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 四つの影が南天に浮かんだ太陽の下を疾走していた。


 「おばあちゃん、もう長くないんです。」

 少女の名は彗というらしい。

 王墓から三里ほど離れた草原で、四人の兄と共に暮らしているのだという。

 「薬師がこの冬は越せないだろうって…。だから、せめて最期は家族の眠っている場所で

過ごさせてあげたくて此処に留まったんです。」

 墓に花を供えていたのは、祖母の一族が墓に埋められているからだと少女は語った。

 天化はちらりと太公望を見る。

不四象に、少女と相乗りしている太公望の表情は堅く強ばったままだ。

 その頑なな様子に、天化は我知らず溜め息をついた。

   

 

 少女の話を聞いた後、一人で行くと言い張る彼を押し止どめ、無理やり幕府まで連れ帰った。

周公旦たちに相談したところ、当然のことながらほぼ全員に反対された。

 当たり前である。

少女の話が本当だという証拠がどこにあるのか。

 妲己が送り込んだ妖怪仙人といったほうが、まだ真実味がありそうだ。

 だいたい、軍師である貴方が軍をほっぽり出して出掛ける、とは何事か。

…と、周公旦がくどくどとたっぷり二時間かけて話したのだが、しかし。

 太公望は一切聞く耳を持たなかった。

普段のちゃらんぽらんさは演技だったんかいっ!というくらい、皆が我が目を疑うほどの

真摯な態度で真っ向から周公旦に反論しまくった。

 そして

 『今でなければだめなのだっ!』

 泣く一歩手前の顔で訴えられて、どうして拒絶できるだろう。

 結局、何人か護衛をつけるということで漸く合意した時は、もうかなり日が高くなっていた。

 

 

 先陣を駆ける不四象の左後方に、楊ゼンを乗せた孝天犬がぴったりと併走している。

その上空には、天祥を背負ったナタクが音もなく追跡していた。

 「人狩りに捕まった時、おばあちゃんは五歳だったそうです。沢山の族人と一緒に、朝歌に

向けて連れて行かれたんです。」

 初めて乗る霊獣の感触に戸惑いながら、少女は話を続けた。

 「潼関に近づいたとき、お兄さんがこっそり逃がしてくれたんです。おばあちゃんは末の妹を

背負って、夜の闇に紛れて逃げました。追っ手はかかりませんでしたが、怖くて走り続けたそうです。」

 少女の生々しい話に、ナタクの背の天祥の顔が歪む。

自分達が朝歌から逃げ出してきた時の数々の苦難を思い出したらしい。

 幻影を振り払うように、ギュっと自分を背負うナタクにしがみつく。

 「…天祥?」

 「なんでもないよ、ナタクにいちゃん…」

 「…そうか。」

 彼なりに、何かを感じ取ったのか。

ナタクもそれ以上は聞かない。

 「でも、なれない逃亡生活で赤ん坊だった妹は衰弱死してしまい、おばあちゃんも

死にかけました。たまたま通りかかった別の羌族が助けてくれなかったら、おばあちゃんも

死んでいたでしょう。」

 少女の話が途切れ、天化はもう一度太公望を盗み見る。

 その顔は先程より青ざめて、けれどもいかなる感情も読み取れない。

天化は唇を噛み締め、無表情で前を睨む。

 「あの天幕です。」

 少女の指さす先に、目指す天幕が小さく揺らめいていた。

 

 「ただいま、おばあちゃん。」

 少女の声とともに入り口の扉が開き、眩い光が薄暗い天幕の中に差し込む。

微睡みのなかから呼び起こされ、老婆はゆっくりと目を醒ました。

 「…………おかえり、彗。」

 寝台から起き上がれない彼女は、頭だけを戸口に向ける。ふと、孫娘の側に誰か見知らぬ者が見えた。

 「どなた………?」

 「おばあちゃんの、お客様よ。」

 「わたしの…?」

 老婆は首を傾げる。わたしの、客…?

訪ねてくるような知り合いが、まだいたのだろうか。

 けれど、彼女の一族は既に亡く、夫の一族は世話をしてくれる孫たちを残し、すべて

西の邦に移動したはずだ。

 最期に、会いたい人ならいたけれど。

そこまで考えて、彼女は取り消す。

馬鹿なことを。その人は一族とともに死んだ筈だ。

 七十年前のあの炎の日に。もしくは、あの忌まわしい王墓が完成した日に。

 誰よりも大好きだった、彼女の二番目の兄は…。

 「……昴…。」

 初めて客が口を開く。

 失われた、老婆の本名を。

強すぎる恐怖と絶望を忘れるために、幼い日の自分が捨てたはずの真実の名。

 どうして知っているのだろう。もう誰も呼ばなくなって久しいというのに。

いや、誰も知らないはずなのに。

夫であった人でさえ、彼女の本名は知らなかったのだ。誰なのか知りたくて、衰えた瞳を懸命にこらす。

けれど逆光が邪魔をして、よく判らない。

 それに気づいたのか、相手の方が近寄ってきた。

 「…二妹……」

 どこかで聞いたことのあるような…懐かしいような。少年のような若々しい声が、再度彼女を呼ぶ。

 徐々に鮮明になる相手の顔とは対照的に、彼女の顔色がみるみる失われていく。

夢をみているのだろうか、自分は。

それとも、もうとう太嶽の神に召されてしまったのだろうか。

 「二妹…わしが判るか?」

 彼女を覗き込むその客は―――――

 「…望…二哥…」

 誰よりも会いたかった彼女の兄が、あの日と変わらぬ

姿でそこにいた。