「呂望─────っ!」

回廊の途中で名を呼ばれ、少年は立ち止まる。

 振り返らずとも、声だけで判る。相手が誰なのか。

だいたい、この玉虚宮で道士名でなく本名で自分を呼ぶのは、十二仙のほんの数名だけだ。

 その中でも一番苦手な人物が、今日から師匠に呼ばれて殿上していると南極仙翁から聞いたばかりだというのに。
もう向こうから寄ってくるとは。

いずれ絶対来るだろうとは思ったが、もう来たのかと呂望は内心うんざりした。

 一瞬、このまま逃げ出したい衝動に本気で駆られる。しかし、相手が相手なだけにそうもいかず、覚悟を決めて

彼は振り返った。

 声の主は、呂望の顔を見るなり満面の笑みを浮かべて走り寄ってきた。

 「久しぶりっ!」

 「………………太乙真人さま」

ハイテンションの太乙とは対照的に、彼は深いため息をついた。

 回りにいる者たちの、突き刺さるような視線が呂望の肌を刺激する。

周囲の道士や見習いたちが、表向きは無関心を装いつつしっかり好奇の目を向けていることに、全然気づいて

ないのだ、彼は。

 彼等にとって雲の上の存在の十二仙が、いかに優秀とはいえ仙界に入って十年にも満たない新人にやたら

かまうのだから、無理もない。

 それでなくとも、闡教教主の元始天尊が『わざわざ』人界に降りて連れて来た『逸材』ということで、呂望は

入門当初から事あるごとに他の道士見習いたちの耳目──もちろん好意的なものは殆ど無い──に晒されている。

 はっきり云うなら、妬みと羨望の対象として孤立し始めていた。

馴れ合うつもりは毛頭ないが、此処で学び続ける以上最低限の付き合いは必要だろう。

 例え、相手が自分にとって益にもならなくても、だ。

 自分はまだ、一人で生きていけるほど強くないのだから。

 まだ、『殷』を滅亡させるだけの『力』を手に入れていない。

だからこそ、したくもない努力をして少しでも目立たないよう努めているのに。

 どうして、この人は自分のなけなしの努力をぶち壊してくれるのだろう。

 不機嫌のため徐々に無表情になっていく呂望にお構いなく、太乙は母親のように些細なことを聞いてくる。

 「元気だった?ご飯はちゃんと食べてる?」

 「………はぁ」

 「夜はちゃんと寝てる?育ち盛りなんだから、良く食べてしっかり睡眠とらなきゃ駄目だよ。」

 「…………………」

 少年に会えたことがよほど嬉しいのか、太乙真人の口は閉じることを忘れたように言葉を紡ぎ続ける。

 祭りの歌い手のように魅力的な彼の声も、今の呂望には雑音とあまりかわらない。

 はじめはおとなしく彼のお喋りに「はあ」だの「ええ」だの差し障りの無い相槌をうっていた呂望だったが、

一向に終わる気配を見せない太乙に沸々と怒りが込み上げる。

 そんな呂望を更に怒らせるような発言を、不機嫌の元凶がぽんと口にしたものだからたまらない。

 「あ、そうだ。これから元始天尊さまに新作の宝貝を披露しにいくんだけど、一緒にいかないかい?」

 二人の遣り取りを盗み聞きしていた道士たちから、驚きと羨望の息を呑む気配が伝わる。

 名実ともに崑崙最高の宝貝製作者である太乙の新作のお披露目に、一介の道士風情が列席するなど

破格の待遇もいいとこだ。

 呂望の脳にかるい目眩が走った。

 まずい。このままだと、また一つ自分へのやっかみが増えてしまう。

 「申し訳ありませんが…」

 つとめて丁寧に頭を下げて

 「午後は南極仙翁の講義がありますから。」

 きっぱりと断る。

これ以上、同期の者たちのくだらない噂話の種や嫉妬まじりの偏見は御免被りたかった。

 太乙の顔にあからさまに落胆という文字が浮かぶ。

それにいささか罪悪感を刺激されたが、発した言葉を取り消す気はなかった。

 「…そう…じ、じゃあ、またあとでね。」

 寂しそうに微笑むと、太乙真人は宮殿の奥へと消えていった。

遠巻きに二人を見守っていた他の道士たちも、彼の退場と同時にそれぞれの修行場へと戻っていく。

瞬く間に、長い回廊は無人に変わった。

 側に誰もいなくなったのを確認すると、呂望は小さな溜め息をついた。

目を閉じると、太乙の悲しげな顔がちらつく。

傷つけてしまったかもしれない。あの人を。

そう思うと、少しだけやりきれなかった。

 悪い人じゃない。むしろ、やさしい人だと思う。

 …ちょっと、変な人だけど。

初めて玉虚宮に上がった日から、自分の世話をずっと焼いてくれて、いつも気にかけてくれる。

 ありがたいと思うし、正直、嬉しくないと云えば嘘になる。

 でも…駄目だ。

彼を頼ることは出来ない。してはいけない。

甘えは、心に隙を生む。それがいつ命取りになるとも限らない。

 なにより、胸奥に宿る殷への怒りと憎悪が溶けてしまうのが一番怖かった。

『想い』の風化───それは、自分にとって生きる意味の喪失に他ならない。

 廃墟と化した邑に、累々と横たわる族人の骸に誓ったのだ、自分は。

復讐を。殷王朝の滅亡を。

 皆の亡骸の前に、必ず殷王と皇后の首級を捧げると。右手をそっと胸にあてる。

すべてを無くした自分に唯一残された一族との『絆』。

 苦しい時、悲しい時はいつもこのお守りが元気づけてくれた。

其れは、六つ上の長兄が初めて狩りで仕留めた雌狼の牙を削って作られたもので、族長だった父が呂望たち

兄弟一人一人にくれたものだ。

 『これを持っていれば、けっして狼に襲われることはないよ。』

そう云って微笑んだ長兄の顔は、今でも鮮明に覚えている。

 兄は部族の中でも一番の弓の名手で、邑一番の物知りだった。家畜の扱いも、星の読み方もすべて彼から

教わった。

父にとって自慢の跡継ぎだった兄は、呂望にとっても自慢の兄だったのだ。

 彼のような立派な大人になるのが、幼い呂望の密かな夢だった。

そして、いつの日か族長となった兄の片腕として部族を守るのが自分の使命だと、そう彼は信じていたのだ。

 それを…………『殷』が奪った。

兄だけではない。父も弟も妹も、すべてを呂望から取り上げた。

 今、彼の手に残っているのは、懐かしくも切ない思い出と、この首飾りだけしかない。

 この首飾りだけが、今の自分を支えてくれるたった一つの宝物だ。

どんな苦痛も、これを見れば全部消える。

 そう思い、取り出そうとした時だった。

常とは違う呂望の顔色が変わる。

いつもなら、胸の真ん中にある固い感触が衣越しに指先に伝わるはずなのに。

 なにも…何の感触も感じない。

 まさか────────。

震える手で、もどかしげに道服の前をはだける。

そこには、あるはずの『もの』が無かった。