「おお、はやかったのう。」

 笑顔で迎えられ、どぎりと胸が高鳴る。

動揺を悟られたくなくて、天化はわざと早口でまくしたてた。

 「はいっ、これ周公旦さんからの返事さ。」

 やや乱暴に、書簡を太公望の机に広げる。

それに怒るでもなく、太公望はにこにこと礼を述べた。

 「ありがとう、天化。」

 「他にやることは?」

 「そうじゃのう…武成王府に届ける書類を作るから、少し待っておいてくれるかの。」

 こくんと首を振り、天化は次の書簡の完成を待つことにした。

 しばらくは寝台に腰掛けておとなしく待っていたが、やがて退屈からか天化はうつら

うつらと眠りの海に船をこぎ始めた。

  

 ぷちん、と鼻提灯の壊れる小さな音で、天化は目を覚ます。

 「うにゃ………?」

 太公望が書簡を書き終わるのを寝台に座って待っているうちに、ついうとうとと居眠り

してしまったようだ。

 ぼんやりとした頭で、周囲をきょろきょろと見回す。

 (あ……………)

小さな燭台に照らされた暗い部屋の片隅──雑務をこなす為の文机に、凭れるように

して太公望がいた。

 激務続きのせいか、最後の一枚を書き上げるのと同時に力尽きて眠りこんだらしい。

その左手には彼愛用の筆が握られたままた。

 (そんなとこで寝たら風邪ひくさ……)

抱き上げて寝台に寝かせよう──そう思い、立ち上がって、はっと気づく。

 今の天化は彼よりもずっと小さいのだ。抱き抱えて運ぶなどサイズの関係上、とても

出来ない。

 ならば………。

天化は寝台から飛び降りると、今まで自分が乗っかっていた毛布を引きはがした。

 「よっと………」

 意外と重量のあるそれを引きずり、太公望にかけてやろうとする。

しかし、ここでも子供の体が邪魔をしてなかなか目的を果たせない。

 仕方なく、一度毛布をそこに置くと、来客用のテーブルから椅子を一つ引っ張り出し、

文机の側にぴったりとくっつけた。

 「んしょっ」

 床の毛布を掴み、蹌踉けながらも椅子の上に昇る。

両手一杯に毛布を広げて持ち直し、勢いをつけて太公望に被せた。

 「…………ふぅ。」

 上手く被せることができ、天化はほっと息をつく。

このまま自室に戻るのも勿体ないような気がして、乗っていた椅子にちょこんと座り直した。

 じっ、と太公望の寝顔を凝視する。

すこし苦しげな…でも無心に眠る幼い寝顔を見ていると、天化の胸になんとも云いようのない

暖かな感情が生まれる。

 けれど同時に締め付けられるようなせつなさも、かすかに感じるのだ。

 「…………」

 視線が、ふと一点に釘付けになる。

 (スース、ちょっと痩せたさ…)

起こさないよう注意を払って、その頬に手を添えた。

 見た目にはあまり変わらないようだが、こうして触れてみると以前より肉が落ちている

のを確かに感じる。 出会ったころは、もう少しふっくらとした印象だったのに。

引き締まったといえば聞こえはいいが、ようは食べてる量が消費量に追いついてないと

いう事だ。

 (それも仕方ないか)

ここ数日間彼の仕事を手伝ってみて、この国がいかに太公望に依存しているのか、図らず

も天化には判ってしまった。

 軍事から内政。治水農業から福祉厚生。

あらゆる面で、周は太公望に依存していた。

 程度の差こそあるが、彼の意見を取り入れてない官省など一つもない。みな、何らかの

形で太公望の知恵を借りていた。

 姫昌が亡くなって以来、形としては姫発が王となってはいるが、実権は弟の周公旦と

太公望にあるといっても過言ではない。まして殷との戦争を控えて軍備増強中の現在は、

執政官の周公旦よりも軍師の太公望に重責が集中している傾向がある。

 これでは痩せてしまうのも当然だろう。

この華奢な双肩に、どれほどの責務が背負わされているのか…それを、天化は初めて

理解したような気がした。

 なんだか正視できない気分になって、天化は自分の手に視線を落とす。

 見慣れた、節の目立つ無骨な手ではない。

小さくて幼い、柔らかな子供の手だ。

 まだ何も知らない……また出来ない、弱々しい手。

太乙はあの飴を『願いが叶う飴』と云っていた。

 信用する気は更々無い。だが変化するのなら、父くらいの大人になれればよかったのに

と思う。

 こうして太公望の側にいられるのは──本音を云えば嬉しいけれど、今の自分には出来

ない事が多すぎる。

 せっかく自分の知らない『彼』を知っても──彼の苦労を垣間見ても、手助けできないの

なら意味は無い。 そんなのは嫌だ。

 (俺っちさ、スースのことが好きなんだ…)

 だから、役に立ちたい。

必要とされたい。誰よりも信頼して欲しい。

 どうしたら、元に戻れるのだろう。

 どうしたら、太公望に『必要』とされるだろう。

答えは、まだ見つからない。

 

 

 「大丈夫か、天化…?」

 ぐったりと机に突っ伏す天化に、太公望は雑務の手を止めて、心配げに声をかける。

 幼児化してから、既に二週間目。

客観的に見ても、天化はひどく憔悴していた。

 「だ……だいじょうーぶ…………」

 と本人は返しているが、虚ろな瞳とへろへろの声音では、まったく説得力はない。

 太公望は知らなかったが、ここ二週間というもの───太公望を狙うハイエナ達に、

天化はここぞとばかりに、尋常ではない嫌がらせを連日受けていた。

 いままで悉く彼等の邪魔をしていたのだから、報復は当然と云えばそうかもしれない。

しかもご丁寧に、太公望が見ていない時を狙ってねちねちと、まるで息子の嫁をいびる

姑の如く仕掛けてくるのだ。

 更に腹の立つのは、ぼろぼろになった天化が睨みつけると、彼等は決まって

 『太公望(師叔)に言い付けたきゃ、すれば』

と捨てぜりふを吐くのだ。

もちろん、負けん気の強い天化には絶対に出来ないことを知っていて、である。

 (くっそ〜〜〜〜〜〜〜っ!)

悔しいことこの上ないが、この小さな体ではどうすることも出来ない。そろそろ限界も近い。

 ………が、

 「…ホントになんでもないから、スースは気にしないでさ………」

 せいいっぱいの笑顔を貼り付け、天化は懸命に笑う。

太公望には心配をかけたくなかった。

 それでなくても、自分が幼児化したことで多大な迷惑と心労をかけているのだ。

 これ以上、彼を困らせたくない。

 (…俺っち、この頃スースに迷惑ばっかりかけてるさ…)

 幼児化した最初の頃は、いつもと視点が違って新鮮だった。

みんなが労ってくれるし、なにより太公望が天祥に接するように優しくしてくれる。

 嬉しくて、くすぐったくて──これがずっと続けば良いな…と、心の隅っこで願ったり

もした。

 けれど──ふと、思うのだ。

『それ』は、本当に『自分』に対してなのか。

 これは、本当に太乙が云っていたとおり『天化』が望んだ結果なのだろうか…。

 答えの出せない問いに、天化が小さなため息をついた、その時。

 執務室の扉が、物凄い勢いで開いた。

 



前に戻る


次に進む


書庫に戻る