どこからか、香りがする。 懐かしいような、そうでないような…そんな香りが。 心地よい微睡みのなかで、呂望はそう思った。 意識は、とうに覚醒している。 だが疲弊した精神が、今少しの休息を要求して目覚めることを拒絶した。 それでも、香りのもとが知りたくて、呂望は重い瞼をゆっくりと開いた。 「ここは…………?」 なかば無意識に首を傾げる。 身体を包む寝具は間違いなく極上のもので、此処があきらかに自分の部屋で無いことを伝えている。 かすむ目で、薄暗い部屋をぼんやりと見回す。 高い天井と広々とした空間。そして豪奢な調度類。 壁には無数の数式と、何かの化学式の書かれた紙が所狭しと張り巡らされていた。 この部屋には見覚えがある。 そう、太乙真人の私室だ。 「っ、痛っ───」 跳ね起きた途端、襲った激しい激痛に一瞬息が詰まる。 幾度か浅い呼吸を繰り返し、ようやく痛みに 昏睡から目覚めたばかりのせいか、思考が上手くまとまらない。それよりも、何故自分がここにいるのか。 痛みを訴える自身の額───なにげなく置いた左手の白さにぎょっとして、呂望は目を見張る。 それをきっかけに、気を失う以前の事が蘇った。 お守り───狼の牙。 なくしたことに気づいて、一晩中探した。 でも見つからなくて、必死に探して。 もしかしたら…と、一縷の望みをかけて、麒麟崖の断崖まで探しに出掛けて──── 「あっ………」 そうだ。思い出した。 太乙真人。彼が突然現れて、邪魔をした。 腹がたって、彼を突き放して、それから……………。 そこからは、なにも覚えてない。たぶん、そのまま気を失ってしまったのだ。 よりによって、彼の前で。 恥ずかしさに、かぁっと頬が朱にそまる。 「なんてことを………」 よりによって、一番見られたくない人物にこのような醜態を晒してしまうなんて。最悪だ。 それに…、この両手。 じっと我が手に見入る。 傷だらけ───どころか、生爪までしっかり剥げていた───だった両手には薬が塗られ、今は奇麗に 目の前で気を失った挙げ句、傷の手当までさせてしまったのかと思うと、気が重かった。 横たわる我が身から寝具を引きはがし、起き上がる。先程のような強い痛みは、もう感じない。 倦怠感はあるにはあるが、我慢出来ぬほどではない。 なるべく身体に負担をかけぬよう、時間をおいて立ち上がった。 「……っう………」 くらりと、目眩が襲う。 二、三歩よろめいて、なんとか踏みとどまる。 「………ふぅ………」 充分に回復したとは到底云えなかったが、此処に居るわけにはいかない。 それに、太乙には会いたくなかった。 彼は危険だ。彼が紡ぎ出す優しさは、自分の中にある大切なものを壊してしまう。 何故そんな確信を持つのか、それは呂望自身もよく判らなかった。 だが、そうと抱いてしまった以上、それを許すわけにはいかない。 自分には、誰にも譲れない願いがあるのだから。 たとえ十二仙であっても、邪魔はさせない。 ふらつく足で、ゆっくりと歩きだす。 扉は、すぐそこだった。
カラカラと、水差しの中の氷が涼やかな音を立てる。それを零さぬようしっかりと盆を持ち上げ、 「あれ、太乙?」 不意に声をかけられ、立ち止まる。 柱の陰から現れたのは、色物仙人トリオの一人────道徳真君だった。 「呂望は見つかったのかい?」 「えっ、…うん。ついさっきね。」 「それは良かった。」 ぱっと道徳の顔が明るくなる。 彼なりに呂望のことを心配していたのだろう。 けれど、次の道徳の言葉は意外なものだった。 「なんたって、彼は封神計画の大事な要だからね。いま失うわけにはいかないよ。」 「……………………エッ?」 「あれ、聞いてないのかい?」 ああ、君と普賢は会議に出席してなかったからね。 一人納得して、道徳は数刻前の会議の内容を話始めた。 その施行者として、呂望が決まったことを。 そこまで聞いて、太乙は思わず口を挟んだ。 「…そ…それじゃ、呂望は妲己捕獲計画の為の駒だっていうのかい…」 発した声は、自分でも驚くほど掠れていた。 しかし、それに気づかないのか応える道徳は淡々としている。 「仙人界のためだ。多少の犠牲は仕方ないだろう。」 同僚の信じられないほど冷たい発言に、太乙は食い入るように彼の顔に見入る。 だが、じっと見据えた道徳の瞳はどこまで真っすぐで、些かの曇りも見えない。 彼は、本気でそう信じているのだ。師匠である元始天尊の言葉をそのままに。 何一つ、疑うことすらなく。 目眩が、した。 「だって…呂望はまだ子供だよ。それに狐狸精といったら、二千年以上生きてる金鰲屈指の 憤りのままに叫びそうになるのを辛うじて堪えて、太乙は必死で言い募る。 けれど、道徳は太乙の言葉に微塵も心動かされていないようだった。 「だから、俺たち崑崙十二仙が総掛かりで鍛えてるんじゃないか。計画開始まで、もうそれ程 説明できぬ恐怖に、ぶるりと太乙の肩が震える。 背筋を悪寒が走り抜けたのは、宮殿に漂う冬の寒気のせいだけではないような気がした。 「…ごめん。呂望の傷の手当をしないといけないから、もう失礼するよ。」 早口で切り上げ、踵を返す。 これ以上道徳と話していたくなかった。 「あっ、おい太乙…………。」 面食らったのか、道徳が声をかける。 が、わざと聞こえないふりをして、太乙は足早にその場を離れた。内心の動揺を 恐ろしかった。 これ以上道徳の側にいると、いったい自分は何を言い出すか解らない。一分でも 怖かった。 ただ、怖かった。 『多少の犠牲は仕方ないだろう』 そう平然と言い切る道徳にも、それを疑念も持たせずに信じ込ませた元始天尊も、 だが、一番恐ろしかったのは───彼等の考えに激しい怒りを感じながらも、何処かで |