中級編
蕉門にあっても、このように季語の本意を立てる論がありますが、芭蕉の教えから逸脱した考えです。芭蕉は、連哥で固定化した季語の本意にとらわれず、季語を普通語にして操り、自分自身の季節観を生み出しました。「季節のひとつも探し出したらんは、後世のよき賜」と述べているのは、創作に関わる者への厳しい教えです。歳時記の例句から本意を探るのではなく、あなた自身の発見が尊いことは言うまでもありません。 俳句では一句一季語で季重なりを嫌いますが、それは独立した一句故であって、詠み切らない連環の一句である連句では、季重なりを必ずしも嫌いません。
陰陽暦のずれや、現代生活の無季化、南北に長い風土を考えると古典的季語が、かならずしも季節感を醸し出すとは言えません。そのような季語の無理使いは避けるのが賢明です。 (上級篇へ続く)
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