事の起こりは、本当に些細なことだった。
日課の早朝鍛練の後、ぽっかりと空き時間が出来てしまい、散歩がてら西岐近隣の
探索にでも出ようかと思い立った。
いちおう許可を貰いにいくと、拍子抜けするくらいあっさりと了解された。
一人城下を後にし、国境の関所を抜け、東へ三里ほどの森に差しかかった時、
ふと自分を呼ぶ声が聞こえる。
「天化ぁ──────────っ!」
振り返れば、白い霊獣に乗った太公望が猛スピードで追って来るではないか。
「スース?」
びっくりして立ち止まった天化の目前で、四不象は急停止した。
「探索に行くのだろう?儂も行くぞ。」
「っ、えええええぇぇっっ!」
驚く天化ににっこり笑ってそう告げると、太公望は彼の傍らに降り立った。
そのまま四不象を従えて、すたすたと森の中へ入っていく。
「ちょっ……スースぅ………」
予想外の出来事からようやく立ち直った天化は、ずんずんと先をいく太公望に追いすがる。
「仕事はどーしたさ?俺っちが城を出るとき、周公旦さんに掴まってたじゃないか…」
そうなのだ。天化が探索の許可を貰いに太師府に赴いたとき、彼は周公旦となにやら
難しい話をしていた。
用件を伝えると「わかった」と素っ気なく対応し、まるで自分など眼中にないかのように話に
没頭してしまい、取りりつくしまもなかった。
その態度に、天化は幾分どころではなく機嫌を害されて城を後にしたのだ。
それなのに、今頃になって後を追ってくるとは一体どういう了見なのか。
天化の疑問に、太公望はあさっての方向を向きながら適当に応える。
「あ、ああ…。もう済ませてきたのじゃ。」
(なーんか、妙だな…)
そのあからさまに怪しげな態度に、天化の思考は直ちに検索モードに突入した。
じぃ─────────────っと、太公望の小柄な肢体を天辺から褄先まで検分する。
その視線が、天化の半分ほどしかない腰にぶら下がっている、小さな袋の上で止まった。
許容量ぎりぎりまで詰め込まれているのか、その布袋はぱんぱんに膨れていた。
そう、まるで桃を三つ四つ詰め込んだみたいに。
ぴーんと、天化の直感が快音を鳴らした。
(はーん…そういうことさ…)
「また食糧庫から桃を盗んださね、スース。」
「 っっ!」
的確な突っ込みに太公望の足がぴたりと止まる。
どうやら天化の読みは見事クリティカルヒットだったらしい。隣の四不象が、笑い目で必死に
口元を抑えつつ、無言で頷いている。
「どうせ周公旦さんに見つかって、ココまで逃げてきたんだろ?」
「う゛う゛う゛ぅぅっ!」
更なる追い打ちに、太公望はぐうの音も出ない。
遂に堪えきれなくなったのか、四不象は腹を抱えて吹き出した。
「天化さん鋭いっスねっ!」
「スープーッ!」
あっさり裏切ってバラした四不象を、真っ赤な顔で太公望が睨みつける。
だが主のきつい視線も、彼の笑いは止められぬらしい。四不象は突き出たおなかを両手で抑え、
中空をくるくると回転しながら笑い続けた。
(…………………ちぇっ。)
理由が解ってしまうと、先程の嬉しさも糠喜びまで後退してしまう。
「ま、俺っちはかまわないけどさ…」
小さくため息をつき、天化は再び歩きだした。
その後に太公望と四不象も続く。
むっつりと黙り込んでしまった天化に、一人と一匹は訝しげに顔を見合わせた。
あきらかに不機嫌オーラ全開の彼に、太公望はただ困惑するしかない。
しばらくは黙ってついていっていたが、元々必要以外では堪え性のない性格だ。
むずむずと皮膚を刺激する好奇心に逆らえず、ついに口を開いた。
「なーんか、今日はやけに絡むのう。」
「別にっ…絡んでなんかないさ。」
窺うように自分を見上げる太公望と視線を合わせたくなくて、わざと天化は足早に歩く。
だが太公望も負けてはいない。
普段四不象に乗ってぐうたらしているとは思えない脚力で、天化を追走する。
あっと云う間に二人の距離は縮まり、再び天化の顔を見上げるような体勢になった。
「だったら何故そんなに不機嫌なのだ、おぬし。」
「不機嫌じゃないさっ。」
追いつかれないよう更に速度を上げながら、天化はなかば吐き捨てるように呟く。
「なら、なんでそんなに眉間に皺をよせてぶすくれて折るのだっ。」
「悪かったなっ。これは『地』さっ!」
ただっ子のような天化の台詞に、下手に出ていた太公望もついに切れた。
「いい加減にせぬかっ!」
太公望の右手が駆け出そうとする天化の腕を掴み、強引に自分の方へ向かせる。
天化以上に幼さを色濃く残したその瞳には、はっきりとした怒りが浮かんでいた。
「云いたい事があるのならば、はっきり云えっ!」
「──────っ!」
売り言葉に買い言葉───。つられて怒鳴りつけようとした次の瞬間、天化の瞳が
奇妙な気配を察知した。
(あれは…───)
考えるより先に、体が反応する。
己の腕を掴む手を逆手に取って太公望の体を引き寄せると、天化は茂みの中へと身を潜めた。
「 天化っ!」
「しっ………」
己の不可解な行動に抗議しかけた太公望を、有無を云わさず黙らせる。
ほどなくして、森の奥から十数体の妖怪達がぞろぞろと姿を現した。
「………っ!」
太公望の瞳が大きく見開かれる。
妖怪達の人数の多さにも驚いたようだが、それ以上に彼等の持つ得物の方に視線が注がれた。
「おい、本当にこっちの方だろうな。」
先頭を歩く豚面の妖怪が、格下らしい犬の妖怪に確認する。
「へえ、間違いありません。この森を抜けると二つ三つ人里があって、三里ほどいきやすと
西岐っちゅー国があります。今度戦を起こすとかで警備が国の方へ集中してますんで、
いまなら人里の守りも手薄です。」
「そうそう。なにせ男どもが兵隊に駆り出されてますから、里には女子供しかいやせん。
今日は久しぶりの食い放題ができやすぜ、兄貴。」
「そうか。そりゃ楽しみだな、おい。やっぱ、食うなら若い生娘か赤ん坊だよなぁ…」
「兄貴も通ですねぇ…。」
ブヒブヒと聞き苦しい音を立てて豚妖が笑うと、手下たちも後に続く。
二人の気配に全く気づかないのか、妖怪達は卑下た笑みを顔面に浮かべて、際限のない談笑を始めた。
妖怪達の襲撃計画に、天化の目がすうっと冷たく細められる。
「待て、天化。」
即効で飛び出そうとする天化を、太公望がつよく押し止どめた。