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「太公望…大丈夫かなぁ…」 天幕の側に座り込んだ天祥が、不安そうに呟く。 兄妹二人きりのほうがよいだろうと、楊ゼンたちは外で待機することにした。 「さあ…でも、僕達が一緒にいても仕方ないでしょう。」 彗にいれてもらったお茶を啜り、楊ゼンは天祥に言い聞かせた。 「うん。そうだね…」 表面上は納得したのか、天祥もお茶に口をつける。 ナタクは草地に寝転んで熟睡していた。 「天化くん、少しは落ち着いたらどうだい。」 「えっ…………?」 名を呼ばれ、天化は意識を引き戻された。 「天幕の周りの草を踏み潰す気かい。」 楊ゼンに指摘されて、足元に目を落とす。 彼の云うとおり、そこは踏み固められ整備された道のように整えられていた。 「いつもの君らしくないねぇ。」 多分にからかいを含んだ笑みを向けられ、憮然とした面持ちで座り込む。 待つしかない…それは充分にわかっているのだ。 天化だって、そこまで子供じゃない。 自分に立ち入る権利がないことくらい、知っている。 そんなこと、楊ゼンに云われなくても解ってる。 けれど…。 『わかる』と『できる』というのは、なかなか一致しないらしい。 ひとつ、小さな溜め息をついて寝転ぶ。 天化の頭上には、何処までも青い空が続いている。 其処には、強い日差しの中で陽炎のような月が浮かんでいた。
妹を目の前に、太公望は少なからず戸惑っていた。 いや、信じたくなかったのかもしれない。 このやつれはてた老婆が本当に自分の妹なのか、と。 「二哥…望にーさまぁ…」 皺だらけの面を更に涙で歪めて、老婆が必死に縋りついてくる。 それを抱きとめながら、彼は複雑な思いで腕の中の妹を見つめた。 震える手をしっかりと掴む。 これが、あの愛らしかった妹の手なのか。 太公望の記憶に住む彼女は本当に幼くて可愛いかった。冬になると、紅葉のような小さな手を そして、泣きながら『冷たくて痛い』といっては自分の両手を差し出すのだ。 そのたびに、太公望は彼女を懐に抱き締め、両手でその幼い手を包んで暖めた。 彼女にとっては、既に成人していた長兄や年の近い兄姉よりも、七つ上の、優しくて賢いこの兄が 少しでも姿がみえなくなると、大声で泣き出して彼が飛んでくるのを待った。 太公望にとっても、弟妹の中で一番懐いてくるこの妹は無条件で愛しかった。 今、目の前にある彼女の手は干からび、無数の傷が刻まれている。 それが今までの妹の苦難を現しているように思えて、太公望は目頭が熱くなるのを抑えられなかった。 「会いたかった…でも、にーさま…いままでどうして…」 「あの後仙人に拾われ、ずっと崑崙で修行しておった。すまぬ、お前たちを助けることができなんだ…」 「いいえ…」 老婆は力無く首を振る。 「……にーさまは知らなかったのだもの。仕様がないわ…」 「二妹………」 苦しげに老婆を呼ぶ太公望に、彼女は静かに微笑んだ。 白蝋のような白い顔が、僅かに 雪解けの野に咲く花にも似た――彼の良く知る笑み。 それは、彼の記憶の中の妹の笑顔にぴたりと重なって溶けた。 「ずっと…ずっと、にーさまは死んだと思ってた。一族のみんなは、半分があの墓に埋められて… たどたどしく妹が語る事実に、太公望は唇を噛む。 『施す』というのは、腹を裂いて臓腑をえぐり出す処刑法である。 死んだ人間──しかも他族の王のために、なぜ自分の一族がそんな目に遭わねばならぬのか。 犠牲が必要なら、牛や羊を供えればいい。 人間を家畜のように殺して捧げることに、なんの意味があるというのだろう。 自分達が、いったいどんな罪を犯したというのだ。 沸き上がる憎悪の念を、しかし、辛うじて己の心の内だけに抑え込む。 この妹には、自分の中にある昏い激情を知られたくはなかった。 まもなく死を迎えようとしている彼女に、一点の汚れも残したくはない。 「でも…またあえて…良かった。わたし一人じゃなかったのね…」 喜びの涙が、老婆の頬を幾筋も濡らす。 溢れる滴が流れる度に太公望は指でそれを拭った。 すっかり色の落ちてしまった髪を、優しく撫でる。 それが、彼女が一番好きな仕草だと覚えていたから。 「二妹、わしは今大事な仕事を師匠から任されておる。だがそれが終わったら、一緒に暮らそう。」 「にーさまと一緒に………?」 涙に濡れた瞳が微かに見開かれる。 「ああ。昔みたいに、たくさんの羊と一緒に草原を旅しよう。…春は、五嶽の麓で、 それが無理なことは、太公望にも解っていた。 天幕いっぱいに立ち籠める死臭。それは、彼女の体から溢れて…。 なにより、その顔には…死相──深い陰りが、強く浮き出ている。 命数が尽きようとしているのは一目瞭然だ。 かけがえのない者が、また失われてしまう。 どくん、と心臓が痛みを告げる。 『誰か、誰かっ、助けてっ!』 忌まわしい記憶が、双眸の奥に甦る。 『誰か、返事をしてっ!お願いだから……』 燃え上がる炎が、大蛇の舌のように肌を撫でる。 濛々と吹き上がる黒煙が喉に絡みついて、彼の細い首を締め上げた。 いやだ。 見たくない。視たくない。みたくない。ミタクナイ…。頑なにその光景を拒否する。 けれど、死臭によって呼び出された悪夢は消えることなく、更に太公望を苛む。 『嘘だ、うそだ、こんなの、うそだぁっ!』 体の半分が炭と化し、冷たくなった体にしがみついて号泣しているのは、幼い日の自分。 『いやだ…僕を、おいていかないで………』 氷のように冷たい肌…。恐怖と激痛に歪んだ顔。 でも、ほんの数刻前には、笑顔で自分を送り出してくれたのだ………この弟は。 『おいてかないでよぉ………』 どんなに泣いても叫んでも、失われた命は決して戻るはずもなく。 また…また、繰り返すのか? あの哀しみを、恐怖を、深い絶望を。 「泣かないで………」 消え入りそうな声とともに、筋張った指が太公望の眦に触れる。 気がつけば、老婆が愛しげに彼を見上げていた。 「…泣かないで…にーさま…」 骨と皮だけの手が、何度も彼の頬を撫でる。 ささくれだった彼の心を癒そうとでもいうように。 太公望の右手が、老婆の手をそっと握った。 重なり合った場所から、彼女の思いがじんわりと伝わる。 過ぎ去った過去に苦しまないで。 わたしのことで、悲しまないで。 言葉よりも雄弁に、その温もりが彼女の心を告げた。 伝わってくる思いのせつなさに、零れそうになる涙を必死に抑える。 泣いてはいけない。…まだ。この子に心配をかけるわけにはいかない。 「にーさま………」 囁きが、太公望を呼ぶ。 「ん………?」 「………だいすき…………」 そう云って、微笑んで。 開かれたままの瞳から光が消えるのと同時に、彼女の頬を透明な雫が弧を描いて流れ落ちた。 それが、彼女の最期だった。 ゆっくりと、嗄れた手が太公望の掌から離れていく。 「……アル……メイ………」 震える指先が、傷だらけのそれにのばされ、もう一度握りしめる。 どんどん生気が消え、冷たくなっていく小さな手を、両手でしっかりと握り締め、自らの頬に寄せた。 「うっ………くぅっ………」 目頭が、火傷したように熱い。 もう、堪えることは出来なかった。 「うっ………ぅ」 それは停まることをしらず、太公望の頬を幾重にも伝った。 「……うっ……うぅぅ……………………」 頬に寄せた手には、まだ温もりがある。 触れ合った肌から、まだ命の残り香を感じることが出来るのに。 それでも、もうこの手が握り返してくれることはないのだ。 この妹が、目覚めることはないのだ。永遠に。 彼女は、逝ってしまった。 此処とは違う、父母や兄や弟妹たちがいる世界に。 太公望がどれほど望んでも、至ることの出来ない場所へ。 彼ひとりを置き去りにして。 「……くっ……ぁ…………」 漏れそうになる嗚咽を、必死にかみ殺す。 あの薄い扉の向こうには天化たちが待機している。 声を漏らすことはできない。 泣き顔をさらすわけにはいかない。 彼らに今の自分を見られるわけにはいかなかった。 道士『太公望』ではなく、羌族の『呂望』に戻ってしまった自分を見せることはできない。 彼らが必要なのは今の自分ではない。『太公望』だ。 解ってはいたが、それでもこの頬をつたう涙はとまらなかった。 せめて、今だけは呂族の最後の一人として妹を送りたい…今だけは。 泣いて泣いて………瞼が赤く腫れ上がるほど泣き続けて……………。 寝台の寝具がじっとりと湿り気を帯び始めた頃、漸く顔を上げた。 道服の袖で乱暴に顔を擦り、涙を拭きとる。 さすがに跡までは消せなかったが、あれほど溢れた涙も、もう滲んではこない。 もう、大丈夫。大丈夫だ。 戻らなければ………『太公望』に。 おぼつかない手で妹の遺骸を清め、整える。 それが済むと立ち上がり、出口に向かった。 扉の前で大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。 ここを開けたら、いつもの自分に戻ろう。 大丈夫、うまく演れる。 何度も自分自身に言い聞かせ、強い暗示をかけた。 右手が、扉に掛かる。 キイィと甲高い音をたてて、扉が開いた。
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