小 さ な  い

− 後 篇 −

 ひとしきり走らせ、追いかける声が聞こえなくなると、皇帝は馬の足を弱めた。
 馬の背は、衝撃が直接来る。全速力で走らせた訳ではないが、大人の男である彼には平気でも、幼い子供には酷だったかもしれない。
 恐怖に青褪め、今にも泣きそうな顔を想像し、皇帝は少々自分の軽率な行動を反省した。
 心配になって前に座る娘を覗き見ると、予想に反してミルファは楽しげな笑顔を浮かべている。思わず皇帝は、娘に呼びかけていた。
「…ミルファ?」
「…すごいです、お父さま。まるで風になったみたい……!」
 父譲りのエメラルドの瞳を輝かせ、ミルファは興奮気味に言葉を発した。
「馬とは、本当に足が速いのですね!!」 

『物怖じしない所は……』

 ふと、先程思い出したサーマの言葉が耳を掠(かす)め、皇帝は思わず吹き出していた。そしてそのまま楽しげに笑う。
「ははははは…! 流石は私の娘だ!!」
 突然笑い始めた父親に、ミルファは訳がわからずにきょとんと目を丸くする。…ここまで素直に心の底から笑う彼が、どれ程に珍しいものか知るはずもなく。
「お父さま?」
「ああ、済まん。ふふ…、血が受け継がれるものだという事を、私は今初めて実感したぞ」
「?」
「…こんな事を他に聞かれたら困った事になるが── お前がもし男なら、と考えてしまった」
 人と世界を統べる皇帝としての自分が下した判断に、彼は苦笑する。
 母譲りの知性に加え、恐怖よりも好奇を優先する心。もしミルファが息子で、これから見聞を広め、相応の学業を修めたなら、きっと一角の人物になったに違いない。
 惜しいと思ってしまった自分に、少し嫌気が差す。
 ── 生まれて来たのが娘と知って、ほっと安堵した自分をまだ覚えているのに。
「わたくしが、男……?」 
 何処か不安そうな顔をするミルファに、皇帝は安心させるように微笑んだ。
「たとえ話だ。気にする事はない」
 …そう、『もし』の話だ。
 今の時代、女性が必要以上に学問を修める事も、一般に『男の仕事』に分類される職に就く事も倦厭されこそすれ、奨励はされない。
 ミルファの母である南領妃が政に関わる事も、今でこそ認められているが、当初は内からも外からも大批判を受けた位なのだ。
「もし…お前が息子ならば、大きくなった暁には、私を大いに助けてくれただろうと思っただけだ。だが、決して娘でなければ良かったと思った訳ではないぞ?」
「……」
 皇帝の言葉に、ミルファは沈黙し俯(うつむ)いた。
 それは一見、傷ついて泣き出しそうな様子にも見えた為、皇帝は大いに慌てたが、それは杞憂に終わった。
 次の瞬間、意を決したように顔を上げると、ミルファは真剣な顔で口を開く。
「お父さま。わたくしは、大きくなったらお母さまのようにお父さまのお手伝いをしたいのです」
「……!?」
 その言葉は、皇帝を驚かせ、言葉を奪うに十分だった。つられたように、馬の歩みが止まる。
「駄目ですか? 女官達はみな、言うのです。大人になったら、わたくしもお母さまみたいに何処かにお嫁に行くのだって。でも、わたくしはお母さまが好きだし、お父さまも好きです。ここにいては駄目ですか?」
 それは幼い子供が抱いた、小さな夢。その内、大人になれば忘れてしまうのではないかと思うほどに、他愛のない願い。
 けれど、ミルファはこれ以上となく真剣な顔で皇帝を見上げる。…母親にそっくりな顔で。
 ── その顔を見てしまっては、その場を誤魔化す事など皇帝には出来なかった。
「…それは相当に大変な事だぞ?」
「無理ですか……?」
「無理かどうかも、やってみなければわからない程の事だ。何しろ…前例がないからな」
 言いながら、同じような事を昔やり取りしたな、と思う。
 …それは確か、まだミルファが生まれる前── そう、サーマが皇妃となる事が正式に決まった時。
「ぜんれい?」
 意味がわからずに首を傾げるミルファに、皇帝は不思議な懐かしさを感じながら頷く。
「今まで、そうした人間がいないという事だ」
 すると、その言葉を聞いた途端にミルファの顔は明るくなる。そしてそうなるとは決まってもいないのに、無邪気に宣言したのだった。
「じゃあ、わたくしが最初になります!」
 それがあまりにも予想した通りの返事だったので、皇帝は必死にこみ上げる笑いを堪えねばならなかった。
 それがあまりにも── かつてサーマが口にした言葉と同じだったので。

+ + +

「まあ…。わざわざ手ずから運んで下さったのですか」
 数刻後、『遠乗り』を終えた皇帝と皇女は、南の離宮へと帰って来ていた。
 ただし── 滅多にない父親と水入らずの時間にはしゃぎ過ぎた幼い皇女は、皇帝の背で夢の世界へ旅立っていたが。
 いくら父親であろうと、仮にも皇帝である。側仕えに任せずに自ら背負って来るなど、本来有り得ない状況で、当然ながら南の離宮の入り口は騒然となった。
 出迎えた南領妃サーマは、その有様に驚きを通り越して呆れたような顔を見せたが、流石と言うべきか、動揺する女官達を前に、すぐにその顔に普段の落ち着いた表情を貼り付けた。
「申し訳ございません、陛下。…誰か、ミルファを寝台へ運びなさい」
「は、はい!」
 声をかけられて、わたわたと女官達がミルファを皇帝から受け取ると、そそくさとその場を後にする。
 後には、数名の女官とサーマ、そして普段以上に上機嫌な皇帝が取り残された。
「お前達も下がりなさい。後はわたくしが対応いたします」
 主人の言葉に、残っていた女官達も一礼して立ち去ってゆく。
 この南の離宮に皇帝が渡る事はそう多くはない。皇帝の片腕として動くサーマが帝宮へ出向く事は日常茶飯事だが、その逆は他の離宮へのそれと比べると明らかに少なかった。
 口さがない者などは仕事上ではさておき、夫婦仲は悪いのではと噂するが、その真実を知る者は誰一人としていない。
「── 随分と無茶をなさったのでしょう。側仕えの方が、今頃胃に穴を開けているのでは? お戯れもほどほどになさらないと」
「良いではないか。ミルファのお陰で良い息抜きになった」
 女官が姿を消した途端に、眉間に皺を寄せるサーマに皇帝はからからと笑う。
 そんな皇帝の屈託ない様子に、サーマははあ、とため息をつく。
 皇帝の前であからさまに呆れて見せるなど、本来なら皇妃と言えども許されない事である。しかし皇帝はそれを咎(とが)めないばかりか、逆に面白がるような表情で見つめた。
「血というものは、争えないものだな」
「…はい?」
 自分を見ながら徐(おもむろ)に皇帝が口にした言葉に、サーマは怪訝そうに視線でどういう事かと問い返す。
「今日、出かけた先でな。ミルファが言ったのだ。『わたくしは、大きくなったらお母さまのようにお父さまのお手伝いをしたいのです』とな。…どうだ、懐かしい言葉ではないか?」
「……」
 皇帝の言葉に、サーマの顔に驚きとも困惑ともつかない表情が浮かぶ。やがてその口からは、自嘲するような呟きが漏れた。
「…忘れました。そのような昔の事は……」
「そうか? 私にとっては、衝撃的な言葉だったんだが」
 くすりと笑って、皇帝はその顔から表情を消した。ただ、真っ直ぐな視線をサーマに向ける。
「…私はあの時、自分に欠けていたものを見つけた。知らずにいた方が良かったはずの欠陥を、自分に見つけた。だが── それを後悔はしていない」
「陛下……」
「それが埋まるものではないとわかってはいるが、知って良かったと思っている。いつかこの欠落が、私を蝕(むしば)んだとしても…それは私が『皇帝』である前に一人の『人間』だったという証だ」
 きっぱりと言い放つその姿は潔く、サーマはそう出来る彼は間違いなく『皇帝』だと思った。
 決して『人』と同じ高さに立つ事の許されない、孤高の存在であるのだと。…自分とは違う存在なのだと。
「お前は言ったな、サーマ。私を否定し続けると」
「…はい」
 やがて問われた言葉に、サーマは静かに頷いた。
「その行いが間違いだと思う時は、どんな状況であろうと…あなたが、『皇帝』であろうと否定いたします。── 受け入れる方が楽なのはわかっております。けれど、わたくしは弱い人間ですから……」
 一度視線を落としたサーマは、ゆっくりと再び顔を上げると、表情のない皇帝へ挑むように言い放つ。
「分かち合えないとわかっているものを、分かち合えているかのような振りで誤魔化す事など出来ません」
 無礼にも取られかねない態度を見せるサーマへ、皇帝は口元に微苦笑を浮かべるとぽつりと小さな呟きを漏らした。
「…だからこそ……」
「…陛下?」
 聞き取れなかった呟きをサーマが聞き返すと、皇帝は再び何事もなかったかのような明るい表情になった。
「何でもない。さて、そろそろ戻るとしよう。あまり待たせると鬱陶しい説教を延々と聞かねばならなくなるからな」
「……」
 言うや否や、あっさりと身を翻して立ち去って行く皇帝を、物言いたげな瞳で見つめ── しかしサーマは、湧き上がる感情を言葉に出来ずにそのまま飲み込んだ。

 ── 父の手助けがしたいと、幼い頃からずっと思っていたのです
 ── 叶うはずのなかった夢が、叶うのです
 ── だからわたくしは父の期待に応えたい

 思い出すのは、先程は『忘れた』と言った過去の自分が口にした言葉。
 それはまだ、これから進む自分の未来が変わらないと信じて疑いもしなかった、十七の娘が願ったささやかな願い。
 …まさかその取るに足らない言葉が、規則正しく動いていた歯車を狂わせる切っ掛けになるなど、思いもしなかった。
 本当に── 思いもしなかったのだ……。
 徐々に遠ざかってゆく背を見送りながら、サーマは祈るように思う。
 同じ言葉を口にしたミルファが、遠い未来で自分のような思いをせずに済む事を。
 小さな願いが予想外の手によって摘み取られる、あの絶望を── 知らずに済むようにと。

+ + +

 …その願いが儚く消えるのは、それから六年後の月が赤く染まった夜のこと。
 誰もが残酷だと言う『運命』の手によって、少女の幼い願いは摘み取られる。
 そんな未来を知らないまま、彼女はただ願う。
 彼女の姿と彼の瞳と精神を受け継いだ、幼い娘の幸福を──。


 小さな願い(完)

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