ひたひたひた…

無人の回廊に足音が木霊する。

 ひた…ひた…ひた………。

足取りは重く、どこかぎここちない。音の間隔も、段々と延びていっている。

 思いどおりに動かぬ体に苛立ちながら、それでも呂望は歩いた。

自室までは、それほど遠くない。この回廊を渡って、噴水の広場を抜ければすぐそこだ。

 だが普段ならどうということもない道程も、疲労の溜まったこの身には堪えた。

足は鉛を詰めたように重く、感覚も希薄でたよりない。

 とっくに体の限界は越えているのだ。何とか動くのは、ひとえに気力のたまものだった。

しかしそれも、もはや限界に近い。

精神がかけたごまかしに、肉体がついていけない。

逆に、身体の不調に精神が引きずられて萎えていく。

 「……くぅ…ぁ……」

 急速に力の抜けていく体に歯痒さを感じて、回廊の欄干に縋りつく。

 あと少し…ほんの少しの距離なのに、どうしてこんなにも遠いのか。

 ずるずると崩れるように、その場に座り込む。

もう一歩も動けなかった。

立ち止まると、それを待ち構えていたように体の奥から睡魔が這い出す。

 抗う術は、もう無い。

今の自分には、それだけの力が無かった。

ゆっくりと瞼を閉じる。

 視界は闇に覆われ、聞こえるのは窓の外で降り続く雨音のみ。それすらも、どこか夢うつつのようだ。

もたれた白壁の冷たさが、ひどく心地よい。

 このまま、永遠に眠ってしまおうか。

馬鹿馬鹿しいほど、愚かな閃き。

 けれど、極限まで精神が衰弱した今の呂望には、それが最良の選択にさえ思えた。

 もう、なにもかもどうでもいい…。

身のうちの最も奥深くの暗闇─────たゆとう忘我の海に、自ら望んで身を委ねる。

激しさを増す雨音すら、もはや気にならなかった。

 意識を手放して、どれほど経ったのか。

もう少しですべてが終わる…あと一歩のところで。

 声が、聞こえた。

彼を…呂望だけを呼ぶ声が。

 戻っておいで…。還っておいで。

 いってはだめだ。私のもとに戻っておいで。

聞いたことのある声音だ。でも、誰か思い出せない。

 ……呂……呂望……キミが必要なんだ

これ以上ないというぼと、声は熱っぽく呂望を求める。それがくすぐったくて。

確かに聞き覚えがあるのに、どうしても思い出せない。

 キミだけが、必要なんだ。

 キミが、大切なんだ………

父の声でも、兄の声でもない。

でも、なんて───懐かしい……

誰なのだろう、この人は。

知りたい、誰なのか。でも………

相手が判ってしまうのが、なんだか怖い。

自分が自分でなくなってしまいそうで…恐い。

でも、でも─────────

 呂望の葛藤をよそに、声は一際大きく呼びかける。

魂までも搦め捕るような、強い、強い力で。

 「───────呂望っっ!」

 「………ぁ…………………」

 うっすらと、呂望は瞳を開く。

今にも泣きそうな顔が間近に在った。

 いや、泣いていたのかもしれない。

だって、彼の頬には沢山の雫が伝っていたから。

 「た…いい…つ……」

 濡れていたのは、彼の頬だけではなかった。

服も髪も、見事なくらいびしょ濡れだ。

 ただでさえ暑苦しい黒衣が、たっぷりと水気を吸って重たげに身体に張り付いている。

 この人は…………

この人は、こんなになるまで自分を探していたのか。

この豪雨の中を、たった一人で。

 「気がついたんだね。……よかった……」

 黒衣の麗人が、ほっとしたように微笑む。

 心底嬉しげな、心を蕩かす手弱かな笑顔で。

どうして、この人はこんなにも優しく微笑むのだろう。

 「どうして……」

 呂望の小さな呟きに、彼は笑みを深くする。

 「キミの声が聞こえたんだ。」

 太乙の男性にしてはやや線の細い両腕が、しっかりと呂望を抱き上げる。

抗おうにも、疲労に取り憑かれた呂望の体では小指一つ満足に動かせない。

 「さ、部屋に戻ろう。」

 ぐったりとした呂望を抱き抱え、太乙は己の私室へと踵を返した。

 

 

 僅かな浮遊感を味わったあと、呂望は先程まで微睡んでいた寝台へと戻された。

脈と体温を調べられ──あまり良くないのか、太乙の表情が暗い──首筋に筒状の

簡易注射器を充てられる。 金属特有のひんやりとした感触の後、その場所からかすかな痛みが走った。

 「んっ………」

 中身は仙桃から精製された栄養剤──しかも即効性だったらしい。瞬く間に、あれほど

ひどかった疲労感が淡雪のように溶け出した。

無力感から解放され、呂望の視界が明るくなる。

 ふと見上げれば、傍らで心配そうに太乙が覗き込んでいた。

視線が合うと、彼は嬉しげに目を細める。

 むか。

 いらいらいらいら……………。

気に入らなかった。

 安心したように呂望を見つめる太乙に。

 彼のいいなりになるしかない、今の自分も。

彼のすべてが、気に障った。

 冷静に考えれば、ここまで無償の好意を示してくれる相手にこんな感情を持つのは筋違いだと、

聡明な呂望なら気づきそうなものなのだが…。

今の不安定な彼には、それが理解出来ない。

 心に沸き上がる苛立ちは増えるばかりで、いっこうに消えない。

むしろ、太乙が甲斐甲斐しく世話を焼けば焼くほど、理由の判らない怒りが込み上げる。

 更に腹が立つのは、元凶だる彼がこれっぽっちも気がついていないことだ。

今も、そのことに気づこうともしないで、自分に触れようとしている。触られる度に、呂望の中で

不快感が募っているというのに。

 もう、我慢ならない。

 「さ、これを飲んで。」

 差し出された水薬に、しかし、呂望は口をつけようとしなかった。

 それどころか、回復した右手で渾身の力を込めて、それをなぎ払った。

カシャン…と派手な音を立てて容器が砕け、青い液体が床に広がる。

 「 呂望…?」

 突然の暴挙に驚きながら───それでも、自分を宥めようと太乙が指をのばしてくるのを、

再度呂望はなぎ払う。

 「呂望っ!」

 「なんで、僕にかまうんですかっ!」

 すでに、呂望は辛うじて保っていた正気すら手放しかけていた。

 苛立ちが呂望を支配する。

此処に来て以来、溜まりに溜め込んだ鬱憤が凄まじい癇癪となって、太乙にむかって爆発した。

 「僕は狐狸精を殺すための『人形』でしょう!」

 絞り出すような絶叫に、太乙の顔色が変わる。

 「キミ…なんで…………」

 何故知っているのか。

大きな衝撃が、太乙の顔を蒼白に染め上げた。

 「どうして………」

 「知らないと思ったのですか?」

 呂望の口元が、あからさまな嘲りに歪む。

太乙の驚きようが、白々しくてひどく可笑しかった。

 まさか、気づかれてないと思っていたのだろうか、この人は。だとしたら、ずいぶんと間抜けだ。

とっくの昔に気づいていたのだ。仙人界の思惑に。

 そもそも、入門した時から呂望は特別待遇だった。

修行の内容も密度も、初めから同期の者達とは天と地ほどの差があった。

 何故、彼らと扱いが違うのか。

 なぜ、教主直属の幹部である崑崙十二仙が自分にこれほど構い、その知識を教授してくれるのか。

入門時には気づけなかったそれも、多くを学ぶうちにすぐに理解した。

皮肉にも、十二仙が与えてくれた知識によって。

 自分は、駒だったのだ。

そう遠くない未来───地上において発動される計画の、施行者として。最適の人材として。

 その為に産み出された、つくられた傀儡。

自分に与えられたもの───そのすべてが、数十年という限られた僅かな時間で、狐狸精に

匹敵出来るだけの能力を引き出す───そのために、細部まで緻密に組まれた特別なカリキュラムだった。

 すべて、打算と計算に裏打ちされた……好意。

でも、それでも良かった。

 他の誰でもない、自分に狐狸精を討たせてくれるのなら、仙人界の傀儡でもかまわなかった。

一族の仇が討てるのなら、それでも良かったのだ。

むしろ、進んで人形であろうとしたのに…。

 「どうして、貴方は……………」

 僕を人間に戻そうとするのですか?

声なき呟きが、音を伴えなかったが故に四散する。

 溢れる激情のまま、まだ感覚の戻りきらないこぶしで、太乙の胸を叩いた。

繰り返し、何度も…何度も。

 「なぜ、貴方は…………」

 自分は、何故こんなにも憤るのだろう。この人に。

 なにが悔しいのだろう。

 何が許せないのだろう。

太乙の、なにが───。

わからない。何も、わからない。

 「ごめん…………」

 しなやかな指先が、俯く呂望の頬に触れる。

包み込む両手に力をこめて、その顔を上げさせた。

 映るのは、思い詰めたような───何かを決意したような真剣な眼差し。

 「それでも、わたしは……………」

 玻璃色の瞳が、呂望だけを見つめる。

 「キミが、好きなんだ。」

 ささやきは、ひどく掠れて聞き取りにくかったけれど。

込められた想いは、どこまでも真摯で。

強ばっていた全身から、ずるずると力が抜けていく。

 もう、ごまかせない。偽れない。

 自分は、ずっとこのぬくもりを恐れていたのだ。

そして同時に、なによりも餓えていたのだ。

 この温かさに。

誰かに、こうして抱きしめて欲しかった。

 打算や思惑からではなく、ただ純粋に向けられる好意を、ずっとずっと求めてた。

この身に眠る能力ではなく、呂望自身を必要だと───大切だと。

 そう云って欲しかった。

 「……………ぅうっ……………………」

 目の眩むような温かさに包まれて、呂望は眦が熱く潤むのを感じた。

 そして、ようやく理解する。

悔しかったのは、この温かさが偽りだと思ったから。

許せなかったのは、自分を騙したのだと思ったから。

 彼には、そんなことして欲しくなかった。

他の誰が呂望を偽ろうとも、太乙には自分を偽らないで欲しかった。

 兄に似た面差しの、彼だけは…。

ふわり、とその胸に抱き締められる。

 「好きだよ………」

 呟きに、こくんと呂望は頷いた。