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  「 坂の上の雲」  の道を辿る旅
  
 

出発を前にして

 かねて、瀋陽から大連まで日露戦役の跡を自転車で辿ってみたいと思っていた。

 この間距離は約400キロ。遼河沿いの平坦路である。

そこで13年来の騎友である撫順市の徐忠利さん(78才)に同行をお願いした。

 彼とは2004年に瀋陽〜北京を一緒に走って以来、主なものだけでも、寧波〜西安、漠河〜葫蘆島、北京〜撫順など、その他に撫順近郊。清原、集安、新賓、鞍山など含めるとどう少なくみても合計七千から八千キロは一緒に走っている。徐さんは三年前直腸癌を患い手術し、それが少し心配だったのだが、「完治した。大丈夫だ」とガイドを引き受けてくれた。

 彼は元々ビール瓶の栓を歯で開けるくらい元気で、私は「妖怪」と敬称を差し上げているのだが、元気でなにより。この「妖怪」さん、書も画も一流で何かと私とは気が合う。

 寧波〜西安は2008年5月1日から6月5日まで、46日かかった。その間ず~っと一緒である。走っているときは勿論、寝るときも食べるときも24時間一緒。そんな付き合いを延べで100日以上している。

 その彼が出発間際になって、急に計画変更を言ってきた。「自転車で二人では無理だ。見張りの為にも最低三人は要る。連れを探す。日を改めることはできないか。二人で行くならバスにしよう」。

 もっともな申し出だが、学校の休みの都合もあるし、「バスなら一人で行けるよ」と、同行を断った。実は私は10年前一人で、沖縄から北海道も走っているし、今でも東京くらいなら一人で行く。中国も2011年に長春の北、徳恵という所から撫順まで、350キロ四日の自転車の一人旅も経験している。

 彼には、「バスで行って、途中はタクシーで回るから」と、安心させたが、そのとき一人で行こうと腹をくくった。

 小学生用のリュックを買う。一番大きな荷物は、ノートパソコン。それも最近買ったばかりの 「sur face」 は最新式で板のように薄い。大きさも35センチ×25センチ。髭剃りも持たない。救急薬若干。着替えは一枚だけ。それを荷台の後ろにくくりつける。

携行する地図は遼寧省全図A5版40ページ。

 
   1911年5月 (東北三省自転車巡礼)漠河にて

 右から私、徐さん、範さん、張さん
 
 
 

2017年6月24日 土 曇り 瀋陽〜遼陽 

 今日の目的地は、第一日の足慣らしの意味もあり、灯塔にした。瀋陽の隣町だ。

 軽い気持ちで、8時20分に出発した。とにかく南だと、渾河にかかる三好橋を渡る。

 祖母がいつも言っていた。「口さえあれば江戸まで行ける」と。なんでも人に尋ねなさいと言う意味だ。徐さんも、中国何処へ行くにも地図を用意しない。

 「活地図」を利用する。つまり人に聞きながら走るのだ。第一自転車で利用出来る地図はない。道路工事中の情報なんか土地の人間でないと分からない。道を尋ねたとき、中国人の教え方はかなり合理的である。その方角をあごでしゃくるだけ。土地勘のない人に細々説明してもなお分からない。方角だけで十分。おかしいと思ったら別の人に聞いて、すり合わせる。

分からなくなったら又聞く。そうして何度でも聞く。これはお互い様で、中国では私でも道を聞かれる。

 これは日本でも同じ。特に市街地から郊外へ抜けるのが難しい。地図に陸橋は載っているが、その陸橋を自転車が通れるのか、横断はどうするのか。現地でないと分からない。

 ただ上手な聞き方が必要で、瀋陽で大連までの道を尋ねても教えてくれる人はいない。まず直近の蘇家屯までを聞く。

 そんなことを繰り返しているうちに、道を聞く人も居ない郊外へ出た。中国の郊外の道は、路側帯が広く4メートルはあり、走るだけなら申し分無いのだが、自動販売機とかコンビニとかが無い。道端のテント店で甜瓜を売っているが、腹を壊すのが怖いか買わない。

 出るとき一本だけ持ったペットボトルも心細くなったとき、道端に釣り堀があった。付属施設の食堂もある。食事を済ませ出発しようとしたときだった。空気が少し抜けている。持参の空気入れで後輪はすぐ入ったが、前輪がなかなか入らない。食堂に戻って近くに自転車修理が出来る所が無いか尋ねたが無い。

 「道具があったら、直してあげますよ」というが、持っていない。従業員の一人が友人に電話をしてくれて、車で出張修理に来てくれることになった。一人の女性従業員が、空気が完全に抜けていないのを見て不思議そうに言う。

 「その空気入れを私に貸してくれますか?」

 なんと彼女がやったら入ったのだ。私としてはきまり悪いことこの上ない。友人に無駄足を踏ませたら悪いからと、少しお礼を差し出すのだが、「困ったときはお互い様です」と取ってくれない。「それでは気持ちだけ」とやっと10元受け取ってくれた。

 目的地灯塔市に着いたのが三時。ところが沿線に宿らしい宿が無い。次の遼陽までは、36キロある。天気も崩れかけている。丁度三輪タクシーが居たので、遼陽まで行ってくれるか聞いたら80元という。自転車は屋根にゴム紐で括り付けて出発した。

 しばらく行くと「沈旦」という道路標識が見えた。日本では奉天大会戦というが、ロシアで「沈旦会戦」と言うそうだ。中國の歴史書では沙河戦役。明日遼陽からタクシーを借り上げ行くつもりだったが、これで行けたら行きたい。運転手に聞いたら、「方角も違うし時間は掛かるが行けます」と言う。行けるなら是非行きたい。

 「私は日本人です。ここは日露戦争所縁の地で是非行きたい。又とない機会だ。料金は君が言うだけ払う」と言うのだが、この人の好さそうな運転手さんなかなか自分の口から言わない。「150元でどうだ、先の80元と合わせて230元」と、こちらから切り出したら、二つ返事でOKだった。

 実はここは15年前に一度来たことがある。何もないのは知っていたが、やはり行きたい。秋山好古大将の活躍した場所ここは、今回の目的地の一つだ。灯塔から片道31キロ。50キロくらいに感じる田舎道は何もない。稲田、電柱、送電線、防風林、僅かばかりの民家。目に入るこれらは皆120年前は無かったはずだ。河原しかないこんな場所でなぜ日露が命がけで雌雄を決する戦いをしたのか。

 それは、ロシアが東満州の権益を守る為にはここを避けては通れない交通の要衝だったのだろう。

 沈旦の町で幾人かの中国人に、日露戦争に関することを尋ねてみるが誰も知らない。

 ここから遼陽へ抜ける道筋に佟二堡があるが、ここは今全国でも有数の毛皮の集散地になっている。

 佟二堡から遼陽は何ほども無いはずだが、運転手さん何を思ったのか、とんでもない河原道を走り出した。ぼろ車でこんな道を走ったら尾骶骨の訓練だ。やっと着いた先で運転手さん民家風の家で交渉している。「ダメだ」と首を横に振る。確かに私は乗るとき遼陽で泊まると言った。彼は自分の知っている安い所を世話してくれようとしたのだ。

 日本人のパスポートで泊まれる所は限られることを説明して、遼陽駅前にやって貰った。「金府商貿酒店」。ダブルで128元。料金は二流設備は一流。 自転車も預かってくれる。

 
   
 空気入れを手伝った暮れくれた、釣り堀の娘さん
 
 
 
 
 
 
   
  奉天大会戦跡と言われる 沈旦堡郊外 
 見事に何も無い 
  沈旦堡と並ぶ激戦地佟二堡 今は全国有数の毛皮の集散地になっている。
 道端の看板は全て、その手の会社の看板。
 
 

2017年6月25日 火 曇り 遼陽から立山

 丁度よい疲れが、心地よい眠りを作ってくれる。

 7時半朝食を済ませて、宿から500メートル程の遼陽白塔に行ってみた。

 高さ71メートルのこの立派な塔は800年以上の歴史を持つ遼陽の象徴だ。

 市民公園になっていて、太極拳の愛好家も演技していた。

 遼陽博物館の10時の開館に合わせて、タクシーに乗った。少し早かったので、前のベンチに座って開館を待っていたら、男のお孫さんの手を引いた60才くらいの男性が横に座った。

 「私は日本人ですが、日露戦争について何か聞いたことがありますか?」

 「歴史の本で読んだ程度です」

 そのとき、男の子が口を挟んだ。

 「お爺ちゃん日本人?僕知っているよ」と抗日映画で見た八路軍と戦う日本兵の話を得意そうに話し始めた。

 中国共産党の基盤を支えている「抗日」は、こうして三つ子の魂にも刷り込まれている。しかしそれが、即「反日」にならないのは、抗日が既に歴史になっているからだ。

 1905年の日露戦争は、1935年生まれの私にとって、生まれる30年前の神代の話だ。2011年生まれのこの坊やにとって、1931年9月18日の満州事変(中国で言う9.18)は、生まれる丁度80年前のことだ。私の生前30年が神代の世界なら、6才のこの子にとって生まれる80年前は何なのだろう。仮にその人の一生を物差しにして相対比較をするなら、80年はこの子の生涯6年の13倍強。私の生涯82年の13倍強は1000年以上になるではないか。

 日本のアニメで育った坊やは屈託がない。

 「僕が案内してあげる」と先にたって小走りに走るように私の手を引く。

 「よく知っているね」と褒めてあげると、全館ガイドをしてくれた。

 何年か後、この子が知っている日本人の中に私が入っていることを願う。

 10時半鞍山へ向かう。鞍山は遼陽の隣だ。鞍山まで31キロの道路標識に間違いはなかった。しかし31キロは境界線までだ。鞍山の広さをうっかりしていた。

 途中「首山」があった。ここは軍神橘中佐が戦死したところだ。又の名饅頭山とも呼ばれる小高い山がそのようだ。ここには今のロシア軍の陣地の跡が残っているそうだ。残しているのではない。風化したまま残っているのだ。橘中佐の碑もあったそうだが、それは勿論ない。

 立山で、もう着いたかなと、鞍山駅まで遠いかと聞いたら「まだ遠いぞ」と言う。感覚的に聞いたから、私の様相から判断してこう答えたので、彼が嘘を言ったわけではない。実は数キロしかった。 

 遠いなら泊まるかと瀋陽にもあるチェーンのホテルがあったので泊まろうとしたら、パスポートは駄目だと言う。どこかないか尋ねたら向かいのいかにも高級な横文字ホテルを教えられた。

自転車を止めて、フロントへ行こうとしたらボーイに不審尋問された。値段はシングルで640元。値はともかくやけに格式高いのが気に入らない。大体身なりで客を判断するのは、「接客業のいろは」がなっていない。

 まだ時間は早い。遠くても行くかと進んだのだが、思わぬ幸運があった。

 少し行ったら、公衆便所の標識があったので、標識に従い一つ裏通りに入ったら、「時代商務賓館」という看板があった。駄目元で、パスポートで泊まれるか聞いたら、なんと泊まれるという。一泊120元。ダブルベッドの部屋の天井には何故か鏡が張っている。インスタントラーメンなどと一緒にコンドームが並べられているが、私には関係ない。

 以前中国は、結婚証明書無しでは男女が同宿できなかったが、今は問題ない。

 ここは、どうも連れ込みホテルなのだ。

 インターネットも繋がる。何より従業員のサービスが良い。

 どうも思うに、パスポートで泊まれる泊まれないは、宿の格式は直接関係なく、高級ホテルとの相対的な位置関係ではないだろうか。近くに高級ホテルがあると、駄目なのだ。

 北京も瀋陽も撫順もそのような気がする。中國はこういう点透明度が低い。パスポートで泊まれない旅館の、基準が分からない。

 

 

 
   遼陽博物館で、ガイドをしてくれた抗日坊や。とても6才には見えない。  
 
    通称(饅頭山)と呼ばれたと思われる丘。

 遼鞍路の遼陽郊外。鞍山境界線が近いところからの遠望。

 広義の首山は鞍山市の鎮(一番小さい行政単位)
 
 
 

2017年6月26日 月 晴れ 鞍山から高速バスで瀋陽へ戻る

 作戦変更。

 今日もよく眠れた。朝食は近くの朝市の屋台で豆腐汁、包子2個、お粥一杯、ゆで卵一個。5元1毛。日本円100円見当。感動的に安くて美味い。

 鞍山駅は思ったより近かった。ところがここも宿が無い。近くの高級ホテルが改装工事で休店。周辺の宿はそのホテルの影響か、かなりのホテルでも軒並みパスポートで泊めてくれない。

 丁度公安の車が止まっていたので、お門違いだとは思ったが、日本人がパスポートで泊まれるホテルを聞いてみた。「以前は何処でも泊まれたのに」と、ちょっと嫌味みたいな問いにも、この若い公安はまともに対応してくれた。「向かいの旅行社に聞いてみたら」という。大通りの向こうに旅行社はあった。しかしここは横断禁止の柵がある。地下道があるのだが、荷物を積んだ自転車で階段の上り下りはきつい。そこで鞍山の友人Kさんに電話で窮状を訴えた。彼は囲碁の専門棋士で、日本語もかなりできる。

 彼を待つ暫しの時間、この辺をぶらぶらしたのが、間違いの元だった。重いので自転車の荷台にリュックを積み替えて、ものの50メートルも行かない間に。荷台からリュックが消えていた。丁度公安がいたので、Kさんが届けてくれる。しかしまず100パーセント出て来ないだろう。駅前の盛り場は何処でもかっぱらいの巣だ。

 これまでも、「再起不能か」と思わる災難には何回もあってきた。こんな場合は、じたばたしないのが被害を最小にするコツだ。とにかく自転車旅行は中止して、駅前から出ているバスに自転車を積み一度瀋陽に戻ることにする。

 高速道路を2時間以上かけて走る距離を、よくぞ二日で走って来たと思ううちに、また元気が出てきた。

 「この道は日露戦争のとき兵隊さんが命がけで通った道だ。ノートパソコンの被害は確かに痛いが、家にはまだラップトップがある。いわば軽機関銃は失ったが、重機関銃は残っている。

幸い人的損害はない。よし作戦を組み替えよう。明日から重機関銃を背負って、列車で大欄に行こう。元々宿が無ければ、途中からタクシーで行くつもりだったのだ。それに遼陽周辺の主な所は自転車で回った。大連までの途中はそれほど重要な場所はない。

「銭財身外物、生不帯来、死不帯去、留得青山在不愁没柴焼」

「生まれて来たときは裸でないか。青山未だ在り、何を憂うる」

 ここまで気持ちは軽くなったが、実際に瀋陽に戻って無くしたパソコンのデータ処理や、パソコンに残っているデータのセキュリティー処理は大変だ。

 幸い出発までのデータは、万一を考えてUSBメモリーに保存している。

 23日から25日までのデータは無くなったので。また考えよう。

 

 
 

2017年6月27日 火 晴れ 瀋陽で休養

 無くなったデータは、僅か旅日記の三日分だ。書き換えよう。

 私の人生はネット碁の勝率と同じ、大体勝率5割3分だ。全体的には勝ち組に入っていると思っているのだが、4割7分は負けている。だから常にトラブルは想定内に入っている。第一金ですむことはトラブルと思っていない。 

 自転車旅行も、何がなんでも完走なんて一度も思ったことがない。それでも日本列島全国縦断3300キロを完走した。

 自転車旅行に限って言えば、完走率9割以上だ。

 自転車旅行は、軽い気持ちで出発して、何事もなく帰ってくるのが理想だ。

 それでも交通事故だけは、想定内に入れていない。絶対に有ってはいけないことだから。

 よく「自転車旅行は気楽でいいですね」と言われるが、そんなものではない。

 黙々と路面を見、周囲に耳をすまし、緊張緊張の中を修行僧のような気持ちで走っている。

 さて、今日はホームページの書き換えなどしながら休養。

 久しぶりでインターネット碁も打つ。本日に限れば勝率10割。調子がよい。

 明日は、重機関銃を担いで大連へ行く。

  

 

 
 

2017年6月28日 水 晴れ 列車で瀋陽〜大連

 いつも朝食を食べる食堂の子供が、大連の大学で勉強しているのは知っていた。

 「今から大連に行くのだが、子供に何か用事は無いか?」と言ったら、「夏休みを早めにとって瀋陽に帰っている」と言う。そして「大連に行くのなら子供に案内させようか、ちょと電話するから待っていて」と言う。なんと待つこと程無く、息子の小羅君、リュックを背負って旅支度で現れた。最高のガイドが最高のタイミングで現れた。彼とは一度会っただけだが、ご両親自慢の息子さんは、私達の話題によく出てくるので何となく旧知の間柄だ。大連でコンピュータ関連の学校に行って、日本語も少し勉強している。特技は漫画で、アイドルタイプの美少女と言いたいような二枚目好青年。1998年生まれ。私の下の孫娘が1999年だからほぼ同じ年。。

 新幹線の切符を買うのは、いつも少し緊張するのだが、今日は彼が居るので全然問題ない。大連近くまで行ったときだったろうか、鞍山のKさんから電話が掛かってきた。なんとリュックが出て来たと言うのだ。拾った人が届けてくれたと言う。諦めていただけに何とも言えない嬉しい。

 思えば、私はこれまで中国で泥棒に入られても品物が出てきているし(受難の記)、宿に忘れた貴重品も無くなっていなかったし(還是中国好)、新幹線で忘れたパソコンも出てきた。

 悪運が強いのか、中国人が素晴らしいのか。両方だろう。

 今回自分で「良かったな」と思うのは、公安に「盗まれた」は言っていないことだ。

 その前に公安と雑談して気心がしれていたのも幸運かもしれない。

 最初に言った私の一言は、「やってしまった!カバンを無くした」である。

 「盗んだ人をみましたか?」

 「いいえ」。状況は盗まれたかもしれないが、証拠も無しに盗まれたと軽率なことは言っていない。

 「貴方はカバンを背負っていたでしょう」

 「そうなんです。重いからちょっと荷台に積んでいて、気が付いたら無かった」

 やがて上司が来る。そのときもkさんが、届けたのは紛失届だ。

 「私の不注意でご迷惑をかけます」と私はまず謝ったのは本心だ。たとえ盗まれたにしても、この状況は私にも責任があると本当に思っていた。

 カバンはKさんが預かってくれているそうなので、明後日鞍山に行って、拾ってくれた人や関係者に礼をいうことにする。

 小羅君は名ガイドだ。スマホで畳のある宿を探して連れて行ってくれたが、パスポートでは泊まれな。しょんぼりするが、君が悪いのではない。

 やはりスマホで四星級のホテルを探してくれた。

 父が昔学んだ大連商業も探しあててくれた。現在の三十六中学。これは感動した。

 学校に行って事情を話したら、職員が中も案内してくれた。

 大連の寿司は、日本より美味しいと評判がよい。小羅君の口に合うかどうかは分からないが、経験の為に寿司をご馳走した。正直に言って、日本より美味しいとは言えないが、美味しいのは美味しかった。

 小羅君はソフトが専門だ。スマホからパソコンへす写真の取り込み方など、これまでどうしても分からなかったことなど教えて貰う。

 諦めていた、ノートパソコンが出てきたり、父の母校を尋ねたり、収穫の多い一日だった。

 

 
   
 美少女と言ってもいい美男子 小羅君  旧大連商業 現三十六中学  
 
 

2017年6月29日 木 晴れ 旅順観光

 市内バスで旅順へ行く。これは土地の人のガイドでないと出来ない。5元。最短距離を最低料金で運んでくれる。途中の風景もゆっくり見れる。

 駅前にたむろしていた観光タクシーで予め用意していた目的地を示したら、それ以外を含め定番コースが300元と言う。

 1997年、旅順が一般開放されてすぐ来たとき中国人の旅行バスで回ったのだが、その時はコースになかった203高地も、桜の名所としてコースに入っていた。逆に蛇博物館などしょうもない物は除かれている。万忠墓も通常コースには入っていない。

 203高地で、タクシーの運転手さんが、「ここで乃木希典の子息が戦死した」というから、「それは南山と違う?」と私が言ったら「南山は長男で、こちらは次男だ」と言う。

 ちよっと私がうっかりしたが、彼の言う通りだ。ここは日本人の観光客が多いそうだ。彼は運転だけでない。最高のガイドだ。

 水師営は、革命教育施設になっている。ここには日本語を話すガイドが居る。

 日本兵とおぼしき人間が、中国人を斬首刑にしている写真があった。

 「これ日露戦争の写真?」

 「・・・」

 ガイドが口よどんでいるから、「抗日音戦争の物かな?」私が一人言のよう言ったら、服装から見ても勿論違うから、ガイドは否定も肯定もしない。

 「貴方は南京大虐殺を認めないのか?」と逆質問がきた。

 「今日はこの問題で貴女と議論するつもりはない。中国共産党自体が30万の根拠を示したものを私は知らない」

 「甲午戦争(日清戦争)では、ここの良民が日本人に皆殺しにされて、今居る人間は皆山東省から来た人間です」

 彼女すっかり興奮して、とんでもないことを言いだした。

 この地方に山東省から来た人間が多いのは事実だが、それはここが山東省から近いということ(渤海湾の対岸)。それとロシアと日本の関東州の経営の為、ここに多くの労働力の需要があったからに過ぎない。

 相手にする気にもならなかったから、関東州の古い地図を求めたら、年配のしかるべき地位のありそうな男性が、関東軍作成の地図を出してくれた。

「関東軍は日本の関東地方の軍隊です」というから、「それは違う。この地図を見たら分かるでしょう。山海関の東だからこの辺は関東州と呼ばれたのです。金州には今も清の時代の関東監督府跡がある。大連も旅順もその所轄下だった」

この明快な説明の前には、男性も「勉強になりました」と頭を下げた。

 追い打ちのようになったが、先の女性ガイドに「例の写真の根拠は自分で調べなさい」と言ったら、意外にも素直に「分かりました」と返事した。

 なんぼ革命教育施設でも、いや教育施設だからこそ口から出まかせは困る。

 昼食をすませ、東鶏冠山、旧表忠塔、旅順刑務所、旧関東軍司令部など回ったら3時近くなった。南山と正岡子規の句碑がある金州に行きたかったのだが、時間がない。

 それと、三輪田米山の筆になる「陸軍工兵伍長武智佐太郎之墓」の戦死した小平嶋大白山に行きたかったのだが、私が大臼山と記憶違いをしていたので、分からなかった。実は大連のすぐ近くだ。次に行こう。

夜は、「今日は私にご馳走させて下さい」と小羅君が言うから、「湘菜」(湖南省料理)をご馳走になる。湖南省料理は、四川省料理とならび激辛で有名。

 「怕不辣」(辛くないのが怖い)それほどでもないが、私も辛いのは好きだ。

 残念ながら小羅君酒を嗜まない。本当は白酒を飲みたかったのだが、ビールで我慢する。美味しかった。

 一日孫に手を引いてもらって、ご馳走にまでなって、更にこの後インターネットの碁も勝った。タフな一日が楽しく終わる。

 

 
   水師営 乃木大将とステッセル将軍会見の場所
 
  後記

 私の故郷松山には、日清戦争のときの捕虜99名を収容した長建寺というお寺がある。ここでは当時入手困難だった豚肉も提供して、捕虜を優遇している。文明国日本を内外にアピールする為だった。

 それを知っていた私は、日清戦争で捕虜の虐殺まして一般人の虐殺などあり得ないと思っていた。

 私は当時の各国記者の従軍記を見たいと思った。それは「善戦」と言われる日清戦争の正当性を求める為だ。客観的事実はそこに残っていると思った。

 しかしネットでみる限り、殺戮に関する彼等の報道内容は私の期待を裏切った。

 1 戦闘終息後に「報復」の名目で大量殺戮が行われた 

 2 婦女子を含む民間人が多数殺された

 3 殺戮方法は残虐だった 

 4 捕虜も殺された

 5 現地指揮官上層部の公認の下に行われた

 以上が、報道で事実とされた概要である。

日本政府は、外国記者の記事に手心を加えて貰うよう画策した節もある。

 日本の従軍記者も、程度の差はあれ惨状の事実の報道はしている。

 近くまた水師営に行ってあのガイドに謝りたい。私が旅順虐殺について、認識すら無かったことを。

 
 

017年6月30日 金 晴れ 大連から鞍山

 高速鉄道で、大連から鞍山へ。

 鞍山西駅には、鞍山の旧友回敬辰さん(Kさんのこと、新聞にも公開報道されたので以下本名で書く)が自家用車を運転して迎えに来てくれていた。そのまま千山晩報の本社へ向かう。新聞社の前には、すでに于洋さんが、やはり自家用車で来ていた。カバンを拾って届けて下さった方だ。まずは何度も手を握り、感謝の言葉を繰り返す。

 千山晩報のインタビューを受ける過程で知ったのだが、于洋さんと私は、カバンを落とす前一言言葉を交わしていた。

 駅前「如家酒店」の前で自転車を停め、宿泊の交渉をしたとき、ここに停車をしようとした于洋さんと自転車を除ける為私が一言「邪魔してすまない」と言った。

 そのとき彼は、真新しい派手な小学生用のカバンと、ヘルメットを被った普通の中国人に見えない老人が、強く印象に残っていた。

 だから、用事をすませ道端に落ちているカバンを見つけたとき、すぐあの老人の物だと分った。しかし私がどちらへ行ったか分からない。

 カバンを開けてみたが、なにも手掛かりになる物が無い。パソコンを開けてみたが、全部日本語で分からない。警察に届けたら、回敬辰さんの出していた紛失届で連絡先が分かったという次第。

 いくつものの幸運が重なっていたのだが、何より大きいのは、于洋さんに拾われたこと。彼が私を覚えていたこと。公安の車がすぐ横に停まっていて、迅速な紛失届が出せたこと。最近の中国が、以前に比べ民度の向上が著しいのは確かだが、これはやはり幸運としか言えない。

 失礼だと思ったが、僅かな現金をお礼として差し出したら、私の気持ちとして彼は快く受け取ってくれて曰く。「今度鞍山に来たら是非お会いしましょう。私がご馳走します」。喜んでお受けしたが、そのご馳走代で消えてしまうほど些少な謝礼だ。

 回敬辰さんが言うには、「今晩丹東から囲碁の友人が14人鞍山に遊びに来ます。貴方も一晩泊まって皆さんと交流しませんか?」

 喜んでご厚意を受けた。串焼きパーティーで丹東の棋友と賑やかにご馳走になる。おまけに回さんが小羅君と二人の宿泊費まで出してくれた。

 好いことはまだあった。パーティーまでの時間、鞍山市内を回ったのだが、旧日本人街、台町に多くの元日本人住宅が殆どそのまま残っていた。手当たり次第に30枚ほど写真に撮る。

 

 
   カバンを拾ってくれた于洋さん(右)
  鞍山に残っている 旧日本人住宅の一つ
 
 

2017年 7月1日 土 晴れ 鞍山から瀋陽 列車

 カバンを一つ持って出かけ、二つ持って帰ることになった、「坂の上の雲」の道を辿る旅は、無事終わった。

 カバンの紛失から始まって、多くの人との出会い、日露戦争の古戦場、父の母校、・・・あまりにも多くことが有った一週間。一ヵ月にも半年にも思える中身が濃いい充実した時間だった。 

 「人間万事塞翁が馬」。もしカバンのトラブルが無かったら、小羅君との出会いもない。もし彼が望む日本企業への就職が実現したら、また新しい運命が始まる。望めば道はある。「縁は異なもの」。一つ一つの出来事は小さなことだが、大きな運命をあやなす糸でもある。

 最大の蹉跌が最後にあった。

 私のアパートは30階、私の部屋は16階。うっかりしてエレベータのカードが昨日で使用期限が切れていた。ひやー!16階までの階段は、瀋陽〜大連の自転車よりきつい。幸い6階までの人に便乗したが、それでもまだ10階ある。

 今日は、土曜日でアパートの管理会社は月曜まで休み。

 「ぶつぶつ」言いながらきつい階段を昇ったが、言い換えたらこれが一番大きな蹉跌ということは、全て順調だったということだ。

 感謝。

 冷蔵庫には冷凍餃子もある。明日一日どこも出ないで、旅行記の整理や、ネット碁で過ごそう。久しぶりで吹く尺八もよく鳴る。

 もう一度感謝。

 (完)