小 さ な  い

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 それは夏が名残を残しながら、去ってゆく初秋の頃。
 澄み渡った青い空を何気なく見上げていたその人は、ふと思いついたように目を下ろすと、にやりと笑ってこう言った。

「…ミルファ、面白いものを見せてやろう」

+ + +

 大きな手に引かれて連れて行かれたのは、帝宮の端に最近建てられた木造の建物。その外にいたのは、今まで見た事のない生き物だった。
 大きい。
 最初に抱いた感想はそれだった。
 自分の身体の、一体何倍あるだろう。けれどミルファは、その立ち姿を綺麗だと思った。
「お父さま、これは何という生き物なのですか?」
 好奇心に満ち溢れた視線をそれに向けたまま、横にいる人── 父親に尋ねると、そちらから少し感心したような声が返って来る。
「『馬』という。こう見えて、とても速く走れる生き物だ。…お前はこれを恐れないのだな、ミルファ」
「…?」
 その言葉に首を傾げる。
 目の前の馬という生き物は、確かにとても大きくて力も強そうだ。
 けれど、のんびり草を食んでいる様子や、時折興味深そうにこちらに向けてくる黒い瞳は優しげで、恐ろしさなど欠片も感じない。
「これは恐ろしい生き物なのですか?」
 不思議に思って尋ねる。疑問を隠さずに見上げた顔は、その質問に苦笑を浮かべた。
「そうだな…気性の荒いものは、時として人を蹴り殺してしまうというから、必ずしも安全な生き物とは言えないだろう」
「!」
 予想外の言葉に、思わず目を丸くする。こんなにも穏やかそうな生き物なのに── 。
 素直に驚きを見せるミルファに、父親── 世界を治める皇帝は、その顔に悪戯っぽい笑みを浮かべると、何気ない口調で言った。
「どうだ、ミルファ。これに乗る勇気はあるか?」
 その一言を口にした瞬間、この親子を遠巻きに見守っていた側仕え達が、そのとんでもない発言にぎょっと目を剥いたが、ミルファは気付かない。
「これに…乗る?」
 言われた事の重大さがわからず、きょとんとした顔で繰り返す娘に、皇帝は外野を無視して更に勝手な事を口にする。
「もちろん、一人でとは言わん。この父が共に乗ろう。この馬なら、東西南北全ての離宮を巡っても数刻とはかかるまい。…どうする?」
 皇帝という、代わりの利かない身でありながら、この皇帝は時としてそんなとんでもない事を口にする人だった。
 有言即実行── それがこの皇帝の基本姿勢であり、それは何かと一つの事を決定するのに時間がかかる政(まつりごと)においては良い結果に結びついていたが、それ以外になると少々困った事になる事が常だった。
 当然、長年彼に仕えていた人々は、十分彼の気性を把握はしていたが、よもや幼い娘にそんな事を持ちかけるとは思わなかったのだろう。
 自覚がない訳ではなく、むしろあり過ぎる程なのだが、時としてそれを盾にとって利用しているようにも見えるのは、果たして気のせいだろうか。
 滅多にない親子水入らずの会話に口を挟む事も出来ず、かと言ってこのまま話が進んでしまっても困ると、おろおろするばかりだ。
 そもそも、今日は末の娘である皇女ミルファに、半年程前に西領から献上された『馬』を見せるだけという話だったはず。
 ── だがそれが建前でしかなかった事を、彼等は思い知る羽目になった。
「前に言っていた、『遠乗り』ってこの事ですか?」
 年の割りに利発な娘の質問に、皇帝は器用に片眉を持ち上げると楽しげに頷いた。
「本当は帝都の外まで連れて行ってやりたい所だが── 流石にそうなると周囲もうるさいし、お前も南の離宮と帝宮以外は行った事がないだろう?」
 …などと、気付くとどんどん話が進んで行っている。
 万が一、皇帝は元より幼い皇女が怪我でもしたらどうするつもりだ、と彼等は心底焦った。
 そんな彼等の心情など当然知らないミルファは、少し考え込むとぽつりと確認を取る。
「お父様と一緒に……?」
「無理にとは言わんぞ」
 一見、悩んでいるようにも見えるミルファに、皇帝は気軽な口調で言い添える。
 側仕えが心配するまでもなく、彼とて父親である。幼い娘に怖い思いをさせたい訳ではない。
 何しろミルファは、今年で六歳。好奇心も強いだろうが、未知の物への恐怖心も強いだろう。
 実際、今まで他の息子や娘にも馬を見せて、似たような提案をしてみたのだが、誰一人として頷く者はいなかった。
 興味を示す者がいなかった訳ではないのだが、その母親達── 皇妃が馬を見せる事自体に難色を示した事も理由の一つに違いない。

『おやめ下さいまし、陛下。そのような危険な事…お怪我でもなさったらいかがなさいますか』

 異口同音で言われた言葉を思い出しながら、そう言えば末の娘の母である南領妃サーマだけは反対しなかったな、とぼんやり思う。
 だが、いくら時として強引な彼の行動に対して寛容なサーマも、娘が傷ついたりすれば流石に怒るに違いない。
 …彼女が怒った顔など、もう随分と見ていないのだけれども。
「お前の顔に傷でもついては、私がサーマに怒られるからな。無理に乗る必要はないぞ」
 そんな事を考えながら言った皇帝の言葉に、遠くで側仕え達は『そうだそうだ』と力強く同意した。…が。
「乗ります」
 周囲の期待(?)を裏切って、ミルファは幼い顔に真剣な表情を浮かべるときっぱりと言い放つ。
 これには言い出した皇帝も驚きを隠せず、思わずまじまじと娘の顔を見つめた。
「…怪我をするかもしれぬのだぞ?」
 念を押すように尋ねる言葉に、ミルファは真面目な顔のまま答える。
「それはちょっと嫌ですけど、…でも、お父さまと御一緒なのでしょう?」
「あ、ああ……」
「それにお母さまと約束したもの。帰ったら今日、お父さまと何をしたのかお話するって」
 そしてミルファは、母親似の顔ににっこりと笑顔を浮かべた。── 父がその笑顔に弱いと知らないままに。

+ + +

 結局、娘の言葉と笑顔に気を良くした皇帝は、側仕えが横からさりげなく、且つ必死に引き止めるのを無視して馬上の人となっていた。
 西領から馬と共に来た世話役の男は、そんな皇帝の姿を嬉しそうに見つめる。
 まだ世間一般には広まっていないが、いつかこの馬を一般的な移動手段にする事が彼の密かな、そして大きな夢だったのだ。
 その夢を多くの人は笑ったが、この皇帝は『良い考えだ』と認めてくれたばかりか、自らそれに乗ってくれた。
 まだまだ、野生の馬から人が乗れるような状態へ慣らすのは難しく、実現するには相応の時間が必要になるに違いないが、皇帝が認めてくれた以上、それは決して叶わない夢ではない。
「来い、ミルファ」
 この半年で、世話役も驚く程に馬の扱いに慣れてしまった皇帝は、尊敬と期待の眼差しを送る娘に手を差し伸べた。
 皇帝の声に応えて、『失礼を』と断ってから世話役がミルファを抱き上げる。その身体を受け取った皇帝は、その前にミルファを座らせた。
「どうだ、いい眺めだろう?」
 一気に視線が持ち上がり、今まで見上げていたものを見下ろす。それは言われるまでもなく新鮮で刺激的な眺めだった。
 その頬を紅潮させて、ミルファは背後の父に笑顔で答える。
「面白いです!」
「そうか」
 ミルファの様子に、皇帝の顔もつられたように綻ぶ。
 他に六人の息子・娘がいる身だが、他よりミルファには少々甘い自分を自覚する。
 末の娘だからという訳ではないだろう。おそらく、ミルファが自分に似た価値観を持っている事が嬉しくもあり、楽しくもあるからだ。
『物怖じしない所は、陛下に似たのでしょうね……』
 いつだったか、サーマがぽつりと困ったように漏らした言葉を思い出す。
 確かに外見は瞳の色以外はサーマに瓜二つだが、その中身は何事にも慎重且つ冷静な母親よりも自分に似ているかもしれないと思う。
 そう思うと、今まで感じた事のない、何とも表現の出来ない愉快な気持ちになるから不思議だ。
「それじゃあ行ってくる。数刻後にはちゃんと戻るから、お前達は先に帝宮に戻っていても良いぞ!」
 皇帝は満足そうな笑みを浮かべ、そんな『御無体』な言葉を放り投げると、側仕えが制止する暇も与えず馬を走らせていた。
「へ、陛下!?」
「お待ち下さい、陛下!!」
「陛下── ッ!!」
 背後から声が追いかけてくるが、皇帝は高らかに笑うだけで、その馬の足を止めはしなかった。

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