6 





 「太公望…大丈夫かなぁ…」

 天幕の側に座り込んだ天祥が、不安そうに呟く。

 兄妹二人きりのほうがよいだろうと、楊ゼンたちは外で待機することにした。

 「さあ…でも、僕達が一緒にいても仕方ないでしょう。」

 彗にいれてもらったお茶を啜り、楊ゼンは天祥に言い聞かせた。

 「うん。そうだね…」

 表面上は納得したのか、天祥もお茶に口をつける。

ナタクは草地に寝転んで熟睡していた。

 「天化くん、少しは落ち着いたらどうだい。」

 「えっ…………?」

 名を呼ばれ、天化は意識を引き戻された。

 「天幕の周りの草を踏み潰す気かい。」

 楊ゼンに指摘されて、足元に目を落とす。

彼の云うとおり、そこは踏み固められ整備された道のように整えられていた。

 「いつもの君らしくないねぇ。」

 多分にからかいを含んだ笑みを向けられ、憮然とした面持ちで座り込む。

待つしかない…それは充分にわかっているのだ。

天化だって、そこまで子供じゃない。

自分に立ち入る権利がないことくらい、知っている。

そんなこと、楊ゼンに云われなくても解ってる。

 けれど…。

『わかる』と『できる』というのは、なかなか一致しないらしい。

 ひとつ、小さな溜め息をついて寝転ぶ。

天化の頭上には、何処までも青い空が続いている。

 其処には、強い日差しの中で陽炎のような月が浮かんでいた。

 

 

 

 妹を目の前に、太公望は少なからず戸惑っていた。

いや、信じたくなかったのかもしれない。

このやつれはてた老婆が本当に自分の妹なのか、と。

 「二哥…望にーさまぁ…」

 皺だらけの面を更に涙で歪めて、老婆が必死に縋りついてくる。

それを抱きとめながら、彼は複雑な思いで腕の中の妹を見つめた。

震える手をしっかりと掴む。

 これが、あの愛らしかった妹の手なのか。

太公望の記憶に住む彼女は本当に幼くて可愛いかった。冬になると、紅葉のような小さな手を

真っ赤に染めては太公望の所に駆けてきた。

 そして、泣きながら『冷たくて痛い』といっては自分の両手を差し出すのだ。

そのたびに、太公望は彼女を懐に抱き締め、両手でその幼い手を包んで暖めた。

 彼女にとっては、既に成人していた長兄や年の近い兄姉よりも、七つ上の、優しくて賢いこの兄が

家族の中で一番頼れる存在だったのだろう。
何処にいくにも、彼の後をついてまわった。

 少しでも姿がみえなくなると、大声で泣き出して彼が飛んでくるのを待った。

 太公望にとっても、弟妹の中で一番懐いてくるこの妹は無条件で愛しかった。

 今、目の前にある彼女の手は干からび、無数の傷が刻まれている。

それが今までの妹の苦難を現しているように思えて、太公望は目頭が熱くなるのを抑えられなかった。

 「会いたかった…でも、にーさま…いままでどうして…」

 「あの後仙人に拾われ、ずっと崑崙で修行しておった。すまぬ、お前たちを助けることができなんだ…」

 「いいえ…」

 老婆は力無く首を振る。

 「……にーさまは知らなかったのだもの。仕様がないわ…」

 「二妹………」

 苦しげに老婆を呼ぶ太公望に、彼女は静かに微笑んだ。 白蝋のような白い顔が、僅かに

一瞬だけ生気を含んだ紅色に染まる。

雪解けの野に咲く花にも似た――彼の良く知る笑み。

それは、彼の記憶の中の妹の笑顔にぴたりと重なって溶けた。

 「ずっと…ずっと、にーさまは死んだと思ってた。一族のみんなは、半分があの墓に埋められて…

後の半分は、殷王の遺体を墓に納める期日を占うために施されたと聞いたから…。」

 たどたどしく妹が語る事実に、太公望は唇を噛む。

 『施す』というのは、腹を裂いて臓腑をえぐり出す処刑法である。

死んだ人間──しかも他族の王のために、なぜ自分の一族がそんな目に遭わねばならぬのか。

犠牲が必要なら、牛や羊を供えればいい。

人間を家畜のように殺して捧げることに、なんの意味があるというのだろう。

自分達が、いったいどんな罪を犯したというのだ。

沸き上がる憎悪の念を、しかし、辛うじて己の心の内だけに抑え込む。

 この妹には、自分の中にある昏い激情を知られたくはなかった。

まもなく死を迎えようとしている彼女に、一点の汚れも残したくはない。

 「でも…またあえて…良かった。わたし一人じゃなかったのね…」

 喜びの涙が、老婆の頬を幾筋も濡らす。

溢れる滴が流れる度に太公望は指でそれを拭った。

すっかり色の落ちてしまった髪を、優しく撫でる。

それが、彼女が一番好きな仕草だと覚えていたから。

 「二妹、わしは今大事な仕事を師匠から任されておる。だがそれが終わったら、一緒に暮らそう。」

 「にーさまと一緒に………?」

 涙に濡れた瞳が微かに見開かれる。

 「ああ。昔みたいに、たくさんの羊と一緒に草原を旅しよう。…春は、五嶽の麓で、

生まれた子羊たちの世話をして、夏になったら、おまえの好きな百里香の花を摘みに

秦嶺の山を越えてゆこう。そうだ、お前が行きたがっていた祭りを見にいこう。」

 それが無理なことは、太公望にも解っていた。

天幕いっぱいに立ち籠める死臭。それは、彼女の体から溢れて…。

なにより、その顔には…死相──深い陰りが、強く浮き出ている。

 命数が尽きようとしているのは一目瞭然だ。

かけがえのない者が、また失われてしまう。

どくん、と心臓が痛みを告げる。

 『誰か、誰かっ、助けてっ!』

忌まわしい記憶が、双眸の奥に甦る。

 『誰か、返事をしてっ!お願いだから……』

燃え上がる炎が、大蛇の舌のように肌を撫でる。

 濛々と吹き上がる黒煙が喉に絡みついて、彼の細い首を締め上げた。

 いやだ。

見たくない。視たくない。みたくない。ミタクナイ…。頑なにその光景を拒否する。

 けれど、死臭によって呼び出された悪夢は消えることなく、更に太公望を苛む。

 『嘘だ、うそだ、こんなの、うそだぁっ!』

体の半分が炭と化し、冷たくなった体にしがみついて号泣しているのは、幼い日の自分。

 『いやだ…僕を、おいていかないで………』

氷のように冷たい肌…。恐怖と激痛に歪んだ顔。

でも、ほんの数刻前には、笑顔で自分を送り出してくれたのだ………この弟は。

 『おいてかないでよぉ………』

どんなに泣いても叫んでも、失われた命は決して戻るはずもなく。

また…また、繰り返すのか?

 あの哀しみを、恐怖を、深い絶望を。

 「泣かないで………」

 消え入りそうな声とともに、筋張った指が太公望の眦に触れる。

気がつけば、老婆が愛しげに彼を見上げていた。

 「…泣かないで…にーさま…」

 骨と皮だけの手が、何度も彼の頬を撫でる。

ささくれだった彼の心を癒そうとでもいうように。

太公望の右手が、老婆の手をそっと握った。

 重なり合った場所から、彼女の思いがじんわりと伝わる。

 過ぎ去った過去に苦しまないで。

 わたしのことで、悲しまないで。

言葉よりも雄弁に、その温もりが彼女の心を告げた。

 伝わってくる思いのせつなさに、零れそうになる涙を必死に抑える。

泣いてはいけない。…まだ。この子に心配をかけるわけにはいかない。

 「にーさま………」

 囁きが、太公望を呼ぶ。

 「ん………?」

 「………だいすき…………」

 そう云って、微笑んで。

開かれたままの瞳から光が消えるのと同時に、彼女の頬を透明な雫が弧を描いて流れ落ちた。

それが、彼女の最期だった。

ゆっくりと、嗄れた手が太公望の掌から離れていく。

 「……アル……メイ………」

 震える指先が、傷だらけのそれにのばされ、もう一度握りしめる。

どんどん生気が消え、冷たくなっていく小さな手を、両手でしっかりと握り締め、自らの頬に寄せた。

 「うっ………くぅっ………」

 目頭が、火傷したように熱い。

もう、堪えることは出来なかった。

「うっ………ぅ」

 熱い雫が、堰を切ったように溢れ出す。

 それは停まることをしらず、太公望の頬を幾重にも伝った。

 「……うっ……うぅぅ……………………」

 頬に寄せた手には、まだ温もりがある。

触れ合った肌から、まだ命の残り香を感じることが出来るのに。

 それでも、もうこの手が握り返してくれることはないのだ。

この妹が、目覚めることはないのだ。永遠に。

彼女は、逝ってしまった。

此処とは違う、父母や兄や弟妹たちがいる世界に。

 太公望がどれほど望んでも、至ることの出来ない場所へ。

彼ひとりを置き去りにして。

 「……くっ……ぁ…………」

 漏れそうになる嗚咽を、必死にかみ殺す。

 あの薄い扉の向こうには天化たちが待機している。

声を漏らすことはできない。

泣き顔をさらすわけにはいかない。

 彼らに今の自分を見られるわけにはいかなかった。

道士『太公望』ではなく、羌族の『呂望』に戻ってしまった自分を見せることはできない。

彼らが必要なのは今の自分ではない。『太公望』だ。

 解ってはいたが、それでもこの頬をつたう涙はとまらなかった。

せめて、今だけは呂族の最後の一人として妹を送りたい…今だけは。

 泣いて泣いて………瞼が赤く腫れ上がるほど泣き続けて……………。

寝台の寝具がじっとりと湿り気を帯び始めた頃、漸く顔を上げた。

道服の袖で乱暴に顔を擦り、涙を拭きとる。

さすがに跡までは消せなかったが、あれほど溢れた涙も、もう滲んではこない。

もう、大丈夫。大丈夫だ。

 戻らなければ………『太公望』に。

おぼつかない手で妹の遺骸を清め、整える。

それが済むと立ち上がり、出口に向かった。

扉の前で大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 ここを開けたら、いつもの自分に戻ろう。

大丈夫、うまく演れる。

何度も自分自身に言い聞かせ、強い暗示をかけた。

右手が、扉に掛かる。

キイィと甲高い音をたてて、扉が開いた。