彼の抱えている苦悩を垣間見たのは三年前────ほんの偶然だった。

今回のように新作の宝貝を師匠に披露するため、太乙は玉虚宮に殿上した。

 ついつい話し込み、元始天尊のもとから退出したのは既に真夜中を過ぎて…。

 研究室のある居住区にさしかかったとき、奇妙な唸り声が耳に入った。

 『………めて……けて……………』

 小さくてよく聞き取れなかったけれど、誰かを呼んでいるような悲痛な叫びだった。

 驚いた太乙が回りを見渡すと、一つだけ扉が僅かに開いている部屋が目につく。

見習い道士用の寮になっているこの地区でも、此処はいわゆる特待生にのみ与えられた個室寮で…

その部屋の主は彼がよく見知った少年───呂望だ。

 扉の前で何度も躊躇い、余計な世話だと非難されるかもしれないと知りつつも、心配でつい中を

覗きこんでしまった。

 必要最低限の家具のみの、閑散とした部屋の中。

さして大きくない寝台で、小さな体躯を更に縮こませ苦悶の表情を浮かべた少年がいた。

額には脂汗が滲み、瘧のように小刻みに震えている。

 病気かもしれない…真っ青になって部屋に飛び込んだ太乙にむかって、呂望は眠ったまま腕をのばした。

 『助けて……誰か…皆を助けて…火を…………』

 細い腕を攣るのではないかと思うほどぴんと伸ばし、何かを掴もうと必死でもがく。

だが不意に、少年の手が宙空で静止する。

そのまま、ゆっくりと床に落ちた。

 『…父上っ……兄上…兄上ぇ………』

 固く閉じられた眦から、幾筋もの涙が少年の頬を伝う。

辛い夢───一族を惨殺された時のことを夢見ているのだろう。

 暫くすると、呂望はまた腕をのばす。

そしてまた、諦めるようにこぶしを握るのだ。

 何度も目の前で繰り返される光景の、あまりの切なさに耐え切れず、太乙はその手を握りしめた。

 少年の手は、小さかった。

さほど大きいとはいえない彼の手に、すっぽりと包まれてしまうほどに。

 締めつける胸の痛みに、太乙の視界が歪む。

つらかった。とても。

終わりを忘れたかのように繰り返される悪夢に、少年はこんなにも傷つき震えている。

 記憶に刻まれた傷口から、血がとめどなく滴っている。それなのに…。

それでも、呂望は自分以外のすべてを拒絶するのだ。

現に、こうして微睡みのなか悪夢に苛まれていても、呂望はけっして泣き声をたてない。

 扉が開いていなければ、きっと太乙は少年が苦しんでいることに気づけなかっただろう。

そう思うとやるせなかった。

 ほうっておけなくて、その日はとうとう明け方までずっと側にいた。

 それから、太乙の瞳は常に呂望を追いかけるようになった。

 講義中や、武術訓練、食事時間など時間の許すかぎり呂望の側にいるように心掛けた。

 本人は嫌がることが多かったが、はっきり拒絶されない限りは太乙も引き下がらなかった。

 そうするうち、少しだけ解ったことがあった。

呂望も、いつもうなされているわけではない。

 一年のうちの数週間―――初冬の今の時期が、特に酷いようだ。

毎年この頃になると、彼は殆ど睡眠を取らなくなる。

 体に悪いことこの上ないが、呂望にとっては眠りの中で見る悪夢の方が辛いらしい。

 けっして、自分から眠ろうとはしない。

毎夜私室の窓からぼんやりと月を見上げて、眠れぬ夜を数えるのだ。

 そんな彼を、太乙はただ見守ることしか出来ない。

 ただ、それだけだ。

なにができるわけでもない。

なにをできるわけでもない。

それでも、止めることはできなかった。

 わかっているのだ。自分が、彼の喪失くしたものの『かわり』になれないことは。

そんなことは太乙自身が一番よく理解している。

それでも、呂望の力になりたい。支えになりたい。

 理屈なんてない。そんなものより、もっと深い部分が自分に求めているのだ。

ほんの少しでいい、彼が心を開いてくれたら…と。

 そしたら、彼の苦しみを癒すために自分はなんでもするのに。

 重く閉ざされた扉の前で、太乙は立ち尽くす。

ついふらふらと此処まで来てしまったが、部屋の主───呂望はまだ起きているかもしれない。

 暫しの逡巡の後、太乙は音を立てぬよう静かに扉を押した。

僅かに開いた透き間に、そっと顔を寄せる。

 「………………あれ………?」

 もう一度、今度は力を込めて扉を押し開ける。

 部屋には誰もいなかった。

寝台はきちんと整えられたままで、触れられた気配すらない。

 こんな夜更けに、彼は何処へいったのだろう。

 「もしかしたら…」

 眠れずに、散歩に出たのかもしれない。

 探してみようか。考えるより先に行動しようとして、しかし、思い止まる。

 たぶん、彼はいま心が弱くなっているだろう。

 そして、そんな自分の姿を他人に見られる事を、なによりも嫌っている。

彼は太乙の会った誰よりも、高い矜持の持ち主だから。 呂望のことは心配だったが、彼に嫌悪の目で

見られたり拒絶されるのはもっと嫌だった。

 それでなくとも、太乙には常に心につきまとう不安がある。

 呂望がけっして打ち解けてくれないのは、相手が自分だからではないのか。

自分以外の『誰か』になら、彼の傷だらけの心を癒すことが出来るのかもしれない。

 太乙が側にいる為に、呂望が誰にも心が開けずに苦しみ続けているのだとしたら、自分は結果として

彼を傷つけていることなりはしないか。

 なにより、いまだ自分に一片も心を明かしてくれないのは、その証明のように思えてたまらなかった。

 長い長い仙界での隠遁生活のなかで、沢山の知恵と真理を得たかわりに、太乙は人間であった頃

持っていた幾つかのものを失くして―――いや、忘れていた。

 それは、勇気と呼ばれるものであったかもしれない。

触れたいと望みながらも、直に触れ合うことに躊躇い、どこか臆病になっていた。

 



 この時、呂望を探さなかったことを、太乙はすぐに後悔することになる。

 けれど、この時はまだ気づいていなかった。

これが、後々二人の関係を大きく返ることに。

 いまこのとき、それを太乙は選んでしまったのだ。