作者の書いたおよそ百篇もの童話の中でもこの「風の又三郎」はちょっと変わった作品です。
 まるで夢の中のような、おとぎ話の世界のような、あるいは遠い外国のような幻想的な話が圧倒的な作品群中にあって、「風の又三郎」は作者の現実生活で馴染み深い地元の子供たちの土着的な生活実態を実にリアルに描いているという点においてまず異色の存在です。ただ、同様の作品が他にないわけではありません。作者が自ら「村童スケッチ」※1と名付けたジャンルのうちのいくつかの小品もやはり地元の子供たちの生活を現実的に描いています。そこで今度はそれらと比較してみますと、「風の又三郎」は分量(長さ)において他を圧倒的に凌駕するのみならず、それらの作品の一部をも包含してそれらの上位的存在としての位置を占めていることがわかります。つまり「風の又三郎」は村童スケッチの集大成だとも言われることになるのです。

 しかしそれだけでは「風の又三郎」の真価を言い尽くしたことにはなりません。この作品は他の作品群と異なり、単なる幻想的世界ではない、現実世界とその裏にひそむ世界との虚実二相の境界を背景に、人間の生き方についての指針をではなく、人間の生きるこの世界自体のありようそのもの、あるいはありようの捕まえ方について理解するための独特の示唆を与えようとする――という何とも不思議な性格を持っています。ですからその示唆が遂には何を意味するのかまで突き詰めてみて初めてこの作品の特別の価値を見たことになるのではないでしょうか。
 このサイトではその厄介なことをなんとか順にやって行ってみようと思うのです・・・

(本文中の番号の付いた印については、いずれ表示される関係情報があると理解して、あまり気にせずに読み進めることをお奨めします。特に気になるものについては各ページ末尾の参照先をご覧ください。番号のない印については直後に関係情報があります。)

鑑賞の手引き(1)

 「風の又三郎」は一人の転校生をめぐるものがたりです。その転校生と「風」とがなぜ絡み合わされて語られるのでしょうか。
 よそから不意にやってきて、またどこへともなく去ってゆく。そうしてあとには吹き荒れた痕跡――激しい台風ならば爪跡ということになるでしょう――を残して行く。そうした風のありさまとこの転校生の出現から消失までの経緯に強いアナロジーを見出せるとするのは極めて自然なことです。そしてここでは痕跡は少年たちの胸の中に残ったのでした。つまり風は少年たちの心に吹いたのです。
 思春期ともなればもう少し明確に形づくられるかもしれない、しかしまだ小学校高学年である子供たちにははっきりとは内省しきれない心のゆらめき。その微妙なゆらめきを見事に浮かび上がらせたこの作品には、その見事さの裏打ちでもあるさまざまな諸テーマが散りばめられています。

 それでは早速、ものがたりが包するさまざまなテーマについて考えてみましょう。若い読者のために詳しい注も付けてあります。

 さあ、東北の爽やかな空気に満ちた広い空を透かして、はるか上空から緑いっぱいの山々に挟まれた一本の谷川の岸を見下ろして下さい。そしてゆっくりと小さな校庭に降り立ってみましょう。そこがこのものがたりの舞台です。
 (各日の前にある画像をクリックすると原作本文を参照できます。

 

9月

 まず、冒頭の「どっどどどどうど・・・」の歌ですが、これはこのものがたり全体の前奏曲として鳴り響いているのであって、この日の空に吹いている風を直接表現したものではないように思われます。つまり「九月一日」という章題(この日の章題は作者没後の編集作業中に元の原稿用紙に書き加えられたものと考えられています。)の置き場所の技術的問題であって、実際の九月一日の出来事はこの歌の次の行から始まると見てよいでしょう。また「青いくるみもすっぱいかりんも吹きとばせ」と言っているのは、まだ未熟な少年達が何者かに強烈に吹きさらされることになるのを暗示しているようです。※2
 (「青」という色については後述の美しい自然で触れます。)
 ものがたりが九月一日から始まっていることにはもちろん意味があります。長い夏休みから再び勉強の季節へと心身を一気に切り替えなければならない節目の日。しかしどっぷりと遊びに浸かっていた気分はどうしてもうわついたまま落ち着きません。嘉助ならずともひょっと魔が差しやすい日なのです。
 さて、改めてまずこの朝、「青ぞらで風がどうと鳴」っていることに早速注意しない訳にはいきません。少年は風とともにやって来たのです。
 一年生の子が泣いてしまったことは、外の世界を知らない幼い子供達にとっては赤い髪の異形の少年はまさしく恐怖の対象であったことを意味します。ズボンや靴、まん丸な目は都会的なものを思わせますが、子供達にとってそれは赤い髪とあいまって外国的なもの、異界的なものと紙一重なものでした。(なんと黒船のペリーそっくりでしょう。)当然、窓の外の子供達はみんな着物(和服)、わらぞうり姿です。
 また、少年と子供たちの間で言葉が通じていなさそうなのも重要な問題点です。このあと両者の間にはどのようなコミュニケーションが成立していくでしょうか。
 ここでもう一つ知られることは、6年生を頂点として、分別ある上級生といたいけな低学年とのまとまった家族のような子供社会がきちっと存在していることです。現在の日本社会にはすでにほとんど存在しない種類の有機的集団と言わなければなりません。※3
 原作本文原文についてをごらん下さい。「みんな」が172回というおびただしい頻度で現われています。その全てが子供たちの集合を意味しているわけではありませんが、ものがたりが「三郎個人」対「まとまりとしての子供たちの集合」という構造を持っていることを強く示唆しています。
 まだ幼さを残すゆえに感受性の鋭い嘉助がまず「又三郎」を発見します。風がどうと吹いて来てその瞬間、少年がにやっとして動いたようなとき嘉助が風の又三郎だと叫んだのはこじつけではありません。社会的変化に乏しい山村にとって、自然の移り変わりこそが変化と刺激のほとんど全てであり、その絶対的な力は一種の人格的な迫力を持って子供達を普段から絡め取っていたでしょう。東北地方には広く「風の三郎様」の民俗的言い伝えがありましたし※4、二百十日という概念も今よりはずっと現実的な意味を強く持っていたはずです※5。こんなところに嘉助の発見の生まれる基盤があったのです。
 なお、作者は他の作品の中で“風の又三郎”という存在をはっきりと死神のような恐ろしい者として描いています※6。ここの嘉助の叫びも当然、決して「せっかく友達になった子うま、せっかく捕った山雀」のような愛すべきマスコット発見というニュアンスだけではないことをよく理解するべきです。そうしないとこの後なぜみんながそんなに彼にこだわりつつ距離を置くのかが本当には分からないことになります。
 少年の姿が消えた後、また風が吹きます。風を操り、風とともに去っていった存在を強く印象付ける駄目押しでした。
 整列の場面では一旦消えた少年が明るい陽光の中にさっきとはまるで違った様子で不意に現れました。この、前の場面からの不連続こそ、子供達がこの後三郎の正体について迷い続けるものがたりのための不可欠の設定だったのです。さっきの教室から少年がそのまま出て来たのではものがたりは進みようがありませんでした。
 そのあと教室で三郎の名を確認した嘉助は小躍りし、小さいほうの子らは恐がりました。双方とも軽く憑依されているのではないでしょうか。子供たちの集団の気分がまた一歩不思議な領域へと引きずられて行く瞬間だったでしょう。
 なお、この三郎が不意の転校生であるのみならず、普通の常民(定住民)ではない鉱山師の子弟であったこと、したがって村人から離れて居住し、この村に定着せずにいずれまた再転校していってしまうはずの存在であったことは教室のみんなにとっても、この作品自体にとっても重要なことでした。
 さて、先生の存在ですが、その言葉遣いにも象徴されるように彼(若い読者には意外かもしれませんが男性です)は子供達の絶対的指導者でありながら子供達の社会とはかけ離れた存在です。このあとも彼は最後まで子供達と三郎の交流には介入することはありません。
 蛇足ながら、人名のうち「キッコ」は女子名ではなく「キ」で始る男子名の愛称。「さの」は苗字ではなく、女子名です。

 くるみ=クルミの実は硬い殻の外側に果肉がある。未熟のものは緑色。 かりん=バラ科の木の黄色い果実。砂糖漬けなどにする※7。 雪袴=たっつけ袴。膝の下で絞ってある。大相撲の呼び出しの袴に似た労働着。ここでは単なるモンペ(丈の短い着物の上に穿くズボンのようなもの)の意と思われる。 ちょうはあかぐり=「蝶は赤栗」ではなく、岩波文庫「童話集風の又三郎」の解説(谷川徹三氏)によると極めてローカルな囃し言葉に由来するらしい。「長八」という人名に関係し、読みは意味上「チョーハーカグリ」と推定される。 うなかもたのが=お前かまったのか。方言についてはこのページの下の方参照。 腰掛=椅子。 半靴=短靴。長靴ではない普通の靴。 =ススキなどの背の高い穂のある草。 風の又三郎=東北地方では広く風の神を三郎と言う風習があった。 山雀(ヤマガラ)=スズメぐらいの大きさの野鳥。捕まえて教えると芸をよく覚える。 二百十日=立春から数えて210日目に当たる日で毎年9月1日頃。この日は強い風が吹きやすいと言い伝えられている。 =和服ではない洋服。 呼子=笛。 権現さまの尾っぱ持ち=偉いお坊さんの従者。 シャッポ=帽子。 =身長。 前へおい=前へ進め。 通信簿=通知表。 木ペン=鉛筆。 がない=だめだ。 雑記帳=自由帳。 風呂敷=物を包むための布。 麻服=麻の繊維でできた粗い手触りの夏向きの洋服。 教壇=黒板の前に敷いてある少し高い木の壇。先生の立つ所。 昇降口=出入り口。 モリブデン=金属(元素記号Mo)。光沢のある鉛色の輝水鉛鉱(モリブデナイト)MoS2 として産する。作者自身ものがたりの舞台付近で見つけたこともあるらしい※8。 すけろ=手伝え。 やんたじゃ=やだよ。

 

9月

 この日ははっきりとした「転校生に対する怖れ」の章です。三郎の最初のひとことが早くもみんなを圧倒しています。
 この日の注目すべき出来事は鉛筆騒動です。三郎はみんなの注視の中で思い切って一つの選択をしました。それはみんなにどう受け取られるでしょうか。
 何はともあれ、三郎は徐々に融け込んでいきます。みんなと同じ唱歌も歌えるではありませんか。
 しかし、かすかな敵愾心をもって眺める孝一(一郎のこと※9)は、下級生に鉛筆をやったり消し炭で筆算したりする三郎に対し複雑な思いを懐きます。分別ある孝一にとっては三郎は風の又三郎とは思えないけれど、自分の理解を超えた存在であるのがなんだか恐ろしいような気がするのです。嘉助の発見がなければそうは感じなかったかもしれませんから、これは嘉助からの伝染と言ってよいでしょう。そしてこれはこのあとの騒動の予感でもありました。

 何間=「間(けん)」は長さの単位。約1.8m。 算術帳=算数帳。 わかんないな=だめだよ。 支那人=中国人。 勘定=計算。 (トク)=国語の本。 唱歌=音楽。 マンドリン=弦楽器の一種。 消し炭=火のついた薪の火を消したもの。もう一度炭として使える。 運算=筆算。

 

9月4日

 でもそこは子供のこと、彼らは急速に接近します。しかし今日もみんなと三郎の会話はしばしば行き違います。三郎は虚勢を張っているのでしょう。はるか西の方には大きな川とともにまだみんなの知らない広い世界、ほんとうの野原が見えています。
 嘉助が丸太を外したのは魔が差したのでしょう。しかし、三郎がさせたのだと言ってもよいのはお分かりと思います。嘉助はこのとき自らの運命の(心の)安全装置をも外したのです。
 みんなは三郎が馬を怖がると言ってしつこく三郎をからかいます。三郎を挑発するとどうなるのでしょうか。
 そしてこのあと危機がやって来ます。誰でも子供の頃に一度は経験した気がする極限の状況。――が、この場合は本当の命の危機でした。
 日常からほんのちょっとはみ出した上の野原という不案内の舞台で、馬が逃げ出したという切迫した状況と天候の急変――濃い霧と「風」――という非日常的装置が、彷徨と幻聴と昏倒と、そしてその果てのガラスのマントの夢(?)をもたらし、嘉助は三郎が風の又三郎であるという確信を持ちました。――しかしそれも後日興奮から醒めるに随って揺らいでいったように見えます。
 この日嘉助は、一歩間違えれば底知れずの奈落が口を開ける未知の荒野を何かを求めて必死にさ迷い歩くという、人生の一断面の象徴の凝縮された予告編をいち早く荒っぽく体験させられたのです。いつの日か彼には特別の感慨をもってこの日の体験を思い起こすときがやって来るのでしょう。
 さて、この嘉助が眠っていた時三郎は本当は何をしていたのでしょうか。色を無くした三郎の唇は何であったのか、やり過ぎに対してしっぺ返しを食らわせたこの知らない世界への畏怖の念であったのか、それとも・・・。
 この日の後もみんなは三郎と行動を共にすると平穏では済まず、遊びが遊びではなくなってしまいます。三郎は騒がせ屋なのです。

 吹がせだらべも=吹かせているんだろうよ。 あいづ=あいつ。 春日明神さんの帯=角川文庫「イーハトーボ農学校の春」所収の「種山ケ原」の注(大塚常樹氏)によると春日大社の神体である山の麓を流れる川の古歌(万葉集など)的比喩。三郎は知ったかぶりをして言っている。 わらじ=藁で編んだ履き物。ぞうりに足に結ぶためのひもが付いた形をしている。 =どんぐりのなる木の一種。 けろづのだな=くれと言うのだな。 =乗馬するときに馬の背につけて尻に敷く道具。 牧夫=馬の世話をする人。 どう=馬や牛を止めるときの掛け声。 くつわ=馬の口にはめる道具。 おとこえし=丈1mぐらいのオミナエシ科の多年草。小さな白い花をたくさんつける※10。 (あざみ)=キク科の草。赤や紫の花をつける※11。 白墨=チョーク。 五寸=約15cm。 三尺=約90cm。 (ワラス)=子供。息子または娘。 山男=山に住む得体の知れない(恐ろしい)男。鬼と人間の中間のような存在。 あべさ=歩めよ。行こう。 むぞやな=かわいそうに。 わろ=こども。 金山(カナヤマ)堀り=鉱山師。 後光=仏様の後ろに光る神々しい光。

 

9月

(この日は本当は何日であったのかは、この部分のオリジナル原稿が失われていて不明です。5日ということも考えられます。事実ほとんどの本では4日の次だから5日だろうということでしょうか、5日としていますが、ものがたりの流れから考えてどうも疑問があります。4日の衝撃が薄れるためには間に一日あったほうが良いように思われるのです。)
 この日の三郎の行動――タバコの葉をむしる、栗の青いイガを落とす、木の雫を落とす―― これらはみんな「風」のしわざ以外の何物でもありません。三郎は最初は半ば無意識に、最後ははっきりと自分からこれらの行動を起こしています。対して耕助の三郎に対する言動はこの日の冒頭から、横暴な風に対する人間の怨嗟の声を代弁しています。
 この日の三郎に対する挑発は大事には至りませんでした。三郎は耕助の挑戦に応え、自分が「風」であることを引き受けた形で数々の悪口を受け止め、それに対して風はいいこともするのだと言います。そして最後には迷惑をかけたことを詫びるのです。ここには作者自身の、この地方を訪れる擬人格としての「風」に対する評価や思いのようなものが現われているようです。
 なお、論争の最後に出てくる「風車」の部分は少し解りにくいので説明しておきましょう。「風車」という言葉及び概念は全面的に風というものの存在に負っています。風のおかげがなければ風車など意味を持ちません。ところが耕助は風がこの世の中に不必要だということを言う論拠の中にこの言葉を使ってしまいました。この論理的矛盾に鋭く反応して笑い出した三郎は五年生としてはずいぶん頭のいい少年だと言わねばなりません。
 三郎はこのヤマブドウ採りに本当には参加できませんでした。まだ白い栗を取るだけでみんなからはみ出した存在です。最後にはそれらを交換し、接点は繋ぎましたが・・・。
 ところで、(後から書き直したと言われる2日の分を別にして)この日から地の文は三郎を「又三郎」と呼び始めます※12。語り手は三郎は本当に「又三郎」だよ、と囁きかけているのでしょうか。天沢退二郎氏は作者(語り手)がものがたりの進展に随って子供達の思いの側に身を寄せて行ったのだと言っています(「謎解き・風の又三郎」 丸善ライブラリー)。

 下ったら=学校が終ったら。下校したら。 葡萄蔓=ヤマブドウ。 わがなじゃ=だめだよ。 専売局=国の機関。後の専売公社、JT。 まゆんだであ=つぐなうんだぞ。弁償しろよ。 あべ=歩め。歩け。 水へ入ったように=川に落ちたように。 失敬=失礼。 ばりさな=ばかりするよ。 =手で持ってさす種類のもの。こうもり、番傘、蛇の目。 転覆(オッケア)したり=引っくり返したり。 あかし=灯り。 シャップ=シャッポ。帽子。 =頭に直接かぶる種類のもの。主に農作業用。菅笠など。 ラムプ=ランプ。油をともし、風除けにガラスの筒をかぶせて上に笠が付いている。

 

9月

 三郎がみんなの泳ぎを笑ったということは、まだ三郎がよそ者であることを双方が再確認したことになります。また、発破漁をめぐる大人達と子供達のふるまいは両者の世界が異質なものであることを物語っていますが、そんな中で三郎の世界はずいぶん大人たちの世界に接触しているとは感じないでしょうか。
 さて、みんなが三郎の行動を笑うというところが二ヶ所出てきます。石取りで三郎も失敗して浮かんで来たときと、発破漁のあと三郎が魚を大人に返しに行ったとき。前者の笑いには一種安堵の開放的な気分が感じられますが、後者は自分達と違う世界へ軽率に行き来する者に対してのかすかな違和感を押し隠しながら発せられているように、私には思われます。
 そのあとみんなは変な男から三郎を守ろうとします。一旦は全員一体となって囃し立てていたものの、危機が去ってしまうと再びみんなは三郎になんとなく距離を感じるのです。先駆作「さいかち淵」※13では「がらんとした気持ち」は興奮して少しやり過ぎたことの反動でしたが、ここではそれ以外に三郎に対する違和感も入り混じっていると考えられます。

 さいかち=マメ科の木。枝や幹にトゲがある。大きな豆のさやが生る。 ねむの木=マメ科。夜、細かい葉を閉じる。六・七月、紅色の花が美しい。 =川のよどんで深くなっているところ。 肌脱ぎ=和服を着たまま上半身だけ脱いだ状態。 発破=火薬による爆破工事。 =浅瀬。 砥石=刃物を研ぐための石※14。 せきれい=ツバメぐらいの大きさの鳥。川原の石にとまって長い尾を上下に動かす習性がある。 坑夫=鉱山労働者。 きせる=細かく刻んだ煙草を吸うための、竹の筒と金属でできた細長い喫煙具。 奇体(きたい)=おかしい、変。 腹かけ=腹から胸まで覆い、背中でひもを結ぶ衣類。職人が半纏の下に着る。物入れが付いている。 かじか=清流に棲む、ハゼに似た魚。食用になる。 =鯉を小さくしたような魚。食用にもなる。 活動写真=映画。 網シャツ=網の目のように粗く織った生地のシャツ。 はだか馬=鞍を付けていない馬。 雑魚(ザコ)=特に高価ではない小さな雑多な魚類。 脚絆(キャハン)=歩きやすくするために細長い布を膝からくるぶしまで巻き付けたもの。 粘土=極めて細かい粒でできた土。粘りがある。 手拭(テヌグイ)=日本手拭。木綿の生地でできた薄いタオルのようなもの。タオルと違い、ケバが一切ない。

 

9月

 これまで三郎君はとても変でした。怪しい表情を見せたりおかしな言動や奇ッ怪な飛翔でみんなを驚かせ、迷わせてきました。ところが今日は今度はみんなのほうが変になって三郎のほうが驚くのです。
 さて、鬼っこの場面では三郎は我知らず夢中になります。みんなもその混乱の中で本気で走ったり泳いだりしたでしょう。そんな中で嘉助は三郎を挑発してしまい、4日の再来のように今度は文字通り三郎に振り回されました。やはり挑発はまずかったのです。
 その時、天候の急変の下ではっきりとみんなと三郎は流れを挟んで対峙しました。この場面での激しい風と雨、雷は両者の決定的対決を意味せずにはおきません。
 不思議な叫び声の場面は常識的に考えれば、みんなが愛憎半ばする種類の逆襲に出、三郎は自分の立場と役割に気付きかけた、というところでしょうか。先駆作「さいかち淵」※15ではこの場面の意味には不法な毒もみを行った"しゅっこ"に対する懲らしめの側面があったと思われますが、ここでは当然それは直接関係はありません。
 しかし最初に叫んだのは本当は何者なのでしょうか。みんながすぐ声をそろえたといいますから、それはみんなの側の者であると思えます。ところがみんなは叫んでいないと白を切るのです。三郎ががたがた震えたのですから、三郎側の者であるはずもなさそうです・・・。
 子供たちと三郎とがそれと知らずに共同で進めてきた壮大な規模の「コックリさん」。そしてそれがついにつづり出した運命の文言の弾けるような暴露・・・。そのような瞬間だったのだというふうにも言えるでしょうか。※16
 いずれにせよ、あの時両者の次元の壁が揺らいだそのある種の隙に一気に雪崩れ込んだものがあったのではないかと思います。もし、何者かが、みんなと三郎の交わりにおいての「又三郎」の位置の不明瞭さに業を煮やして、この機会に逆説としての決定的な対立という触媒を放り込んだのだとすれば、このあとどんな化学変化が促進されるのか続く記述に期待しなければならないところですが、ここでものがたりはサッと最終日に跳ぶのです。

 毒もみ=毒による漁※17。 山椒=ミカン科の低木。葉と実は食用、香辛料となる。 巡査=警察官。 町の祭のときの瓦斯のような匂=アセチレン灯が出すガスの匂い。ここでは灯火漁に使われたカンテラ(携帯用アセチレンランプ)から捨てられた燃料、カーバイドが水と反応してアセチレンとともに発生したホスフィン(リン化水素類)によるものか※18。あるいは川原に自然発生した微量のリン化水素によるものか。 鬼っこ=鬼ごっこ。 はさみ無しのひとりまけかち=一人負けた者が勝者という意味ではなさそうだ。もしそうなら誰もパーを出さない。一人だけの勝ち又は負けで一人を決定する方法と思われる。この方法では一人だけパーを出すと、勝ちながら鬼となる(他の者が負けながら勝ちとなる)ことになる。 山つなみ=山崩れ。

 

9月12

 もともと作者は三郎に3日頃に風の歌を歌わせるつもりだったらしいのですが、結局遺された原稿ではその場面は実現していません。ここでは、記述はされていないが一郎は三郎の歌を聞かされていたと理解します。
 8日の騒ぎのあと一両日中に少年達と三郎の間には、少なくとも心のうちでは何らかの和解と融合の儀式がとり行われていたのだろうと私は推測します。表面上はどうだったか分かりませんが、彼らの精神的距離は縮まっていたのだろうと思います。
 しかし季節の移ろいとともに去り行くものは去り行かなければなりません。大自然の摂理とのアナロジーは全うされるのです。
 胸騒ぎで起きた一郎は庭に落ちた青い栗のイガを見て6日を思い出し、嵐の中に三郎の気配を感じたに違いありません。二百十日(9月1日)で来て二百二十日(9月11日)であわただしく彼方へ去って行く三郎は、台風が野山を吹き荒れるごとく一郎のそしてみんなの胸を掻き乱してやみません。(最終日が11日ではなく12日に設定されたのは曜日の関係があると思われます。※19
 なぜ彼らはそんなにも三郎に惹かれたのでしょうか。三郎がただの目立たない転校生であったなら当然このものがたりは生まれなかったでしょうが、子供たちの日常のあらゆるシーンも、上の野原やさいかち淵のような馴染みの場所も、三郎という鏡に写ることによって全く新しい相貌を見せました。自分達の世界に思わぬ新しい自画像をもたらした外来存在に対する十日間のアンビバレントな心の揺れ動きが彼らのこの時期の成長の大きなステップとなり得たからこそ・・・、というのは結果論に過ぎるでしょうか。
 先生は「又三郎は」という嘉助の問いにもちょっと考えて「又三郎って高田さんですか。」と答えます。嘉助達の重大問題はやはり大人の世界とは他次元のものでした。先生の説明を聞いた後でも嘉助は納得できません。しかし嘉助と一郎はとまどっています。
 こうして、三郎と嘉助と一郎と子供達と、そして又三郎との、ついには判然と炙り出されることを得なかった世界の在りようの許されただけのすべてを読者の前に提示し尽くして、ものがたりは終わります。

 提灯(チョウチン)=提灯、−つまり竹ひご(竹を縦に細かく割って作ったごく細長い棒)に紙張りの、中に蝋燭をともして使う灯り道具。しまうときはアコーデオン式に縮められる。−をしまっておく箱。 土間(ドマ)=家の中の、床の張ってない地面むき出しの部屋。作業などに使う。 馬屋=家の中にある馬の家。床に藁を敷き、入り口には横棒を差し渡す。 (クグ)=潜り戸。大きな戸を閉めたままその一部をさらに開け閉めできる戸にしたもの。身をかがめて通るぐらいの高さ。 タスカロラ海床=タスカロラ海淵。Tuscarora deep。はるか北東方、千島・カムチャツカ海溝の深部の一つ。N44°17′6″、E150°31′1″。-8514m。名称は発見した船の名による。※20。なおここでは当時の慣用に従って千島・カムチャツカ海溝自体のことととる。タスカロラ海溝とも言われる※21。従って「北のはじ」はベーリング海付近。 =イネ科の作物。今はもっぱら粟おこし、小鳥の餌として見る。 (カナ)だらい=金属製の洗面器様の大きなもの。洗濯などに使う。 お汁(ツケ)=味噌汁。 かまど=釜や鍋を乗せて下から薪をくべて煮炊きをする土製の装置。 鳥こ=鳥、小鳥。 油合羽=防水用に油を塗った紙などで作ったマント、レインコート。 =藁、萱の葉などで作った背中から腰までをすっぽり覆う雨具。 =床。床板。 しゅろ箒=シュロの木の幹を覆う糸状の皮を揃えて掃く部分の材料にした箒。 単衣(ヒトエ)=夏用の薄手の和服。 電報=電話のないところへ急ぎの知らせを届ける手段。近くの電報局から電信機で相手の最寄りの電報局へ送信し、そこから文書で配達される。


 上記以外の隠れた論点、作中に存在する名前・学年その他の矛盾の問題については後述の「風の又三郎」の謎で述べます。


 分かりにくいせりふの方言などの訳


 若い読者のみなさん、

 勘違いしていませんか?


 さあ、皆さんはもう一度、今度は強い雨風に吹きさらされる校舎と校庭を上空から見下ろして下さい。もう一段高く昇るとほら、かすかに揺れ動く北上の緑濃い山々がはるかはるかに続いています・・・。


参照ページ

※1 作品の成り立ち先駆作品
※2 風野又三郎から風の又三郎へ風の歌
※3 登場人物人間関係
※4 鑑賞の手引き(2)“風の又三郎”とは
※5 ものがたりの舞台(2)
岩手の風
※6 参考作品抜粋「ひかりの素足」抜粋
※7 風野又三郎から風の又三郎へ風の歌
※8 ものがたりの舞台(1)周辺の村々
※9 風の又三郎の謎
風の又三郎の謎9月2日
※10 美しい自然
九月四日二枚目挿絵
※11 美しい自然九月四日二枚目挿絵
※12 原作本文原文について
※13 作品の成り立ち先駆作品
※14 作品の成り立ち、参考作品紹介「鳥をとるやなぎ」抜粋
※15 作品の成り立ち先駆作品
※16 風の又三郎の謎コックリさん
※17 作品の成り立ち、参考作品紹介
「毒もみの好きな署長さん」抜粋
※18 作品の成り立ち創作メモ
※19 風野又三郎から風の又三郎へ日付の問題
※20
台風模式図
※21 ものがたりの舞台(2)岩手の風・9月5日夕刊


次は 鑑賞の手引き(2)

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