ちくちくちくちくちくちくちく…………。

繊細な銀の針が、黒く輝く絹糸を纏って布地の上を軽やかにステップを刻む。

 瞬きをする間に、ただの布だったものは可愛らしい子供服へ、華麗なる変身を

遂げた。

 その鮮やかな手並みに、仕事も忘れて見物していた太公望以下崑崙道士たちは

称賛の歓声を上げる。

 「お主がこんなに器用とは思わなんだぞ、武成王。」 やや頬を引きつらせて、太公望が

感嘆の賛辞を述べると、飛虎は照れくさげに頭を掻いた。

 「いやぁ、若いころ放浪生活が長かっモンだから、こういうのは得意でな…」

 喋りながらも飛虎の手は忙しなく動き、最後に裾の糸を玉留めして、裏返していた布を

元に戻した。

 「よし、出来たぜ。…天化、ほら着てみな。」

 不幸にも子供になった次男を呼び寄せ、黄飛虎は手際よく服を着替えさせる。

仕立て直しただけあって、それは今の天化の体型にぴったりとあっていた。

 「さすが兄上、腕は落ちてませんな。」

 見事な出来栄えに、弟の飛豹が目を輝かせる。

彼の云うとおり、縫い上げられた服は身内のひいき目を差し引いても素晴らしい出来だった。

 なにより襟首から前の合わせ目、袖にいたる刺繍はこんな短時間で仕上げたとは思え

ないほど緻密かつ繊細で、市販の物など足元にも及ばないくらい素晴らしかった。

 「一家の縫い物をすべてやっていただけのことはありますなぁ…。」

 飛豹の言葉に続けるように

 「奥方様も黄氏も、なぜか裁縫だけは苦手でしたからねぇ…」

 しみじみと黄明が呟くと、他の四大金剛たちもうんうんと同意する。

 首を傾げる太公望(達)に、気恥ずかしさから紅潮した顔で飛虎は簡単に説明した。

 「最近は忙しくてやってなかったが、昔はこいつらのおしめから寝間着まで全部俺が

繕ってたんだせ。」

 『えっ?!』

にこやかに云われた衝撃の事実に、指さされた天化達の顔が瞬時に凍りつく。

 『おしめや服を楽しげに縫っているリリカルな父』という、げに恐ろしき姿が息子たちの

脳裏に一斉に浮かび───、四人は慌ててその想像を記憶の底に蹴り落とした。

 「しかし…、こうしていると昔を思い出すぜ。」

 息子たちの内心の葛藤もつゆ知らず、黄飛虎は遥か過去の美しい思い出へと心を

馳せる。

 「天禄の時は初めてづくしで大変だったが、こいつん時は二番目ってことで子育てにも

多少の余裕があってなぁ…、けっこう楽しかったよ。思えば、あの頃が一番幸せな時期

だったな。」

 中年男の多分にフィクションを含んだ回想ほど、聞いていて疲れるものはない。

 誰か止めてくれればいいものを

 「黄氏も嫁入り前で、賑やかでしたからな…。」

 「兄上、覚えてますか。天爵が生まれた時……」

 と、周囲まで一緒になって思い出話に花を咲かせ始めた。

 「さ、太公望さんは仕事に戻ってください。」

 いつの間にやら酒まで登場し、昼間っから出来あがりつつある父と伯父たちに見切りを

つけた天爵が退出を勧める。

 子供の彼に後を押し付ける事に気が咎める太公望が

 「よ、よいのか?放っておいて……」

 と躊躇いを見せると、天爵は苦笑して言い切った。

 「こうなると半日はやみませんから。」

 きっぱりと断言されると、太公望もそれ以上は踏み込めない。

 「……………わ、わかった。」

 天爵の好意に素直に応じ、太公望(と天化+天祥以下略)は武成王府をあとにした。

 「さて、どうしたもんかのう。」

 太師府に戻り、のんびりと茶を啜りながら誰とはなしに太公望が呟く。

 確かに幼児の姿では、今まで受け持っていた兵の軍事訓練や姫発の護衛はちょっと

無理だろう。

 と、それまで黙っていた天祥が何か思いついたようにぱんと手を叩いた。

 「そうだっ!僕と一緒にたいこーぼーの手伝いをしたらいいよ。」

 「スースの、手伝い?」

 わけが判らず、天化は首を傾げる。

 「うん、たいこーぼーが書いた書類をね、いろんなとこに持っていって、必要なら返事を

もらってくるんだよ。」

 それは初耳だった。昼間よくいなくなるとは思っていたが、太公望の所に入り浸っていた

のか。

 そう思うと、再び天化の胸にもやもやが去来する。

だが今は、あえて無視を決め込んだ。

 「……うーん………」

 ──どうしようか。

悩む天化を後押しするように、太公望が口を挟む。

 「人手はたくさんあった方がよいし、手伝ってもらえるとわしも助かるんじゃがのう。」

 おぬしは、嫌か?

 笑顔で彼に尋ねられて、天化としても異論は唱えられない。

 「わかったさ。」

 こくんと天化は小さく頷いた。

 

 

 

 「にーさま、左の書簡が落ちそうだよ。」

 「えっ、そうさ…?」

 天祥に咎められ、天化はあわてて竹簡を押さえる。

 「持ち過ぎだよ、にーさま。落として壊れたら大変なんだから、運ぶ量はほどほどに

しとかないと。」

 「わ、わかってるさ。」

 天祥に窘められたのが面白くなくて、天化はぷいと顔をそらした。

 

 弟について太公望の書簡運びを始めてから、三日目。今日は、周公旦が臨時で指揮を

とっている司天台へと向かっていた。

 「こんにちは〜」

 回廊を通り抜け『司天台』と書かれた額のある大きな建物の入り口までくると、天祥が

元気よく挨拶する。 すると、人波の向こうから周公旦が現れた。

 「書類を持ってきましたぁ。」

 「はい、ご苦労様。」

 天祥から書簡を受け取り、周公旦は隅々まで目を通す。

 「…ふむ、わかりました。ではこちらも書類を作成しますから、ちょっと待っていてもらえ

ますか。」

 「は〜い。」

 「わかったさ。」

 明るく返事をして、仕事中の役人の邪魔にならぬよう外の石椅子に座って待つ。

 「しかし、大変さーね。」

 書類が出来上がるまでの間、暇つぶしを兼ねてのおやつタイム。

 天化は、ぼつりとため息をついた。

 「なにが?」

 別の役所で駄賃がわりに貰ったお菓子を口一杯にほおばり──どうやら天祥が太公望を

手伝うのは、これが目的でもあるようだ──天祥が首を傾げる。

 「だって、スースはどんな命令もいちいち書簡にしてるんだろ?王サマかスースが出向いて

一言で済ませりゃいいものまでさ…」

 大雑把な天化から見たら、とんでもなく無駄な作業に思えて仕方がない。

 天化の意見に、「うーん、でも…」と天祥は答えた。

 「書簡に残しておいたほうが後で何度も確認がきくし、なにか問題が起こったときに責任が

何処にあるのか判りやすいんだって。」

 たどだとしい天祥の説明に、そんなものなかと天化は思う。なんだか納得してない様子の

兄に、天祥はさらに続けた。

 「でもこれでも、たいこーぼーが来てから随分命令が行き渡りやすくなったって周公旦さんが

云ってたよ。前はもっと複雑だったのを、たいこーぼーが簡略化したんだって。えーとね………」

 食いかけのお菓子を一呑みして、天祥は懸命に『太公望のお話』を思い出そうと奮闘する。

 「『衣食足りて礼節を知る』って云ってね、生活が安定すればコクミンは自然と国の法を守るよう

になるから、まず政治を簡略して安定させなきゃ駄目だって」

 大部分は理解できてないのか棒読み状態だったが、天祥の一所懸命な解説に、天化は

「ふーん」と頷いた。

 「お待たせしました。」

 そこへ、書類を書き終えた周公旦が出て来た。

 「ではこれをお願いします。」

 来たとき以上の竹簡の束を渡され、天化はよろりとよろめく。しかしすぐに持ち直すと、次にどう

すればいいのか天祥に尋ねた。

 「僕はまだ他のところを廻ってくるから、にーさまはたいこーぼーの所に戻っときなよ。」

 「わかったさ。」

 素直に頷き、天化は太公望の待つ太師府へと踵を返した。



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