かれたら『月曜日が明け番なので参加できないと思った』と言うんだぞ!」。こういうのを恫喝というのだろう。

 何度かやりあった挙句、キャップに悲哀を感じ、結局、行き帰りの交通費を会社負担、飲み会参加費は「金なんか出してやる」というキャップがの言葉を信じて、午後七時から十時の飲み会だけ、参加することにした。キャップは、デスクと新人の間に挟まれ、上から押され、下から突き上げられ、という立場。議論して勝てるとは思えずに、止むを得ず恫喝に出たのだろう。一度ばかり「時間の機会費用」を提供するのも、仕方がない。しかし、土曜が泊り番で日曜が飲み会。また十二日間連続出勤だ。こうした洗脳戦略の結果が、あの画一的思想を持った記者集団を作り上げるのだろう。

 部長やキャップに新人、それぞれが嫌がっていても、組織の慣行で行われる部内旅行。社会のトレンドを知っていながら、自分らだけは改心しようとは思わない特権意識。社内旅行1つをとってみても、この会社の堕落体質がよくわかるというものだ。

 こういったチグハグさの最たるものが終身雇用制度だろう。「崩れる終身雇用」などと紙面では散々書いておきながら、組合は相変わらず終身雇用を原則とした人生設計を要求している。「三十代後半からはローンや子供の教育費で金がかかるから、その時期に賃金を上げるように改革を迫る」とか。私は早々と家を買ってローンを組むなど考えも及ばないし、子供を持つかどうかは人それぞれだ。人生を勝手に決められては困る。だいたい、これだけ終身雇用の崩壊が叫ばれ「一生同じ会社にいるのは無能の証明」という欧米型の社会となるのが必至の御時勢に、一生、同じ会社にいる訳がない。本気で『自分たちだけは特権階級だから、一生、規制に守られ安定高収入を維持したい』とでも思っている節がある。

 次に、研修。入社秋のフォローアップ研修がなくなった。人事部に聞けば「会社の百二十周年記念事業があるから」と言う。地域間、部間の風通しが悪い中、同期の近況を聞けるチャンスと思っていたので、残念だった。新人研修より、記念事業の方を優先させたのだ。人より組織。ソフトより金。「新聞社の財産は人だ」などと配属前の研修で言っていたが、それが単なるレトリックであることがわかった。『ソフトの時代』などと紙面で書くが、自分らは何も実践しようとはしないのだ。『創業何百年』などと自慢げに掲げる、いわゆる老舗と同じ貧困な発想。新聞が過去の栄光にしがみつき、いつまでも生き存えられると考えてはおしまいだろう。こうなったら、記念事業では、自らの天然記念物ぶりをじっくり祝って欲しい。

 他にも事例をあげたらきりがない。やっていること、全ての基盤となってるように感じる。新卒採用にしてもそうだ。景気が上がると事業を拡大し、バブル期には百人以上を採用。それが今や三十人。雇用ピラミッドは極めて歪んでいる。一見、経済のことをわかっているようで、やっていることは、他社よりバブリー体質。概して、一般企業と違う経営をしていた点も見当たらない。

 そのツケが新人に跳ね返ってきている。バブル期(六年前)に導入され、今や化石としか言いようがないコンピュータ。この市場価値ゼロの重く巨大な記者端末を渡された時は、唖然としたものだった。「携帯できないノート型パソコン」であるだけでなく、処理速度が遅く仕事の能率が悪い。これを見たら日経産業新聞の特集、『サイバースペース革命』などが、いかにあやしい情報かわかるだろう。「知的作業には最新のコンピュータが不可欠」と言わんばかりの特集を組んではいるが、あれは要するに、自分が知らないことを、小手先の技術で書いているだけなのだ。自らを棚に上げていては、本質を見抜いた記事を書けるわけがないだろう。

 保守的で特権意識の強い、チグハグな会社。先見性のない『天然記念物企業』。まさに、張り子の虎である。日経には、表の顔と裏の顔があることを、良く知って読んで欲しいものだ。


掲載時期:96年秋           (当時の原文そのままです)
「論理破綻」--隠される矛盾--
 
 新人研修の時に我々がしつこく教え込まれたことは、「いかなる取材先からも、お中元なども含め、金品を受け取ってはならない」ということだった。いわく、「食事は割り勘で、奢られたら同額程度を奢り返すように」、いわく「テレビ局は何でも金を払って取材するが、新聞がそれをやってはいけない」。

 それが当然のことだと思っていたし、そうでなければ権力から独立した報道、言論など出来ないはずなので、私には特に新鮮な論理でもなかった。しかし、良く考えてみれば、私を含め多くの記者が現在、仕事場としている記者クラブとは、一体、何なのだろうか。

 福岡市政記者クラブに、税金から出ている金額を、常識的に試算してみた。まず、場所(テナント)代。毎日、ここに出勤して一日中仕事している社がほとんどなのだから、記者クラブは立派な仕事場だ。福岡市役所は、市内の中心である天神、その超一等地にある。東京で言うなら銀座のど真ん中にあたる。どう考えても、この一室で机二つ分にソファーやテレビ、机に椅子などの備品利用料を含めると、周辺の事務所テナント料の相場から試算しても、市場価格で月額十万円は固い。次に、電話代と光熱費。二十四時間、空調が整備され、電話とファックスは使い放題。土日だろうが、深夜だろうが、いつでも出入りは自由。安く見積もっても、各社平均で月額三万円程度は消費している。次に、人件費。これは馬鹿にならない。「記者クラブ室だけ」のために仕事をしているような専属の女性職員が、三人いる。彼女たちは、頼まれてコーヒーやお茶を給仕したり、緊急記者発表の連絡を各社にしたり、各社がクラブにいない時に、電話当番をしている。一人あたり月額二十万円として、六十万円。加盟十五社で割ったら、一社四万円だ。ほかにも、半分クラブに常駐しているような年配の男性職員が三人ほどいるが、これは少なく見積もるため、とりあえず計算外としておく。さらに、毎朝、五つの新聞に載った市関係の記事を切り抜き、両面コピーして各社に配布(三〜五枚程度)するのも彼女たちの仕事であるが、そのコピー代なども結構な額になるだろう。また、月に二回の定期的な大清掃のほか、毎日、ゴミ箱のゴミを捨ててくれる。その一切の維持管理費を市が払っている。このもろもろの紙代や管理費を、二万円程度としておこう。

 さて、安く見積もった合計は、一社、一ヵ月あたり、十九万円になった。それでは、実際にいくら払っているのかというと、これが、たったの二千四百円(一人一ヵ月六百円で四人加盟)なのだ。これでは、各種新聞、雑誌代にしかならない。要するに、この差額たる十八万七千六百円は、誰の目にも疑うことのできない、日経が市役所から受け取っている「金品」なのである。しかも、市役所が取材先であることは疑いないばかりか、単なる取材先とは訳が違う。この場所と人を提供されている接待費の金の出どころは、市民の払った税金、マスコミが好きな表現で言うなら「血税」なのだ。会社はこの問題に、一体どう論理的な整合性をつけているのだろうか。お得意の「臭いものには蓋」的発想でタブー視してきたのが現実だろう。日本の「システム」においてしばしば見られる、巧妙なやり方だ。何となくわからないように、癒着が隠されている。私は、税金を払っている市民として、そしてさらに税金の使途を監視すべきジャーナリストとして、これを問題視したい。

 私は、もはやこの問題は避けて通れないと思う。一方でカラ出張のような税金の使途を追及する表の顔があり、一方で公然と税金を日常的に食いつぶしている裏の顔がある。「棚上と線引」で書いたような、マスコミの棚上体質だ。

 ペルーの大使館人質立て籠り事件のために全国レベルではあまり話題となっていないが、福岡県庁の公金不正支出は、最近の二年と五ヵ月間で五十八億円と、過去最高の北海道庁の二十億を超えた。職員一人あたりに直すと、四十五万円にもなる。これを月割りにすると、一万六千円程度。一方、日経への接待費は、月額、十九万円。加盟人数の四人で割っても、五万円弱。何をどう計算しても、マスコミの方が多額の税金を使用している。私のように、これを本来、各社負担とすべきで、税金から支出することは全く不必要、と考えている人にとっては、相当に無駄使いと感じる。

 市の言い分としては、「これは接待ではなく、マスコミと協力することは公共の利益のために重要だ」となる。確かに、一概にマスコミにつぎ込まれている膨大な税金を、私個人の判断で不正支出と断定することはできない。しかし、少なくとも、次の二点の問題を指摘できる。

1.その金額が市民に情報公開されておらず、実態が意図的に隠されていること。

 ご存じのように、各社が毎月、十九万円もの接待を受けている実態を、市民は知らない。また、民間企業たるマスコミ自らが、それを報じるはずはない。完全な共犯関係にある。

 記者クラブの維持、経費などを調査するため雑誌「VIEWS」が全国八百箇所の役所や公的団体に対して行ったアンケートによれば「どんなに少なく見積もっても、年間百十一億円もの税金」が使われているという調査結果もある。この実態が、市レベルで広く明らかになった時、市民がそれを当然のこととして認めるだろうか。「マスコミ自らが賃貸料を払うべき」と考える市民は少数派なのか。私は、この額はとても疎かにできない額だと思う。また、「市民寄り」でなく「行政寄り」の情報ばかりが優先的にマスコミに入るので、市民サイドからの見えない損失は大きい。画一的な記事が多く、ニュースがつまらない原因でもある。記者が楽なのは確かだが、市民、納税者の立場からはデメリットしか思いつかない。

 この実態が「公共の利益」なのか、「税金の無駄使い」なのかは、納税者たる市民が決めることだ。お役所が自らの便宜のため、また遂行したい政策の実現のためにマスコミを接待するなど、多くの市民にとってみれば、無駄使いだと思う。少なくとも私は、民間企業が、働く場を税金で提供されているなど、理解できない。役所とて圧力団体に違いないし、自らの勢力拡大のために行動することは、珍しいことではない。民間と比べ特別視する理由はない。

 都庁と建設省の記者クラブで仕事をしていた先輩によれば、東京ではかなり改善が進んでおり、幹事連絡は各社持ち回りで、担当の職員は置かれず、コピー料金さえ各社自己負担だという。公金不正支出の第一位、第二位が福岡と北海道、という事実が象徴しているように、田舎に行くほど、公金に対する考え方は、遅れているのだろう。
 とにかく、監視しないことにはどうにもならない。当事者たるマスコミは民間企業であり、この問題に蓋をしたがる。情報公開して、市民に問うべきだ。

2.マスコミが圧力団体としての役所の接待を平気で受けているという癒着体質

 記者クラブへの税金投入が、「公共の利益」なのか「税金の無駄使い」なのかを市民が判断する以前に、これは本来、マスコミの側から進んで取り組み、金を返すべき問題である。それは、新人研修で誰しもが教えられる「原則」に照らすまでもなく、経済的な便宜供与を受けることは報道、言論を歪め、しかもそれを隠している実態は、読者に対する背信行為だからだ。
 まずは、日経だけでもいいから、金を払い始めるべきだ。過去にわたって税金を返せとまでは言わない。毎月、十万でもいい。最終的な記者クラブの在り方を提示してもいい。各社がそれに追随しないのなら、それを自戒を込めて報じればよい。絶対にしないであろうが。

 _公金で誰の目からも明らかな接待を受けているマスコミが、「接待はいけない」という。まさに五十歩百歩の見本であるが、「棚上と線引」で述べたようなタクシーチケットの話に代表されるように、しばしば、「五十歩」なのはお役所であって、「百歩」がマスコミと思われることが多い。

 私は社内報の新人紹介で、こう書いている。
「紙面とのギャップが面白いですね。ヘビースモーカーがタバコの有害性についてとうとうと説いているようなもの。全く説得力がありません。」

 これは、日経という一企業だけではなく、マスコミ業界の体質でもある。殺人の常習犯が「殺人はいけない」などと言ったって、気違いだと思われるだけだ。今、県庁や市役所の公金不正支出を批判しているマスコミは、その本質を考えれば考えるほど、滑稽だ。今では、新人研修で教えられることが、いかに偽善的であるかは、はっきりしている。

 私は、常に実行する。情報インフラの遅れを批判した時、情報通信部に直談判し「日経テレコン」を自分のパソコンから直接使えるようにしたこともある。今では、自宅でも記者クラブでも、すぐに過去の記事を検索し、FAXに打ち出すことが可能だ。不満を言うのは簡単だ。文句ばかりを言うのは、私が最も嫌うマスコミ体質である。

 現状維持は、明らかに記者として、また市民としてのモラルに反する。「資本の論理」で述べたように、私は「個人のモラルや良心が、資本の論理に打ち勝つ社会」の創造を目指している。確かに、日経が常識的な記者クラブ費を払いはじめたら、相当な額になる。十五もの記者クラブに加盟しているのだ。もちろん、商業主義の情報産業としての日経は、歓迎しない。しかし、そこで何もせずに諦める記者たちは、資本の論理に負けていることを意味する。

 NHKに顕著であるが、カラ出張問題などが明らかになると、一方的な報道が目立つ。映像に出てくる人全員が、怒っている。この分なら、記者クラブ問題が情報公開されても、ちゃんと「血税をどうしてくれるんだ」的な一方的報道をしてくれるだろう。ちなみに私は、厚生次官が逮捕された時、怒りの声ばかりの一方的報道を阻止すべく「民間ではもっとひどい使い方をしているだろう」という市職員の声を全国版の「街声」コーナーに載せた。

 私は、ここぞとばかりに時流に乗り一方的な公金不正支出の特集を組むような他マスコミとは一線を画し、もっと根本的な問題を問いたい。これは「資本の論理」の中で、モラルに反して記者クラブで仕事をさせられている私の、罪ほろぼしでもある。


掲載時期:98年秋           (当時の原文そのままです)
「マスコミの責任度・プロ度」

 現役官僚の榊東行は、小説の主人公(大蔵省銀行局課長補佐)にこう言わせた。「紀村に言わせれば、政策を批判することだけで飯を食っている野党やマスコミほど楽な商売はなかった。そもそも政策などというものは、ケチをつけようと思えばいくらでもケチをつけられるものなのだ。逆に言えば、もし完璧な政策などというものが存在するとすれば、世界中のどの国も同じような政策を実施して、同じように繁栄するはずなのである。_そもそも、政治部や経済部の記者のうち、法学や経済学の専門教育を受けた者は何割いるのであろうか?」(「三本の矢」)

 この最後の問いに対する答えとしては「ほぼゼロに近い」が適当だ。「どの新聞も、政治家主導で危機打開策を早急に打出すべきだという総論では一致するのだが、肝心のその先ーー対応策の具体的・現実的なあり方にまで踏込んでいるのは、わずかに日本政経新聞一社だけであった」という形でもっともマシな新聞として登場していると思われる日経ですら、記者の大半を早稲田大学という専門教育からほど遠い大学の出身者で占め、入社後は十カ月の語学留学以外に社費で留学する制度が全く存在せず、自費留学したいと申し出れば「そうしたいなら会社を辞めるべきだろう」と平気な顔をして言う部長たちばかり、というお粗末さである。

 小林彰・慶大教授が、似たようなことを述べている。「以前にこの欄で、『各政党は選挙の際に次年度予算案を提出すべきである』と述べたが、マスコミも年頭に、各社が理想と考える当該年度予算案を提出してもらいたい。そして、その予算案の根拠となる各社の理想にしたがって、政治や経済を批判してもらいたいものだ。そうでないと、国民の不信や不満を煽るばかりで、結局はどうしろと言っているのかが分からない」(「東洋経済」)

 これら官僚や大学教授といった、それなりに責任ある立場で一貫した理念の下で政策を主張する者から見ると、マスコミというのは本当に楽な商売に見えるようだ。どんなに素晴しい政策でも、政府がやるからには予算が必要で、予算の総枠を無視した議論は意味を為さない。宇宙開発もどんどんやれ、減税もやれ、と言うのは簡単だが、膨大な財源はどうするのかに触れない無責任な議論がマスコミには多い。

 榊は「政策を批判することだけで飯を食っている野党やマスコミ」としているが、野党とマスコミを同列に扱っては野党が可哀想だ。野党だった社会党が首相のポストを得て責任ある立場になった途端、自衛隊や日米安保を認めるなど政策を180度転換したのは記憶に新しいが、その後の社会党の命運を見れば、無責任な主張をしていた野党が、確実にしっぺ返しを受けていることがわかる。つまり、野党の主張には常に多大なリスクが伴うのだ。それに引替え、マスコミはどんなに無責任な主張をしてものうのうとしていられる。確かに「楽な商売」である。一度、朝日新聞あたりに政治をやらせてみたらいい。少しは謙虚さを持てるようになるだろう。小沢一郎がマスコミに対し怒り出すのも、わかるような気がしてならない。どう見ても政治家とマスコミは、責任度において対等ではない。

 こうしたマスコミの無責任さの被害者であるサッカー日本代表の岡田武史監督がこう述べている。「合宿の二カ月間、私たちはいろいろなことを書かれ、報道され続ける。その報道は常に一方通行で、選手たちが読んで『それは違うよ』とか『そんなこと、言ってないよ』と憤るケースがあっても、彼らには反論のしようがない。だから、いちいちストレスをためこむしかないのだ」「メディアからのプレッシャーに対しては『自分はこの判断ひとつひとつにプロとして生活をかけている』という気持ちが重要だった」(「ワールドカップ戦いを終えて」論座)。そうなのだ。彼らは「プロとして生活をかけている」のである。

 マスコミには、その気持が果してあるのだろうか。もしあるのならば、専門的知識をつけて対等にわたり合うために、研修や留学制度を設けているのではないか。ページ数を増やす前に、記者教育にカネを使うのではないか。少なくとも、プロ意識が極めて薄いのは、疑いがないだろう。

 アマチュアなのに仕事として成立ってしまう現状。その原因はと言えば、基本的には、どうしても競争を阻害している、再販制度を中心とする制度上・事実上の規制に求めざるを得ない。だが私には、それ以前の根本的なところで、マスコミには(特にサラリーマン記者には)、学者や官僚や政治家より以上の責任を負えないし、プロとしての生活もかけられない性質があるという点で、やはり下等な職業なのではないか、という気持ちが潜んでいるのである。


例4:会社の命令に従わず反抗的だ、とされたらしい文書
掲載時期:98年夏(書いたのはHP閉鎖させられ中の97年5月) 
                   (当時の原文そのままです)

「悪魔との契約-1」

 週刊朝日の記事(→全文)について、部長と缶ビール1缶ずつを手に、30分ほど議論した。ある程度は予想していたし、問題点をはっきりさせることは私の目的でもあり、望むところだった。

「君がホームページでの公開を辞めないのなら、私は君を推薦することができない」

「言論を封殺する気ですか。新聞として、自殺行為ですよ。私には憲法で言論の自由が保証されている。そもそも、なぜ中味も読まないで、週刊誌に出ただけで文句を言うのかがわからない。事実についての議論はいくらでも受ける。」

「受け入れる側が嫌がるんだから仕方ない。言うことを聞いた方が、君にとってベターな選択だ。日経にいるメリットは大きいだろう。君はまだ若い。」

「__そうですか。人事権者に言われたら、どうにもならない。私は今のところ、3年で辞めることは、考えていませんから。組織の汚なさを実感します。」

 つまり、このままでは、2年後に私の希望する部署に行けない可能性が高くなるというのだ。整理部に左遷され記者でなくなったら辞めることは今から決めているが、その可能性も一気に高まり、地方支局に飛ばされることも考えられる。日経が天然記念物級の古く汚れた組織で、自由濶達どころか「不自由統制」極まりない社風であることは、私が何度も指摘してきた通りだ。前科の固まりのような組織なので、私は本当に殺られかねない。人事権をちらつかせて部下を脅すとは、最低の行為だと思う。

 もし私が、自分を受け入れる側の部長なら、大歓迎するだろう。問題の発見、活発な議論、透明性の高い組織、適度な緊張感。記者として理想的な職場だ。しかし、日経の各部署の部長たちは皆、自分に負い目ばかりがあるから、恐れるのだ。自分が悪いことをしているという自覚があるから、恐れて、私のような組織に自浄作用をもたらす改革者を受け入れられないのだ。何と情けなく、何とお粗末な人達のいる組織だろう。

 硬直化した組織の本質を見た気がした。自分の身が少しでも危なくなると、中間管理職が守りに入る。出る杭は打たれ、いつまでたっても組織に変革はない。結局、人事権者1人の判断で部下1人の人生など、どうにでもなるのだ。私は、何としても早くこの息苦しい組織を出たい。窒息しそうだ。言論機関でもあるはずの新聞の記者に言論の自由がないのだから、これほど馬鹿げたことがあるだろうか。生きがいを奪われた気分だ。

 言論活動を平気で抹殺するような組織に記者が身を置くなど、本来、恥ずべきことだと思うし、蔑まれて当然だ。私は今、日経の名刺を差し出すたびに悪魔が薄気味悪い笑いを浮かべて炙りだされてくるようで、非常な自己嫌悪に陥っている。

 私は、何としても早いうちに、フリーエージェント宣言をしなければならない。そのためには、それなりの年数を経た経験の蓄積が必要だ。極めて突出した形となって目に見える実績がないならば、最低でも4、5年は社会人をしない限り、認められないのが現実だ。従って、知識を吸収し、経験を積む場として割り切ることにした。日経の記者は、社長から話を聞き、議論し、知識を拾得し、自身の考えを組み立てることができる絶好の研修場である。日経の名刺をできる限り利用し、悪用してでも、長期的な利益をモノにしてやる。

 私は、極めて政治的な判断で、記者としての良心を1時的に売り払い、信条を曲げ、日経という悪魔と手を結ぶことにした。笑うがいい。蔑むがいい。私はいつか、この腐った組織を徹底的に、打ちのめしてやる。潰してやる。そして、権力を握り、最終的な目的を到達してやるのだ。

 目的のためには手段を選ばず。今は、いわゆるマキャベリズムを実践する時なのだ。
「君主は、ことに新君主の場合は、世間がよい人だと思うような事柄だけを、つねに大事に守っているわけにはいかない。国を維持するためには、信義に反したり、慈悲にそむいたり、人間味を失ったり、宗教に背く行為をも、たびたびやらねばならないことを、あなたには知っておいてほしい。したがって、運命の風向きと、事態の変化の命じるがままに、変幻自在の心がまえをもつ必要がある。そして、前述のとおり、なるべくならばよいことから離れずに、必要にせまられれば、悪に踏み込んでいくことも心得ておかなければいけない。」(マキャベリ「君主論」より)  

「さて、結論を下すとすれば、運命は変化するものである。人が自己流のやり方にこだわれば、運命と人の行き方が合致する場合は成功するが、しない場合は、不幸な目を見る。わたしが考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突き飛ばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。要するに、運命は女性に似て若者の友である。若者は、思慮を欠いて、あらあらしく、いたって大胆に女を支配するものだ。」(同上)

 私は、今は「悪に踏み込んでいく」時であると判断した。自分にとっての長期的な目的を達するため、悪魔と手を結ぶのだ。ただ、運命が「言いなりになってくれ」そうな時と判断した時には、いつでも「果断に進む」用意があることは言うまでもない。だが、まだ機は熟していないのだ。以下のようなコメントを送ってくれた愛読者には、理解を望むとともに、私が1時的に悪魔と手を結ぶことを許して欲しい。いずれ見返す時が、必ず来ることを信じて。

(以下、同期記者3人のコメント)
「一年前からやってるのに、気付かないとは、日本のマスコミがどれだけネットにうといかというのがうかがえる。日本の硬直化したシステムをことあるたびに取り上げている日経自身も古いってことが露呈されたっつうことっすね。ま、それでも他社よりましなのかもしれないけど。」


「記事が出てやっとホームページの存在をしったような感覚の鈍い人間に非難される筋合いはないのではないか。組織というのは異質な物を排除する力が常に働いているだけじゃなく、自ら変わろうという意思はまったく持たないんだろうね。」

「たとえばキャップが『ふざけたことやりやがって』と差し止めにかかっただけなら、理不尽なことではありますが、苦笑で済むことだと思います。でも、もっと上のところから、つまり『会社』という呼称があてはまるランクから何らかの圧力があったのだとしたら、苦笑ではすまされないことでしょう。きれい事を言うようですが、僕は日経という会社は比較的言いたいことのいえる場所なのかな、と思ってきました。偉い人は知りません。でも駆け出しの人間が何かを言うことに目くじらを立てるような大人げない真似は、コストとの見合いを考えてもする価値がないという冷静な判断ができるところだと楽観してました。たかがホームページ、といったら渡辺君に失礼ですが、自腹を切って開設したページ上で自分の意見を開陳することにまで口を挟んでくるのだとしたら、正直ショックです。」
 


例5:「機密を漏らした」「流言した」とされたらしい文書

掲載時期:98年秋              (当時の原文そのままです)
「共同体と機能体--3」                    

Q.途中入社者は賃金表のなかでどう位置づけるのですか。
A.現在、特別な能力を持った人を中途で採用するときは、嘱託として採用し年
  俸制を適用しています。現時点では、これ以外に中途採用することは考えて
  いません。            (社外秘「新人事・賃金制度」より)

 嘱託というのは「正式の雇用や任命によらないで或る業務にたずさわることを頼むこと」である。つまり正社員とは一線を画しているわけである。

  ◇ ◇ ◇
 二十年以上も組織論を研究した堺屋太一は、伝統も名声も資産も規模もある組織が、実に短時間に滅亡する原因を三つに分けた。『機能体の共同体化』『環境への過剰適応』『成功体験への埋没』である。そして『機能組織の共同体化』を招く根本的な原因は「組織倫理の退廃」にあるとした。

 「倫理には腐敗と退廃がある。腐敗とは、悪いと知りながらも悪辣な行為が横行する現象である。汚職や権限の濫用、身内人事などは、倫理の腐敗に当ることが多い。これに対して倫理の退廃とは、何が悪いのか分らなくなる現象だ。世間一般では罪悪とされていることが、1つの組織の中では正義と認められているとすれば、倫理の退廃の極みといえる。いわゆる暴力団はその典型だ」(「組織の盛衰」より)

 「新聞記者はヤクザ稼業」とはよく言われるので、倫理の退廃も驚くことではない。新聞は本来、機能体である。倫理の退廃は、機能体の共同体化を招き、堺屋氏の指摘する「組織が死に至る病」となるだろう。一般に「倫理」や「正義」といった言葉ほど定義の難しいものはないが、「組織内の」さらに「機能組織の」とすると、かなり明確になると思う。機能組織には明確な目的があるからだ。

  ◇ ◇ ◇
 プラトンの想起説というのがある。魂というのは既に永遠不滅の存在たるイデア(普遍)を学んでしまっており、人間は現実世界において、それを少しづつ想起する、というものだ。魂が不滅かどうかは別として、私は遺伝情報などによりやはりイデアはあると思う。

 例えば、外見的な美男美女というのは人類でかなり似通っている。世界の田舎の一部の民族では極めて不健康に太った人間に美しさを感じているかも知れないが、情報が行き渡り、より多くの人間を見たら、やはり目鼻立ちの整ったスリムな人間を美しいと思うに違いない。過去の誤解は、単に外の世界を知らなかったからに過ぎない。若き日のアラン・ドロンは多くが美男と認めるし、オードリー・ヘプバーンはやはり美女である。それは、美男美女の永遠普遍のイデアが、やはり人間の魂の中に存在するからと考えるほかない。 

 同じように、正義や倫理にも、似通ったものがある。人殺しは人類の多くが悪と考え、倫理的に間違っていると感じるに違いない。だからこそ、核戦争は何度も一歩手前で踏みとどまってきたし、平和を求めて国連ができ、加盟国が増えつつある。この正義や倫理のベクトルは一定であって、多少の揺り戻しがあっても、長期的に戻ることはない。終着点が魂の中にあるからである。

  ◇ ◇ ◇
 そう考えると、日経の組織内倫理は、保たれているのか、退廃しているのか。私は勿論、退廃しつつあると考えている。冒頭で挙げた例にはそれが色濃く出ている。まず、基本的にプライバシー以外は情報公開を迫るべき機能を持った新聞が、単なる人事制度を堂々と「社外秘」としている。これは自己矛盾であり、倫理の退廃と言うほかない。

 さらに、雇用大流動化時代、といった特集を何度も組み、終身雇用の終焉と有効な人材活用を明らかに主張しながらも、自分たちだけは聖域に置き、中途採用は頑としてしない。ヘビースモーカーがタバコの有害性を主張し「吸うのはやめるべきだ」と主張しているようなものである。これが倫理的に通用するのか?そこに普遍性はあるのか?考えるまでもない。機能組織以前の問題である。こうした「棚上げ体質」を日経新聞症候群とでも名付けたい。少なくとも朝日新聞はマスコミの批判対象になるように情報が漏れるオープンな会社で中途採用も活発。
テレビ業界でもNHKなどは大量中途採用をしており、日経の特異性は際だっている。

 私のホームページを閉鎖させるなどして、こうした実態を必死に隠そうとしているところを見ると、悪事であることをいくらかは認識してはいるようだ。ということは、倫理の「退廃」というより、「腐敗」という面もある。「社外秘」とするのも、後ろめたいものを認識している裏返しだ。いずれにせよ、腐っていることに大差はない。 
  
  ◇ ◇ ◇ 
 ただ、やはり明らかに倫理の「退廃」とした方が適切な場面が多い。3月は異動の時期だが、自己紹介で皆が外さないのは入社年次である。「ロクサンの○○です」「ゴーハチの○○です」などという挨拶は、完全な倫理の退廃だ。バカじゃないか、といつも思う。そういう時代でないことは、自分らが発行する新聞を読めばわかるのだ。

 世界中で日本と韓国という極めて限られた田舎地方でしか通用していない「夜回り」という取材方法を平気で続けているのも、倫理の退廃の好例だ。

 パーテーション(仕切り)がない島型配置の机も、個人あてにかかってきた電話なのに編集部内15台の電話が一斉に鳴り響く仕組みも、機能体としては明らかに集中力を欠いて仕事の能率を落しており、これを是正しようとしないのは倫理的にイデアからほど遠い。機能体組織における倫理の退廃である。

 こういった、棚上げして批判することが倫理的に通用せず、全く普遍性がないことは、誰もが感じるだろう。ただ、知られていないだけだ。日経は批判の的になることを恐れ、冒頭のように何でも「社外秘」にしている。例えば、社員がどの部署に何人いるかという何でもないデータも、社外の人間は知るのが難しい。

 昨秋の名簿によれば、最も記者数が多いのは産業部で132人、次が整理部で120人。この2つが圧倒的に多い。同期28人中、整理部には9人もいる。以下、証券部68、経済部64、流通経済部53、政治部36、商品部30、中堅・ベンチャー部27、日経ウイークリー編集部24、国際23、経済解説部19、科学技術部18、ウイークエンド経済部16、アジア部11と続く。最も打切り手当が高い(つまり給料が高い)のは経済部という。

 この程度の全くプライバシーと関係のない情報でさえ、社外の人間はなかなか知ることができない。記者希望で就職活動を進める者でさえ同じで、従って、社内事情も知らずに入社して後で後悔するわけである。それで官僚には「情報公開法を制定しろ」と平気で社説で主張するわけである。だから説得力以前の問題で読む気も起らない。私がこうして情報公開するのは、私が倫理的に社内の狂った状態に染まっていない証と思って欲しい。

 日本の大多数の有権者は政治腐敗を放っておいているが、「自分たちが選んだ政治家がやったことだから」と半ば諦めているからだろう。自分を棚上げしないだけ倫理は保たれており、日経よりましである。

  ◇ ◇ ◇
 中央官僚は、より多くの予算を分捕り、より権限を拡大した者が評価され昇進していく。権限を後ろ盾に派手に接待を受けるウエットな関係が当り前になっている。日経の記者は、深く掘下げた企画記事や調査報道よりも、夜回りを重ねて社長人事を抜いたり官僚の手先になれる人間が評価され昇進していく。社長や官僚が悪いことをしているわけでもないのに「夜回り」と称して毎日、社長の家の前までハイヤーで駆けつけ「お帰り」を待って話を聞くウエットな関係が当り前になっている。これらも一般人の倫理観からかけ離れた典型的な「倫理の退廃」
である。読者が人事情報ばかりを望んでいるというデータは全くない。単なる閉鎖的な日本という国での共同体化した組織の慣習である。つまり、日常的な夜回りや重要ポストでもない人事の取材の結果を記者の評価基準とする組織は、祈祷で病気が治ると信じている奥地の少数民族みたいなものだ。普遍性はなく、いずれ消え去る運命にある。

 現在の日本のように莫大な借金があるにもかかわらず不必要な公共事業にカネをつぎ込むようなカード破産まがいの政策は、普遍性がなくマーケットが受付けていないために株価も上昇しない。当然、首相は、国際会議に出るたびに世界中から「なんとかしろ」と言われる。自民党は自らの支持基盤である土建業者を救う公共事業を、日本経済・世界経済よりも優先している。首相の尊大な表情から判断すると罪悪感も感じていないようだ。国全体のために働くという政府・代議士の本来の機能から考えると、機能体における「倫理の退廃」がはなはだしい。

  ◇ ◇ ◇
 今の部長はイベントが大好きだ。休日を潰しての花見や運動会、1泊旅行が毎年、企画される。プライバシーの概念などないため、全員の生年月日まで平気でリストアップして張出してしまう。家族と勘違いしているわけである。まさに共同体化を強めている。「組織倫理の退廃が機能体の共同体化を促進し、組織を死に至らせる」との堺屋氏の分析によれば、次に来るのは間違いなく組織の死である。ただ、残念なことに、日経新聞は規制に守られている。官僚も同様だ。堺屋氏の分析は「規制」についての考察が抜落ちている。

 渡福の米寿祝いは、共同体が機能体化した例で、これは規模が小さいうちは、さほどの問題はない。大学生が気の合った仲間同士でベンチャー企業を設立するのも、共同体が機能体化した例の1つだ。アサヒコーポまで行くと無理であるが、小規模のうちは両者の両立が可能だろう。好きな者同士でやっているうちは誰にも危害はないし、社会に与える影響も少ない。共同体の目的は、満足感を得ることだから、満足感がなくなったら組織を解散すればいい。

 しかし、逆に機能体が共同体化すると、組織は死に至る。そうなると、本来、機能体に相応しいはずの構成員が組織から出て行かざるを得ないという不幸がある。さらに問題なのは、さっさと死んでしまえばいいのだが、共同体化してもなお、規制に守られているがためにレイムダックとして幅を利かせ続ける組織が存在することだ。それが日経である。

 官庁は行革の対象となり、金融業界にはビックバンがある。しかしマスコミは、日米交渉において再販制が公正取引法に違反する貿易摩擦の1つとして取上げられても、平気な顔で自らへの規制だけは必要だと主張し、他に関しては規制緩和だという。「橋本首相、再販維持に理解」などという3段見出しの記事が日経に載っていたが、あの大本営発表には本当にあきれてしまった。倫理の退廃もはなはだしい。銀行が給料が高いと言いつつも、自らの高給は隠す。自らは必要のない莫大な交際費を使っているくせに、企業の交際費を批判する。これらは皆、日経新聞症候群(棚上げ体質=倫理の退廃)である。

 倫理の退廃で共同体化を進めた機能体、日経。死に至る道を歩んでいるにもかかわらず規制に守られ、狂った倫理をひたすらに隠し続ける。規制は再販制だけでなく、非関税障壁たる言語があるため外国の新聞社は参入が不可能に近く、しばらく新規参入も自由競争も望めなさそうだ。それならば、やはり何らかの手段で機能体的なものをはっきり分け、本来の機能に相応しい記者が働きやすい状態にしなければ、狂った人間がのさばり続け、読者や社会にとって悪影響を及ぼす。しかし、日経批判は難しい。文芸春秋でウォルフレンが大蔵と癒着する日経の
狂った倫理を指摘(以下参照)し、「噂の真相」でも特別取材班が日経幹部が大蔵幹部を膨大な費用を使って接待しているという社内から見ればいかにも当然としか思えない事実が報じられているが、こうしたメディアが限界だろう。日経に嫌われることのデメリットは言論活動をする者にとって計り知れないし、社畜化した社員は終身雇用を信じているので、倫理よりも自らの立場を守るために共同体内の異常な倫理に自然に染まっている。

>「日本の新聞は自己検閲で国際的に知られているが、大蔵省がからむこの特定
>の分野では、自己検閲は極端な域に達している。この仕組みにおける中枢組織
>は『日本経済新聞』だ。同紙と、例えば英国の『ファイナンシャル・タイムズ
>』や米国の『ウォールストリート・ジャーナル』の違いは、官僚との結婚とで
>も呼ぶべき関係にある。『日経』はまぎれもなく、経済ニュースと経済評論の
>分野で日本の主要なフィルターだが、同紙の編集幹部と記者たちは大蔵省のさ
>まざまなレベルの役人たちと密接な関係を保っている。こうしたコネはきわめ
>て重要とみなされ、社内の昇進にもかかわるほどだ。経済史におけるさまざま
>な奇妙な同盟関係のなかでも、これはもっとも意味ある同盟の1つである。_

>_人々の描く現実の像であってほしいと大蔵省が願うまさにそのものを、『日
>経』は忠実に人々に伝えるからだ。そして『日経』は忠実に、真実のひとかけ
>らだけを伝える。しかもそうすることによって『日経』は、他の新聞雑誌の経
>済記事に多大の影響を与える。それを示す派手な実例は、日本の直面する最優
>先課題が財政赤字の削減だという考えを担ぎまわったことにある。日本はここ
>20年ほど巨額の財政赤字を抱えていたが、官僚たちはさして心配する様子は
>なかった。それが突然、日本経済の現状を論じる事実上すべての発言が、財政
>赤字を何とかしなければ、という説教の大合唱に合流したのだ。この新たな優
>先課題設定の真の理由は、消費税率引き上げ正当化の新たな口実をもうけるこ
>と、また大蔵官僚の裁量権を削ることは誰にもできないことを再確認させるこ
>とにあったのだが、それらは一切、論評の対象にならなかった。こうした情景
>を目にするとき私は、『日経新聞は大蔵省発の音響刺激の増幅装置だ』という
>自分の比喩は正しかったと確信がもてるのだ。日本の第一線の経済評論家や学
>者たちは、この音響増幅装置に接続されているスピーカーに過ぎない。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン、「文芸春秋」3月号より)

 およそ世の中のあらゆる事象は、「共同体的なもの」と「機能体的なもの」に分けられる。そして混迷の時代である今、それをはっきり分けるべき時にきていると思う。 (つづく)




以上