3




 天化は不機嫌だった。

時刻はもう真夜中だというのに、ちっとも眠れない。 こうして横になっていても、どんどん目が冴えてしまって

どうしようもないくらい不機嫌だった。

 「ちっ…………」

 仕方なくゴソゴソと床から起きる。

 少し体を動かせば、疲れて眠気も出てくるかもしれない。

そう思って天幕の外に出た天化は、隣の天幕から明かりが漏れているのに気づいた。

 隣の天幕の主は太公望である。

ひょっとしてまだ起きているのだろうか。そう感じて天化はそっと垂れ幕を捲った。

 「師叔…?」

 期待に反して、中には誰もいなかった。

 ただ、白い霊獣だけが行灯の下ですやすやと寝息をたてている。

四不象を起こさぬよう中に入り、褥に手を触れる。

 床は冷えきっていて、随分前から主が不在なことを伝えていた。

 こんな夜更けに何処へいったというのだろう。

ふと、ある考えが頭をよぎる。

まさか、殷の王墓へ一人でいったのではないか。

 ありえないことじゃない。現に、今日の太公望はいつもと随分違っていた。

不安になって、天化は天幕を飛び出した。

近くを見回っていた歩哨の兵士を呼び止める。

 「太公望師叔を見なかったかい?」

 「軍師どのですか?でしたら、先程東の丘に向かわれましたが…」

 「東?西の陵墓じゃなくて?」

 「はい。月見がてら酔いを醒ましにいくと申されまして。」

 「ふーん。」

 予想がはずれてホっとしたものの、どうしたものかと思案する。

太公望だって道士の端くれだ。あんなのでも、十二仙の師父と同じく元始天尊の直弟子だし、妖怪の類いなら

本気を出せば一人でも倒せるだろう。

心配する必要など無い。それなのに。

放っておけと理性が告げる反面、後を追った方がいいと天化の直感が警鐘を鳴らす。

 相反する二つの思いが協議した結果…。

勝ったのは、直感のほうだった。

 「仕方ねぇ、見にいってみるさ。」

 放っておけるわけ、ないしな。

自分達にとって、大事な存在なのだから。

溜め息よりも先に、足の方は東に向いていた。

 

 

 丘の頂きまでの道はけっこう険しかった。

もともと、人の手の入ってない荒野である。

 整備された道なんかがあろうはずがなく、雑草は伸び放題、土も脆くて登る端から崩れ落ちていく。

それでもどうにか登りきった頃には、天化の全身から大粒の汗が吹き出していた。

 「ちっ…なんて道さ。」

 思わず口から悪態が出る。

こんな所を、本当にあの根性無しの太公望が不四象も使わずに登ったのだろうか。

 疑いの眼差しで辺りを窺うと、丘の尖端―今にも転げ落ちそうな岩の上―に小さな人影が座っていた。

それは、月の真下で瞑想しているようにも感じられる。数瞬ためらった後、天化は思い切って呼びかけた。

 「師叔……」

 小さな影が振り返る。

 「天化っ?」

 「っ―――!」

 “…………涙?”

振り向いた太公望の瞳から飛沫が飛び散ったように見えたのは気のせいだろうか。

 「どうしたのだ。」

 「いや…師叔がいるのが見えたから…」

 ぼそぼそと呟いて天化は太公望の横に腰掛けた。

 「………………」

 「…………………」

 声を掛けたものの、何を言っていいのかわからない。

 太公望の方もぼんやりと月を見上げたままで、天化を見ようともしない。

なんとなく気まずい雰囲気に包まれて、天化は今更ながら後を追って来たことを後悔した。

 「綺麗だろう。」

 唐突に。

 本当に唐突に太公望が呟く。

 「えっ…………」

 天化は面食らって、隣の少年―実際は自分の祖父よりもずっと年上なのだが―をまじましと見つめる。

 「今日は満月だから、月がよう見える。」

 「ああ……」

 ようやく合点がいって、天化も夜空を見上げる。

 なるほど、彼のいうように見事な満月が仄かに輝いていた。 

 「天化は月は好きか?」

 「うーん、好きでもないけど、嫌いでもないさ」

 「そうか。わしは好きだ。日も月も、すべての者を別け隔てなく照らしてくれる。」

 「そうだな。」

 彼らしい答えに、天化はクスリと笑う。

 思えば、太公望とこんなふうに二人で話すのは初めてではないだろうか。

なんだか、他の皆の知らない彼を知ることができたような気がして、気分が良かった。

俗にいう優越感というのかもしれない。

 気まずい空気からも解放され、さっきまでの不機嫌な気持ちも嘘のように跡形もなく消えた。

 「玉虚宮でもよく修行をサボッて、白鶴と月見をしておったよ。」

 「はは…師叔らしいさ。」

 「だが、崑崙から見上げる月は近すぎて、まるで墓場のようでわしは嫌いだった。やっぱり、こうして地上から

見る月が一番綺麗だ。」

 「そういうもん…?」

 「おぬしも年をとればわかる。」

 しみじみ語る太公望に、天化はプっと吹き出す。

確かに、太公望は年寄りだ。祖父の黄滾よりも更に十歳以上も年上である。

 だが外見だけなら、この人は自分よりも若く見えるのだ。

 「自分だって、見た目だけは若いくせにさ…」

 「『見た目だけ』とはどーゆー意味だっ!」

 「べっつにー」

 なかば本気で拗ねる様子に、ますますおかしくなって笑う。

 あんまり天化に大笑いされて、すっかりむくれた太公望はプイとそっぽを向いた。

 そのまま黙っていると、ばつか悪いのか太公望は歌を口ずさんだ。

 

 『白旗手にすは 無慈悲な死神

  白き死神 鎌持ちて

  天より来たりて 我らを狩る

  我らの命を 天に捧ぐ

  嘆きの眼に 怒りをのせて

  我らは天を ふり仰ぐ

  恐れの眼に 憎しみのせて

  我らは天を ふり仰ぐ

  いずこにおわす 我らの神よ

  我らの子らを 守りたまえ』

 

 未だ少年特有の甘さを含んだ歌声が、朗々と夜の静寂に響いて天化の耳を擽る。

 それは子守歌のような…呪詛の歌のような不思議な歌だった。

 「師叔、その歌は―――」

 「わしの一族に伝わる子守歌だ。白の死神とは殷のことだ。わしら羌族は、幼い時から

こうした夜伽歌で殷の恐ろしさを教えられるのだ。」

 「………………………」

 天化の顔から笑みが消える。

 幕府で彼の話を聞いた時から、うすうす感じてはいたのだ。彼の心の奥底で、殷への憎悪の炎が

今も燻っているのを。

 彼の心情が理解できないわけじゃない。

同じ立場なら、自分はきっと彼以上に憎しみの炎を燃やしたことだろう。

 けれど………

天化はどうしても顔が強ばるのを抑えられなかった。 つきん、と胸が小さな痛みを訴える。

何故だろう。

武成王の子として生まれたことは、こんになも誇りに思ってる。

 なのに………。

微かに、本当に僅かに、ではあるが。

殷人として生まれたことを、自分はどこかで嫌悪している。

 いままで、一度だってそんなことを考えたことはなかったのに。

 「すまぬ。」

 コツン、と天化の肩に太公望の頭が寄りかかる。

 「師叔…」

 「お主たちを責めるつもりも、苦しめるつもりもないのだ。わしの一族のことも、黙っておるつもりだった。」

 か細い声が、小さく言葉を紡ぐ。

俯いたその顔は、天化からは見えない。けれど。

 「忘れたつもりだった。仙界へあがって、歴史の流れの外に取り残されて…。」

 人界に戻ってきても、その思いは変わらなかった。

変わらないはずだった。

 「だが、此処へ来て、再びあの王墓を訪れて…綻びが出来てしまった。」

 幼い頃、封じ込めたはずの思い。

 懐かしさ…愛しさ…望郷…恐怖…絶望…慟哭。

喪失(うしな〉ったゆえに心の真奥に閉じ込めた心。

 あの時はそうするよりほかに無かった。

でなければ、立ち上がれないほど深い傷だったから。 子供だった太公望には、あの記憶は辛すぎた。

七十年たった今ですら、心が疼き出すのを止められないのだ。

 「らしくもなく動揺して、話さんでいいことまで喋ってしまった。そのせいで、お前たちにも

嫌な思いをさせてしもうた。わしもまだまだ修行が足らんな。」

 ゆっくりと、顔を上げる。

そこにあったのは、自嘲的な微笑み。

つきんと、天化の胸が痛む。

気づいたときには、太公望の腕を掴んでいた。

 「天化………?」

 きょとんとした――無防備な少年そのままの――瞳が天化の姿を移して揺れる。

 「俺っちは、そうは思わない。師叔のこと知ることができて良かったと思ってる。それに――…」

 感情が先走って、なかなかうまく伝えられない。

 自分が経験不足の『子供』なのが、今ほど悔しいと感じたことはなかった。

せめて、父親――いや、楊ゼンくらい生きていれば、もっとうまく励ませるのに。

それでも、天化は自分の思いを知ってほしくて、懸命に言葉を紡ぐ。

 「俺っちたちが欲しいのは、完璧な軍師じゃないさ。そんなの、師叔に求めてない。師叔には

…師叔には、俺っちたちが進む道を照らす灯火でいて欲しいんだ。」

  自分達が、けっして間違った道を進まないように。

 妲己たちの二の舞いにならないように。

それは、誰よりも人界を想っている太公望にしか出来ないことなのだ。

 「…お主に、そんなふうに励まされるとはな。」

 やや紅潮した頬を隠すように、太公望が俯く。

どうやら天化の告―…もとい、激励に照れてるらしい。 言った当の本人も恥ずかしく

なったのか、つられるように下をむく。

 ふと、身の回りが陰ったと感じた瞬間、なにか温かいものが首に巻き付いた。

 「すっすっ、師叔ぅっ?」

 一回り以上小さな体が精一杯天化を抱き締める。

 自分より細い――華奢といっても過言でない――その体にそっと腕を回した。

そのまま、少しだけ力を込める。

 布地を通して控えめに伝わってくる温もりは、太公望が確かに生きている証し。

服に染み込んだ太公望の匂いが天化の鼻をくすぐった。先程とは違う、心地よい沈黙に包まれて

天化の心拍数が急速に加速した。

 「天化」

 「ん………?」

 「…ありがとう…」

 そういって、顔をあげて。

 彼は鮮やかに微笑んだ。

初めて目にする、太公望の心からの笑顔。

天化の胸に、心臓を鷲掴みされたような衝撃が走る。

惹きよせられるように、その頬を両手でつつみ…

柔らかな唇を、己のそれで掠める。

触れたのは一瞬にも満たない、刹那の間。

けれど、隠れていた想いを自覚するのには充分な時間で…。

天化の顔が、瞬間湯沸かし器のように真っ赤に染まる。

 「俺っち、もう寝るさっ!」

 太公望の反応を窺うよりも先に。

いち早く我に返った天化は脱兎の如く駆け出していた。後に残されたのは

 「何じゃ…いまのは…」

 鈍さ大爆発の枯れた老人が一人。