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いまだ夜の明けきらない空の下を、太公望はひとり歩いていた。 太陽は漸くその片鱗を地平線に覗かせたばかりで、薄紫の帳はまだ降りたままだ。 早朝の冷たく清々しい空気に包まれて、彼はとても気分が良かった。 この様子なら、今日も晴天だろう。 午後には野営を畳んで、進軍が開始される。 その前に、もう一度だけ一族が眠る場所を見たかった。 我が儘だとは自分でも自覚している。 でも、それでも。 会いたかった。父や母、兄妹たちに。 目前に半球型の建物が現れる。 僅かに唇に浮かんだ笑みは、瞬く間に曖昧なものに変わった。 「天化………」 意外な人影が、寄り添うように。 陵墓にもたれたまま、少年が軽い寝息を立てていた。 近付いて、そっと手を伸ばす。 指先が鼻の傷痕に触れた瞬間、弾かれたように天化が目を覚ました。 「あ………オフクロ…」 まだ夢見心地なのか寝ぼけているのか、天化は太公望を母親の賈氏と取り違えている。 ふるふると首を振り、また横になった。 「ゴメン…もう少し寝かせて…」 意外に幼いその仕草に、ぷっと吹き出しそうになる。 それを堪えて、太公望はぐっと顔を近づけた。 「これがおぬしの母親に見えるか?」 「うわっ…師叔ゥ…ーっ!」 今度こそ、天化は完全に覚醒した。 相手が誰かわかった途端、天化の頬にさっと朱が走る。 「えっ……いや、その……」 まさか、昨日のアレの作為で余計に眠れなくなったあげく、明け方近くまで筋トレして 「あっあっ朝練して…き、休憩してたさ。」 「…………?おぬし、なぜ目をそらす。」 あからさまに視線を逸らす天化に、訝しげに覗き込む。 「まぁ、何でもよいが無理はするなよ。」 ポンポンと癖のない少年の頭をたたく。 彼としては親愛のスキンシップのつもりだったが、少年はむっとして口を尖らせた。 「もー、子供扱いすんなよっ。」 くしゃり。 太公望の手を払った拍子に、少年の手が何か乾いたものに触れる。 瑞々しい青草のと違う感触に、少年は地面に視線を落とした。 「なんだ、これ?」 天化は茶色に変色した草のようなものを指で摘まむ。 ちょっと力を込めただけで、それは崩れ落ちて塵となった。 「これは……花か?」 太公望も手に取ってまじまじと見つめる。 よく見れば、王墓の周りはからからに枯れた花が散乱していた。 この量から察すると、かなりの期間、誰かが此処にこの花を手向けていたようである。 「いったい誰が………。」 その、瞬間。 絹を引き裂くような悲鳴が二人の耳に届いた。 「っっ!」 天化の顔が瞬時に戦士のそれへと豹変する。 場所はすぐ近く。あの丘の向こう。 気配は、…三つ、いや四つだ。 人間の…ごく弱い気配が一つ。恐らく悲鳴の主。 後は、瘴気を伴った獣の気配…妖精…いや、妖蘖か。 それが三つ、人間を取り囲むように点在している。 「師叔………」 「…ああ。いくぞ、天化っ。」 太公望の叫びとともに、二人は駆け出した。
思ったとおり。というか、お約束というか。 三人…というよりは三匹の妖蘖が人間の娘を取り囲んでいた。 「なーんか、典型的すぎてシラケるさ。」 正直な感想が、少年の口をつく。 それをちらりと横目で見て、太公望は溜め息をついた。 眼下の三匹に視線を移す。 辛うじて人形はとっているものの、元の原形が――どうやら狼と禿鷲と猿のようだ 変化のお粗末加減さといい、妖ゲキというよりは半妖精と云ったほうが正しいかもしれない。 天化や太公望からみれば大爆笑な外面だが、普通の人間には十分恐怖の対象になるようだ。 「いや………いや…………」 娘は死の恐怖に足が竦み、がたがたと震えている。 二人に背を向けているため、顔はわからない。ただ、服装から察すると殷族ではなく遊牧民らしい。 体つきだけをみれば、まだほんの少女のようだ。 「とりあえず、早々に助けたほうがよさそうだ。」 「了ー解っ!」 とんっと地面を蹴り、二人は同時に数メートル下の妖怪の目前に降り立った。 「なっ、なんだ貴様らっ!」 突然の闖入者に、三匹はぎょっとたじろぐ。 しかし現れたのが年若い少年二人だとわかると、下品な笑みを浮かべた。 「おやおや…今日は運の良い日らしい…。」 首領格らしい、禿鷹の妖怪が巨大な嘴を広げて厭らしく笑う。 どうやら餌が増えたと思っているらしい。濁った眼差しから旺盛な食欲が感じられる。 他の二匹もそれに倣って大量の涎を滴らせた。 「子供二人が、正義の味方のつもりか?そーゆうのは、相手をみてやることだな。…もっとも、 三匹が、けたけたと耳障りな嘲りの声を上げる。 「わるいが、お前達みたいな不細工なのに、美味しく頂かれる気はないのう。」 『不細工』という所に、特に力を込めて断言する。 太公望の見事かつ的確な言葉に、天化も 「そうだよなぁ。妲己ぐらいの美人さんなら、ちょっとぐらい喰われてもいいけどさ…こんなへっぽこな 「こっこっ、この小僧ぉ―――――っ!」 図星をさされ激怒した猿の妖怪が、持ち前の素早さで天化に襲いかかる。 その場にいた――太公望以外のだれもが、鮮血の朱に染まる天化を予想した…だが。 刹那にも満たない時間の後、四つに身を裂かれ朱に染まったのは猿妖の方だった。 「だから、へっぺこって云うのさ。」 叫び声すら上げることもなく、ただの肉塊と化した四肢がゆっくりと崩れる。 輝く宝剣を手に、天化が自身の作り出した死骸を冷ややかに見下した。 「戦わなければ、相手の強さも解らない…気づけないなんてさ…。」 少年の凍えるような誰何の厳しさに、妖怪たちにも動揺といくばくかの恐れが生まれる。 しかしその低級さ故か、或いは浅ましい食欲のせいか、彼らは今だ見抜けないでいた。 目の前の二人の少年たちとの力の違いを。 「くっくっくっ…なかなかやるじゃねぇか。だが、俺はそうはいかないぜ…」 弟分の猿妖が殫されたのは偶然と決めつけた狼妖が微妙に間合いを取りつつ天化へ近づく。 鷲妖の方は、太公望と少女を逃がさぬよう威嚇する。愚劣ゆえに格の違いは理解出来なくても、 けれど、そんな駆け引きも天化の前では何の意味もなかった。 「うざったいな。」 呟きとともに、少年の姿が狼妖の視界から消える。 「なっ…っっ!」 驚愕よりも先に、天化の顔が間近に見えた。 「あんた、邪魔さ。」 声と同時に、光が狼妖の視界を一閃する。 ヒュっと音を立てて、その首が虚空に舞った。 とさりと首が落ちたのに間を置かず、巨体も地面に沈む。 「そんなっっ…!」 今度こそ、鷲妖の顔から血の気が引く。 漸く、目の前の子供が自分達などが遥かに及ばない存在だと認識したのだ。 「さて、残るはあんただけさ。」 猛禽獣のような鋭い眼差しが、一歩また一歩と鷲妖に近付く。 初めての死の恐怖に立ち竦みながら、何とか手はないかと鷲妖は無い知恵を絞った。 その目に、ちらりともう一人の少年が映る。 こいつを人質に取って逃げればいい…。 妙案が浮かんだ瞬間、鷲妖は太公望に襲いかかった。 「うわっ――――っ!」 巨大な前足でしっかりとその体を掴んで空に舞い上がる。 「近づくなっ!」 鳴り響くような大声で、地上の少年を恫喝した。 「近づいたら、こいつを握り潰すぞっ!」 暴れる体をぎゅうぎゅうに締め付け、十分な距離を抑えつつ天化の頭上を旋回する。 これでまた自分が有利になった…鷲妖はそうほくそ笑む。 だが、少年は顔色一つ変えず、いや、むしろ呆れたように溜め息をついた。 「師叔、遊ぶんじゃないさ。」 「なっっっ!」 「あ、ばれた?」 鷲妖の驚きをよそに、今の今まで暴れていたもう一人の少年の抵抗がぴたりと止まる。 「そんな下手な芝居誰だって見抜けるさ。それより、さっさと降りてこないと置いてくよ。」 「はいはい。」 つまらなげに応えると、太公望はどこからか打神鞭を取り出す。 「ではと…疾っ!」 叫びにこたえ、風の刃が四つ生まれる。 それが硬直している鷲妖の体を、まるで木の葉のように引き裂いた。 「ぎゃあああぁぁぁ……――――っ!」 断末魔と一緒に落ちてきた太公望を、天化が難無くキャッチする。 「師叔、太った?」 「…うるさい。」 ぺちりと少年の額を叩き、その腕の中から抜け出した。 「さて…………」 太公望は立ち上がり、襲われた少女のほうへ駆け寄る。 目の前の出来事にすっかり脅え、少女は蹲ってガタガタと震えていた。 そっと手を伸ばし、髪に触れる。 「もう、大丈夫だ。」 漆黒の黒髪を、優しく梳いて告げる。 「お主を傷つけるものは、もういない。お主に害をなそうとしたものは、すべて消えた。」 少年とも、青年とも違う不思議な音色。それが太公望の唇から紡がれ、呪文のように もう大丈夫。 もう怖くない。怖がらなくていい。 いつのまにか、少女の震えは止まっていた。 「だから…もう、大丈夫だ。」 告げられた言葉。それが確かな真実の鍵となって、悪夢に繋がれた精神を解放する。 「すごい…」 呟きが、思わず漏れる。 天化が太公望に敵わないと感じるのは、いつもこんな時だ。 仙道の業も、宝貝も使わず彼は人の心を操る。太公望の言葉一つで、人は常でない能力を発揮する。 けっして、甘言や虚言を用いるのではない。けれど、彼の言葉は千の火矢となって人を動かす。 彼の行動が、歴史を動かす嚆矢となる。 心の光も闇も知っている太公望だからこそ、出来る業。 その力に嫉妬は感じない。ただ。 ただ、時折いとも容易く人の運命を操る彼を、『怖い』と思う時はある。 それでも、尊敬の念のほうがずっと強いのだけれど。 「あの、ありがとうございました。」 漸く落ち着いた少女が顔を上げた瞬間。 太公望は目を見開いた。 それまで浮かんでいた微笑みが、瞬時に消える。 大きな瞳が凍りついたように、目の前の少女に釘付けになった。 「二妹………」 薄い唇が微かにまたたく。 「………師叔……?」 異変に気づいた訝しげな天化の声も、まったく聞こえないかのようにただ一点を凝視して動かない。 「アルメイ………二妹っ!」 驚くほどの素早さで太公望は少女を抱き竦めた。 「きゃ…っ!」 びっくりした少女がその手を振りほどこうともがく。しかし、太公望の体はしっかりと少女の 「二妹…二妹……生きておったのだなっ!」 狂人のようにおなじ言葉を繰り返し、抱き締める腕にますます力を込める。 そうしなければ、幻のように儚く消えてしまいそうで怖かった。 「痛っ………」 その度を過ぎた包容に、少女の口から悲鳴が漏れる。 太公望の尋常ならざる行動に呆然としていた天化は、その悲鳴で我にかえった。 「師叔っ、落ちつくさっ!」 慌てて太公望の体に手を伸ばす。 少女から引き離そうとするが、必死の彼の力は瞠目するほど強力で、なかなか上手くいかない。 それでもなんとか引きはがし、天化自身の体で羽交い締めにする。 「放せっ、天化っっ!」 殺気で染め上がった、つぶらな双眸が天化を睨む。 眦まで裂けたその瞳に宿るもの。 それは、『狂気』と呼ばれるもの。 ゴクリ、と少年の喉が音を立てた。 知らない。 こんなに激しく感情をさらけ出す太公望を、天化は知らない。 これは、本当に太公望なのだろうか。 ちがう、と天化の本能が警告する。 『これ』は少年の知る『太公望』ではない。 『これ』は……………『呂望』だと。 「師叔…………」 射殺さんばかりに睨みつける彼に、内心たじろぎながらも天化はけっして腕の力を緩めない。 「放せっ!あれは、わしの妹だっ!」 二まわり近く大きな体に押さえ付けられ、華奢な痩身が我武者羅に暴れる。 あまりの暴れっぷりに、とうとう天化は叫んだ。 「師叔の家族は殷兵に殺されたんだろっ!」 ぴたりとあがらいが止まる。 「七十年前に人狩りにあったんだろっ!あの王墓に埋められたんだって、アンタ自分で云ったさっ!」 それは云ってはいけない言葉だった。 否、云いたく無かった。 こんな、彼の古傷を抉るような…辛い記憶を呼び覚ますような、酷い言葉を。 あざとさに、自分でも吐き気がする。 でも云わなければ、彼はいつまでも『呂望』のままで…自分の知る『太公望』に戻って欲しくて、 「あれは別人さ。第一…」 道士でもない普通の人間が、子供のままで七十年も生きられるはずがない。 しっかりと抱き締め、そう耳元で囁く。 勿論、それがとどめの一撃になると解っていて。 「でも………でも、あれは………」 確かにわしの妹なんだ… 声にならない声が、吹き抜ける風の中に消えていく。 おとなしくなった太公望の戒めを解き、彼の細い体をそっと抱き締めた。 微かに香る日向の匂いが、天化の鼻を掠める。 昨日の晩、この匂いを嗅いだときはあんなにどきどきして、暖かい気持ちになれたのに。 今は、心が握り潰されるような鈍い痛みを訴える。 抱き締めた存在から伝わって来る哀しみと、彼を傷つけてしまった自分への憤り。 けれど、一度発した言葉を取り消すことは、出来るはずもなく…。 「…………………」 天化の胸に顔を埋め、太公望は震えていた。 泣いてはいない。涙はない。 けれど、その唇は小刻みに戦慄いている。 その顔は血の気を失い、苦しげに歪んでいる。 溢れ出す想いを、抑え込もうと必死にもがいていた。 耐え切れぬからこそ封じた感情を呼び覚まされ、それでも僅かに残る『太公望』の理性が、 「ごめん…………」 低く、天化が呟く。 許してもらえるとは、思わない。それでも。 「ごめん………師叔………」 柔らかな黒髪に頬を擦り寄せ、もう一度囁いた。 「悪かったな、びっくりさせて。…アンタも、もう帰んな。」 解放され、呆然としている少女に、天化はできるだけ優しく声をかける。 「あ…はい。」 少女は小さく頭を下げ、歩きだす。 しかし、数歩も行かぬうちに立ち止まると、おずおずと天化たちのほうを振り返った。 そのままじっと二人を所在なげに見ている。 「……?何か…?」 できれば、少女には早く立ち去って欲しかった。 少女に何の罪もないのは解っている。 こんなにも太公望の心を揺さぶるほど、彼の肉親に似ているのは彼女が悪いわけではない。だが…。 彼女が側にいると、いつまでも太公望の傷口は血を流したままで塞がらない。 天化の剣呑な雰囲気を感じ取ってか、かすかな脅えをみせつつも、少女は太公望に問うた。 「あの…もしかして、貴方は呂望と云いませんか」 ピクリと太公望の肩が震えた。 顔を上げ、不思議そうに首を傾げる。 すこぶる顔色がわるい。 だが、その瞳から狂気は消え失せていた。 「なぜ…わしの本名を……」 「それは………」 少女が言い淀む。 「それは、私の祖母のお兄さんの名前です。」 「あ……に……………?」 少女が王墓を指さす。 「あそこに、一族と一緒に葬られています。祖母は呂国にいた羌族の生き残りなんです。」 |