宵闇の静まりかえった室内に、カリカリと規則的な音が響く。

しかし、その音は徐々に不規則になり始め、ついにはぴたりと止まった。



三 心の壁



 「はぁぁああ…」

 ため息とともに太乙は机につっぷす。

石作りの冷たさが、のぼせた頬に心地よかった。

こうしてぼんやりとしていると、太乙の瞼に一人の少年の残像が甦ってくる。

 ひさしぶりに見た呂望は、彼の記憶より少しだけ成長していた。

憐れみを催すほど痩せこけていた体は、全体的にふっくらと肉がつき少年らしい丸みを帯びて。

案山子のようだった手足も、細いながら若木の如くしなやかに伸びていた。

 だが、幼少期の慢性的な栄養失調と仙界の特異な空気が、呂望から成長期という貴重な時間を無情にも

削り取ってしまった。

 元始天尊に連れて来られた六年前よりは確かに育っているものの、今年十八歳の青年には到底見えない。

 身長の伸びも三年ほど前に止まり、外見の成長は結局少年の域を出ないどころか、入り口から数歩の

ところで停止してしまった。

もう少しまともな生活環境で育てば、遊牧民の出という出自に相応しい、しっかりした体躯を得られたかも

しれないのに。

 「素材は悪くないんだよね。」

 けっして、目の覚めるような美形というわけじゃない。

けれど構成しているパーツだけみれば、人好きのする愛嬌のある顔立ちをしているのだ、彼は。

 だが、その鋭い目付きが呂望に他者を拒絶する雰囲気を纏わせていた。

元々がつぶらで愛らしい瞳なだけに、そこに宿る昏さはひどく不釣り合いで、見る者に不安を与える。

 「せめて、少しくらい笑ったら可愛いのにな…」

 思えば、自分は一度も彼の笑顔を見たことがないのではないだろうか。

困惑した顔や嫌がってる顔なら、何度もあるのだ。

 それはもう、数えきれないくらいに。

太乙が呂望にかまう度に、彼はそんな顔をする。

 沈黙と拒絶。無言の抗議。

他人に干渉されるのを極端に嫌っているのだ。

いや、どちらかといえば恐れているのかもしれない。

他人との接触を。

それがもたらす総てのことを。

 なぜ、自分以外のものを執拗に拒絶するのだろう。

無論、仙人にも人嫌いはいる。

元々欲が薄いからこそ仙道になった者たちである。

物欲の強い人界と人間に嫌気がさし、厭世的になってしまう者も多い。

 だが、それにしても呂望の嫌がり方は度を越えている。…ような気がする。

なにが、そんなに怖いのだろう。

もう、彼を傷つける者はいないというのに。

 自分が側にいるというのに。

……………………………………………………

 「……………………………………んっ?」

 なにか、今、とんでもないことを考えたような気がしたのは、自分の気のせいだろうか。

 「はは………まさか、ね。」

 「何が、まさかなんだい?」

のほほんとした問いかけに、心臓が止まりそうになる。振り返れば、見知った同僚──普賢真人が、いつもの

底の見えない笑顔を振り撒いて立っていた。

 「ふっ、ふっ、普賢っ!いつからそこに……」

 「さっきから。」

 咎めるような太乙の問いに、少女のような外見の同僚はにっこりと笑顔で切り返す。

 「いたなら、声をかけてくれたって………」

 「呼び鈴も十回鳴らしたし、五分ほど君のこと呼んでたんだけど…聞こえてなかったみたいだね。」

 「 う゛っっ!」

 『墓穴掘り』とはまさにこのことだろう。

ぐうの音も出ないほどの強烈な突っ込みを受け、太乙の顔から脂汗がだらだらと吹き出した。

 「き、今日はどんな用なんだい。」

 これ以上余計な突っ込みをされないように、わざと話題をすり替える。

 どうも、彼は苦手だ。変人揃いの十二仙の中でも、別格と云っていいほど突き抜けた雰囲気がある。

 得体が知れないという表現が、ここまでぴたりと当てはまる人物というのも珍しい。

 こういう不得手な相手は当たり障りのないことを話して、とっとと追っ払うに限る。と、太乙の直感が強く

告げていた。

 「君がわざわざ道府から出てくるってことは、元始天尊さまのお召しかい?」

 「そうそう、明日から望ちゃんに物理を教えてあげることになったんだ。」

 ほえほえと普賢が答える。

同僚の言葉に、太乙の顔が微かに曇った。

『望ちゃん』───普賢は呂望のことをそう呼ぶ。始めは困惑顔をしていたが、普賢の人当たりのよい笑顔と

つかみ所のない性格に毒気を抜かれたのか、呂望も厭がらずに彼を受け入れている。

 それが、太乙は面白くない。というか、すっごく羨ましい。

 こうして他の仙人が呂望の話をする度に──彼らが呂望と話しているのを見る度に──太乙はいいようのない

切なさを感じてしまうのだ。

 太乙には完全装備で身構える呂望が、他の十二仙──特に普賢や道徳といった仙人たち──には、不器用

ながらも疎通の意志を見せて馴染もうと努力している。

 それなのに、それなのに────。

彼に対しては、そういった努力を一切してくれないのだ。それはもう、まったくと云っていいほどに。

好かれてないのは知っていたが、ひょっとして自分は嫌われているのだろうか。

 だとしたら、何がいけなかったのだろう。

もしかして、知らないうちに彼を傷つけてしまったのだろうか。

 因に、以前太乙が普賢の真似をして『望ちゃん』と呼んだ事があったが、呂望は思いっきり顔を顰めた後、

半年ほど口をきいてくれなかった…。

 「君から見て、彼はどんな感じだい?」

 「望ちゃん?頭のいい子だよ。」

 笑顔で即答されて、ますます気が重くなる。

きっと自分の時とは違って、普賢の前では『いい子』なのだろう。

 「一を教えれば百を理解する利発な子だよ。一度聞いたら、ほぼ何でもこなすし、応用力もある。流石は

元始天尊さまが直々に探してきた逸材だね。」

 「そ、そう。」

 あまりの褒めっぷりに、聞いた自分が馬鹿に思えた。

 やっぱり、太乙の時とは違うのだ。

太乙の授業を受けている時の呂望ときたら…。

いや、止めよう。余計に落ち込む。

 「ただね……───」

 普賢の口から言葉が途切れる。

云おうか止めるか、少しだけ迷って。

年下の同僚は、ためらいがちに口を開いた。

 「学ぶことを楽しんでるようには、みえないね。」

 「えっ?」

 意味深な普賢の呟きに理由が解らず、首を傾げる。

 「なんて云うか…ふつう学問や武術が上達してる時っていうのは、誰でも『学ぶ』ことが一番楽しい時期だよね。

努力の結果が出てるから…」

 「ああ……うん、そだね。」

 云われ、太乙は頷く。

 「望ちゃんには、それがないんだ。嫌々学んでるわけじゃ無いかわりに、『学ぶ』こと自体に思い入れもない。

上手く云えないけど…彼の目標は仙人になることじゃなくて、もっと他のことなんじゃないかな。」

 普賢の言葉に、段々と太乙の柳眉が歪む。

彼のいいたいこと。それはつまり───

 「つまり、別の目的の為に玉虚宮で仙人の修行をしてる…ってこと?」

 「多分ね。…そのわりに飛び抜けて優秀なものだから、他の見習いたちの反感買ってるみたいだけど。」

 さらりと云われた爆弾発言に、太乙の眼がこれでもかとひん剥かれる。

 「えええぇぇっ!なにそれっっ!そんなことになってるのっ!」

 「……………君、気づいてなかったの?」

 それは随分ぼけぼけだねぇ。

のほほんとした口調で失礼なことを云われ、太乙はちょっとだけ傷ついた。

 「なんでそんなことに………」

 「それは、僕たち十二仙が――主に君だけど――いつもなにくれと構っている上に、個人授業なんてやれば

他の子は面白くないだろうね。」

 語る口調は非常に穏やかだが、鋭すぎる指摘に太乙は更に動揺してしまう。

同時に記憶の隅にきらめくものがあった。

 そうか………昼間会ったとき呂望の顔色がすぐれなかったのは、いじめられていたからなのかっ!

 「いや、それは違うと思うよ。」

 絶妙のタイミングで突っ込みを受け、太乙は再度心臓が止まりかけた。

 「なっ、なんでキミはそう心臓に悪い合いの手をいれるんだいっ!」

 「だって…キミ、考えてること全部口に出して云ってるよ。」

 本当に、おまぬけさんだねぇ。

 微塵の悪意も感じられない、極上の微笑みでコーティングされた普賢の呟きは、太乙を完膚無きまでに

どん底に突き落とした。

すっかり撃沈した彼に、

 「半分以上キミのせいなんだから、きちんと対処してあげるんだよ。じゃないと、望ちゃんの立場が益々

悪くなるんだからね。」

 と、しっかり止めをさして、普賢真人は来たときと同じく音もなく去っていった。

 台風の目が去り、静かになった室内に太乙のため息が響く。

 普賢の言葉は、太乙にとっても非常に気になり、且つ頭の痛い問題でもあった。

 私のせいなら、是か非にでもなんとかしなきゃいけないんだけど……。

問題は、呂望にけっして悟られずに自分にそれが出来るかどうかだ。はっきり云って、全然自信はない。

 宝貝製作なら、崑崙の誰にも負けないという自負がある。事実、此処で彼に勝るものを作れる者はいなかった。

元始天尊とて、それは不可能にちかい。

 けれど、人の心は化学式のように割り切れない。

お世辞にも人付き合いが上手いと云えない太乙に、呂望の対人関係の環境を改善をしろというのは、かなり

無理な注文だった。

 他人に『施される』っていうのを、極端に毛嫌いしているからなぁ…。

己に向けられる憐れみ・同情といった感情に、呂望は驚くほど敏感だ。そして、その手の手合いををひどく嫌って

軽蔑している。

その気持ちは理解出来ないでもないが、他人のそういった感情の弱みを逆手にとって利用するのも一つの

処世術ではないのか。

 どうすればいいのだろう、自分は。

呂望のためにと思っても、結果はいつも裏目にばかり出てしまう。このままでは………。

 そっと窓辺に近づく。

窓の外の闇にぼぅっと浮かぶのは、道士寮の灯籠だ。

 あの灯火に照らされた窓の一つに、呂望がいる。

また、彼は苦しんでいるのではないか。

 いいしれぬ不安とせつなさが、太乙の胸の奥でくいと頭を擡げる。




 甦るのは、悪夢に震える少年の姿。