夢の箱庭
体中が、ずきずきと痛む。
激痛ではない。むしろ痛みとしては弱いほうだ。
青年は、怪我には慣れていた。
剣士系の道士として教育を受けていた頃は、一日だって生傷の絶えない日はなかった。
人界に降りてから経験した実戦でも父親譲りの血気盛んな性格の為か、傷を負うことは多かった。
一度なぞは両手足の腱を切られた上、腹を裂かれたこともある。
だが、こんなじわじわと真綿で首を絞めるような鈍痛はかつて経験したことが無かった。
いっそ脳天を貫くような激痛であったなら、そのまま意識を手放すことができるのに。
「………うぅ……………………」
四肢を支配する痛みに、青年は悶える。
手も足も、瞼さえも自由に動かすことの出来ない闇の中で、ただ一つ痛覚の支配から逃れた喉を
何度も震わせて、呻き続けた。
どれほどそうしていたのか………
自分の方へと近づいてくる気配を、彼は感じた。
……………誰……さ………………………?
朦朧とする意識を、気配に集中しようとしたその矢先、ひんやりとしたものが額に触れた。
「………あっ………………………」
おもわず開いた口元に、硝子の堅くひんやりとした感触が当たる。
容器らしいそれから、青年の口中に液体が注がれた。
仄かに桃の薫りのするそれは良く冷えていて、舌のとろけるような心地よい甘さが、からからに
乾ききっていた喉を緩やかに潤していく。
気がつけば、自分から進んでそれを飲み干していた。
不思議なことに液体が胃に収まるにつれて、あれほど青年を苛んでいた鈍痛が、
まるで嘘のように引いていく。
それと同時に、痛みで麻痺していた五感が徐々に甦ってきた。
「いま包帯を替えるから、動かないで。」
意識があることに気づいたのか、其の人物は青年にむかって諭すように語りかける。
声音からすると、随分若いようだ。
話し方はしっかりしているが、まだほんの子供のようにも思える。
それに、その声にはどこか聞き覚えがあった。
(………アンタ………誰さ…………………?)
いまだ霞みがかった頭を、気配の方向へ向ける。
漸く動かせるようになった瞼を、ゆっくりと開けた。
薄暗い部屋の中に浮かぶその人影は────
青年が誰よりも良く知る少年(外見は)だった。
「スースぅっ!」
「うわっ…!」
いきなり腕を掴まれ、驚いた少年は跳びずさった。
当然のことながら、青年もつられるように堅い石床に勢いよく倒れ込む。…それも少年の真上に。
「いででででででっ───────っ!」
落ちた拍子に全身を襲った激痛に、青年の顔がこれ以上ないくらい歪む。
「あっ、あんた馬鹿かっ!」
自分より二回りは大きい身体をようやく押しのけ、少年が怒ったように叫んだ。
「全身打撲だらけの上に、肋骨が三本も折れてるんだぞっ!人がせっかく介抱して
やったってのに、その恩を仇で返す気かっ、この馬鹿っ!」
怒鳴るついでとばかりに、包帯だらけの青年の頭上にポカリと鉄拳をお見舞いするのも忘れない。
威力はたいしたことなかったが、少年の鋭い突っ込みは今の青年には効き過ぎるくらい良く効いた。
「っっっ!…スースぅ…ひどいさ〜っ、俺っち怪我人だってのに…」
「…『師叔』?誰のことだ?」
ひとしきり怒鳴りつけて気が済んだのか、きょとんとした顔で少年は尋ね返した。
「へっ…?」
逆に切り返され、青年は面食らう。
なにをいってるのだ、この人は。
(ひょっとして、俺っちをおちょくってるさ?)
「もー、からかうの止めてくれよ。太公望スース。」
「太公望師叔…?僕はそんな人、知らない。」
「……………………………………」
再び返され、青年は言葉を失った。
今度はまじましと少年の顔に見入る。
からかっているのかと思ったが、覗き込んだ彼の瞳には一点の曇りも無い。それに………。
今まで気づかなかったが、雰囲気がいつもの彼と随分違う。
なんというか、刺々しいとでもいうのだろうか、張り詰めているような感じだ。
普段の彼は、もっとこう『にょほほほぉ〜』というか、『はにゃ〜ん』というか…上手く
説明出来ないが、こんな感じじゃないのだ。
もっと穏やかで、暖かで──そう、まるで風のような。掴みどころのない…けれど、
いつまでも側にいたいと思わせるような、そんな人だ。
それに───いま気がついたが、身体のサイズ自体も青年の知る彼の規格から、
ほぼ一回りくらい縮んでいる。
よく見れば、顔の造形自体もなんだか幼いような…気がする。いや、冗談でなく。
これは………もしかすると………
「………あのさ───」
何度も深呼吸を繰り返し、青年はおもむろに口を開いた。
「あんた、誰さ?」
恐る恐る、尋ねる。
少年は憮然と、短く即答した。
「僕の名は呂望。崑崙の道士だ。」
今度こそ。
青年は目眩を覚え、床に突っ伏した。