の 庭

− 前 篇 −

 それは、思い出の場所。
 光に満ち、まだ何の翳りもなかった幸福の──。

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「目を閉じて、百数えるの。その間、絶対に目を開けちゃ駄目よ!」

 昼下がり。
 穏やかな陽射しが降り注ぐ春の庭に、そんな居丈高な幼い少女の命令が響いた。
「わかっております」
 それに答えた声は、微かに苦笑を帯びた、やはり幼い少年のもの。
「百数えたら、探せば良いのですね? ミルファ様」
「ええ、そうよ」
 少年の確認する言葉に、少女── ミルファは早くも勝ち誇った様子で頷く。
 今年、八つの齢になるこの皇女殿下は、帝宮に仕える者達に影で『わがまま姫』と呼ばれていた。
 その呼び名に違わぬ勝気さに、彼は心の中で苦笑する。
「では…約束通り、私が一刻以内にミルファ様を見つけたら、私の事を認めて下さいますね?」
「見つけられたら、よ」
 余程自信があるのか、つん、と済ました顔でミルファは言い放つ。
「だって、おかしいもの。あなた、わたくしと二つしか違わないんでしょう。なのに、何故『先生』なの?」
 納得いかないとばかりに漏らすミルファに、彼はやはり苦笑するしかない。
 彼女の言い分も、一理ある。彼自身、何故自分にお鉢が回ってきたのか、未だに理解しきれていないのだから。
 後にその理由が、ミルファがおとなしく授業を受けないばかりか、屁理屈を並べ立てて(と彼等は表現したが、実際には質問攻めだったらしい)困らせ、しまいには誰もがこの役目を放棄した為だと知るのだが、この時はまだ何も知らされていなかった。
 先日、大神殿の最高権威である主席神官に呼び出され、この役目を申し付けられたに過ぎない。
 その時もただ、『末の皇女殿下に儀礼作法などを教えなさい』と言われただけで、何故まだ正式な神官でもない自分にそれを命じたのかまでは教えてくれなかったのだ。
 主席神官の命である上に、特に逆らう理由もない。
 そこで言われるままに帝宮の南側にある南領妃に与えられた離宮へとやって来たのだが── 引き合わされた皇女殿下は、こちらが挨拶をする暇も与えず、出会い頭にこう言い放ったのだった。
 曰く──。

『わたくしと勝負なさい! 勝ったら認めてあげるわ!!』

+ + +

 一体何事かと、目を丸くして絶句する彼に、ミルファは一方的に話を進める。
『頭が良いのか何か知らないけれど、わたくしとほとんど年が違わないって聞いたわ。今までの先生は一応大人だから、眠くなるお話にも少しは付き合ってあげたけれど、あなたは偉そうじゃないし、「先生」って感じがしないわ』
 だから認めない、という。
 『わがまま姫』という呼び名の事を思い出しながら、なるほど、と彼は納得した。
 これがその呼び名の元か、と。
 結局の所、ミルファはわがままと言うよりは、年の割りに頭の回転が早く、自我がはっきりし過ぎているのだ。
 普通に子供扱いするような大人では、ミルファの相手は無理だろう。彼女にとって、それは侮辱に近い扱いなのだ。
 だとしたら、そう年の変わらない自分に教えを請う事を許しがたい、と感じるのも当然のこと。
『── では、どうしたら認めて頂けますか?』
 ミルファの気性を把握し、試しにそう尋ねてみると、ミルファは一瞬、虚を突かれた顔を見せたが、すぐにその顔に不敵な笑みを浮かべた。
 その反応に、自分の読みが当たっていた事を確信する。まずは、第一関門を突破出来たようだ。
 おそらく、今までの神官達はこの時点で半分以上が躓(つまづ)いたに違いない。
 ここで生意気だと腹を立てれば、それまでだ。ミルファにその程度だと認識され、後はいい玩具扱いされる。
 緩やかに波打つ黒い髪と白い肌、光に透けて輝くエメラルドの瞳をもつこの少女は、一見人形のように整った外見からは予想も出来ない程に、高い知性と自我を持っているのだ。
 …向き合うべきは、皇女でもなく、八歳の少女でもなく、『ミルファ』という存在。
『勝負と仰いましたが、一体…何を?』
 尋ねると、何処となく満足した表情で、ミルファは少々意外な答えを返した。
『簡単な事よ。わたくしと、「隠れん坊」しましょう?』

+ + +

 ── そして、今に至る。
 一体、どんな無理難題がと思っていただけに、まさか本当に隠れん坊をするのだとは思っていなかった彼だった。
 昼下がりの庭に連れ出され、『百数えろ』と言われるまでは、隠れん坊と称して別の事をさせるのだと予測していたくらいだ。
 だが、ミルファは本気で隠れん坊をするつもりらしく、真面目な顔で注意事項を口にする。
「範囲はこの離宮内よ。敷地全部にしてもいいけど、それだと一刻じゃ回りきれないものね。百を数える間に隠れてしまうから、数え終わったらわたくしが何処にいるか探し出すのよ?」
 その説明に頷きながらも、よくよく思い返してみると、彼は自分が今まで『隠れん坊』という遊びをした事がない事に気づいた。
 何しろ、そのような遊びをする頃に地方の神殿に上がった為、そうした他愛のない遊びをする機会には恵まれなかったのだ。
 実際の所、最初に入った神殿には、彼と同様に聖晶を持って生まれた同世代の子供達がそれなりにいたし、神官見習いだと言っても、所詮は幼い子供。親しくなった者同士がそうした遊びをする事も普通だった。
 …だが、彼の資質に気付いた上位神官により、そこに馴染む前に主神殿に移る事になり、しまいには最高峰の大神殿に史上最年少の七歳で入った身の上である。
 その結果、同じ年頃の子供と接する事もなく、気付くと身の回りには大人ばかりになっていて、とてもではないが、そんな状況で隠れん坊など出来るはずもなかった。
 けれども、だからと言ってここで『やった事がない』などとは言えない。
 おおよその事は知っているし、隠れたミルファを捜し出すだけでいいのなら、何とかなるだろうと自分に言い聞かせる。
 この離宮には初めて来たが、帝宮に比べれば小さい。一刻というのは少々心許ないが、努力次第で何とかなるだろう。
 そう考えて、ふと問題に気付いて口を開く。
「あの…でも一つだけ、いいですか?」
 よもや質問が来るとは思っていなかったのか、ミルファが不思議そうに問い返す。
「何?」
「私はこの南の離宮には初めて来たので不案内です。こちらにも、馴染みのない人間の立ち入りを禁止する場所があるでしょう? そうした場所に入ってしまう事は避けたいので、その事に関しては女官の方などに質問する事を許していただけますか?」
「…そうね……」
 彼の言葉に思う所があったのか、ミルファはふと考え込む顔になる。
 待つ事しばし、やがてミルファは、いいわ、と頷いた。
「勝負は公平でないとね。わたくしもそういう場所には隠れない事を約束するわ」
「ありがとうございます」
 ほっとして微笑むと、そんな彼にミルファは更に思いがけない事を続けた。
「女官に聞くのなら、わたくしの姿を見かけたかとか、そういう事も聞いて構わないわよ」
「え? しかし、それでは……」
「いいの」
 その顔に例の勝ち誇った笑みを浮かべると、ミルファは自信満々に言い放つ。
「…どうせ、見つかりっこないんだから」
 その自信に呆気に取られて絶句する彼に、ミルファはそれじゃ始めましょう、と隠れん坊の開始を告げる。
 慌てて約束通りに目を閉じ、口に出して百を数え始めると、やがてパタパタと軽い足音が遠ざかる。
 その音を聞きながら、彼はあ、と思った。
 大事な事を忘れていた事に気づいたのだ。
(── そう言えば、結局、名乗りそびれたまんまだ……)

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