の 扉

− 前 篇 −

「…見えてきた」
 北領から帝都へと至る主街道は、整えてあるとは言え厳しい山岳地帯を抜ける為、その道程が厳しい事で特に知られていた。
 自然と口数が減るその道のりで、久し振りに口を開いた連れの言葉で、じっと地面を睨んでいた目を上げる。
 そこはまさに山頂付近で、進行方向に広く何処までも広がる大地が見渡せた。
「ほら、見るといい。あれが、君がこれから行く帝宮だ」
 言いながら指で指し示す方向には、確かに街並みが存在していた。
「帝…宮……?」
 耳慣れない単語を無意識に反芻しながら、その場所をまじまじと見つめたケアンは、その目を大きく見開いた。
「…大きい……!」
 思わずそんな呟きが零れた。
 街並みの中央に、ここからでもわかるほどに広い敷地を持った建物がある。おそらくそれが、皇帝がおわすと言う場所に違いない。
 普通に生活している限り、この世界を統べるとはいえ『皇帝』という存在は遠いものだ。
 先日、帝都にある大神殿へ入る事が決まった時でさえ、特に意識には昇らなかったけれど──。
「…あそこに、皇帝陛下がいらっしゃるのですか?」
 今更ながら自分が皇帝の身近な場所へ行くのだという意識が芽生え、微かな興奮を覚えながらそう尋ねると、付き添い役の青年神官は少し驚いたような顔をした。
「?」
 何か変な事を言っただろうか?
 そんな心配が胸を過ぎったが、それは杞憂(きゆう)だった。
 浅黒く日焼けした顔に面白そうな笑顔を浮かべ、彼は何処か感心したように頷いた。
「ふうん、そういう顔もちゃんと出来るんだな」
「え?」
 言われた言葉の意味がよくわからない。
 困惑を隠せずに彼の言葉を待つと、十は年上の彼はさらに訳のわからない事を尋ねてきた。
「君、知らない事を知る事は好きかい?」
「はい?」
 北の主神殿を発(た)って、もう数月は経つ。
 子供の足の上に、北の街道は難所が多く、この山を越えても先程見た帝宮まで軽く一月以上はかかる。
 その長い道中、幾度か付き添い役は代わり、彼と引き合わせられたのは実に数日前の事だ。
 その間、必要最小限の会話はしてきたものの、今のように彼が気安く話しかけてきた事はなく、ケアンもどう接して良いのかわからずに後を着いてゆくばかりだった。
 思えば、きちんとした自己紹介すらしていない。
 知っていると言えば、彼がルネットという名前である事、この山裾にある地方神殿の正神官でこの山岳を越える神官達に付き添う事を専門的にしている事くらいだ。
 何しろこの街道を通り、大神殿に入るのは普通はそれなりの年齢になった神官だ。老齢に差し掛かった者も少なくない。
 そんな人々を連れ、厳しい山道を進むには方向感覚に優れ、柔軟な対応能力を持つ案内人が必要不可欠なのだった。
 簡単に受けた説明によると、彼── ルネットはこの付近の出らしく、神殿に入ったのも十歳と通常よりも少々遅かった為、この周辺の地理には明るいのだそうだ。
 てっきり無駄口を嫌う真面目な人だと思っていたのだが…よもや、こんな突拍子もない言動をする人だったとは。
「…勉強は、好き、ですけど……?」
 考えた末に何とかそれだけを答えると、彼はやれやれ、と言わんばかりに肩を竦めた。
「僕が聞いたのはそういう事じゃないんだがねえ。…まあ、勉強好きというのは良い事だよ。好きでいるに越した事はないね」
「…はあ」
「はっきり言わせて貰うと、僕は子供らしくない子供は好きじゃない」
 そうなんですか、としか言いようがないほどにきっぱりと言い切られる。
 それはすなわち、多少婉曲的ながらも自分の事を言っているのだと、聡いケアンはすぐに理解する。

 ── 大神殿始まって以来、最年少の大神殿入り。

 それがどんなにすごい事なのかなど、当事者のケアンにはよくわからない。
 地方神殿から主神殿に移ったのも、主神殿から大神殿へ移るのも、自分の意志とは関係のないところで決まった事だからだ。
 でもその事を好意的に見てくれない人がいる事はわかる。
 まだ世間一般の常識すらわきまえていない子供に、大神殿で見習いが勤まるものかと難色を示す神官達を、今まで立ち寄った地方神殿で幾人も見てきた。
 面と向かって言ってくる者こそいなかったが、そういうものは自ずと伝わって来るものだ。
 だが、ルネットはそうした神官達とはまた違った見解を持っていた。
「子供は多少、悪ガキでいいと思うわけだ」
「…悪……?」
 今まで嘗てないほどに砕けた── はっきり言うと神官らしくない言葉に耳を疑った。一瞬意味がわからなかったほどだ。
「ええと……?」
「取り澄ました子供なんて、可愛げも何もあったもんじゃないね。頭でっかちな子供より、頭が少々空っぽな方がいいに決まってる」
 ずばずばと気持ちが良い程に自説をぶちかます彼の顔は、何処か楽しげで。
 遠まわしに貶(けな)されているのかもしれないが、不思議と嫌な感じがしなかった。
「── と思っている所に、君の付き添い役に指名されただろう。正直な所、僕が嫌いなタイプの子供だろうと…まあ、そう思い込んでいたんだよ。何しろ、君の色んな噂を聞き及んでいたからね。主座神官様のお気に入りだとか、それで大神殿入りすると目されていた補佐神官長を差し置いて大神殿に入っただの、色々ね」
「…はあ」
「引き合わされた時の挨拶からして、何となく卒のない感じがして…こりゃ鼻持ちならん子供だと思ったんだが……。でもそれは僕の勝手な思い込みだったようだな。済まない、君は単に礼儀正しい真面目な子供だったようだ」
「は、はあ???」
 当事者を置いてけぼりにして、さくさくと自分で納得してしまうとそのままぺこりと頭を下げた。
 今までの無口な様子が嘘だったかのような── むしろ、今まで黙っていた分を取り戻すかのような勢いだ。
 ケアンはその間、ひたすら疑問符を飛ばす以外に何も出来なかった。
 結局の所── 何やら誤解が生じていた、という事なのだろう。
 自分に関して良くも悪くも噂されている事は知っていたが、こうして面と向かってそれについて言及した上でしかも頭を下げた人間など、今まで一人もいなかった。
(── 変わってる人だ)
 最終的な感想は結局その一言に尽きた。そして彼に対する認識を改める。
「…こちらこそ済みません」
 謝ると、ルネットは心底不思議そうな表情で軽く首を傾げた。
「何故ここで君が謝るんだい?」
「でも…あの、ぼくも、あなたの事を誤解していたから……」
「ほう。でも…まあ、それは仕方ない。今までの行いを顧(かえり)みるに、少なくとも好感は持たなかっただろうと思うしね」
 けろりとした表情で言い切ると、にっと意味ありげに笑う。
「?」
「ちなみに僕は素直な子供も好きだ。その点、君は合格だね」
「…ありがとうございます?」
「いや、今のは礼を言う所じゃないと思うが。そうか、天然気味でもあるのか…なかなかの逸材だな……」
「???」
 ケアンの理解出来ない所でまあいいやと一人納得すると、ルネットは表情を改めた。
「最初の質問の答えに戻ろうか。そう、あの一つだけでっかい建物に皇帝陛下がいる。…と言っても僕は中に入った事はないから、建物のどの辺りにいるかまでは知らないけどね。そして…あの敷地内のある大神殿に君は入るんだ。もしかしたら…皇帝陛下と顔を合わせる事もあるかもしれないな」
「……」
 言われてみてようやく、その途方のなさに気付く。
 皇帝の身近な場所へ行くのだ、という意識はあったものの、顔を合わせる可能性がある事にはまったく認識が回ってなかったのだ。
 本来なら直接拝む事など叶わない。普通の人間は存在は知っていても、死ぬまで目にする事はない── 皇帝はそんな遠い存在なのだ。神官であっても、大神殿にでも入らなければ皇帝など拝む機会はないだろう。
 不意に今まで感じていなかった心細さが湧き上がった。
 何だか── とても遠い場所に一人で取り残されるような、そんな気持ちになる。
「…今更怖気(おじけ)づいたかい?」
 緊張が表情に出ていたのか、からかうように声をかけてくる。
「怖がる必要はないさ。一応、皇帝陛下も人間なんだから」
 聞きようによっては暴言にも取られかねない一言を吐いて、ルネットはケアンの肩をポンポンと励ますように叩いた。
 そういう気安い態度で接してこられた事は神殿に入ってからは数える程しかなく、純粋にケアンは驚いた。
 思わず自分より上にある顔を見上げると、健康的に焼けた浅黒い顔が笑っている。何故かそれだけで、先程感じた心細さが消えていった。
「君が相応の好奇心さえ忘れなければ、何処だって大丈夫だ。僕が保証しよう」
「好奇心…ですか?」
「そう、『知らない事を知りたい』って気持ちだ。それが過ぎるとあまり良くはないが…差し当たって、初対面の人間の名前を知りたいと思うくらいの気持ちは必要だと思うね。特に君のような子供は」
「!」
 そう言えば、彼とはろくに自己紹介もしていなかった。
 こちらは彼の名前を知っているが、フルネームがなんと言うのかまでは知らないし、逆に相手が自分の名前を知っているのかさえ怪しい。
 途中何度か尋ね、また伝えようと思ったのだが、ただでさえギクシャクしていたのがさらに悪化しそうな気がして、何となくしそびれていたのだ。
「まあ、今回は僕にも責任がある。変に懐かれたくないって思っていたから、自己紹介し合う暇も隙も与えなかったしね」
「……」
「という事で改めて自己紹介しよう。僕はルネット。ルネット=ボーシュ=チオン。年は十ハ歳だ。君は?」
「ケ、ケアン…ケアン=リール=ピアジェ、です。年は七歳です」
「合格」
 白い歯を見せて笑うと、ルネットはその大きな手を差し出してきた。おそろおそる手を握ると、力強く握り返してくる。
「よろしく、ケアン。ここから帝都内の地方神殿まで、無事に君を届けられるよう努力するよ」
「こ…こちらこそ、よろしくお願いします」
「うーん…まだ硬いな。まあ、仕方がないか。その辺りはこれからの道中で改善して行くとしよう」
「?」
 やはり訳がわからない。
 それでも、それまでにない気持ちが自分の中に生まれた事を自覚する。
 心が、浮き立つような。それは随分と久し振りに味わう気持ちだった。

+ + +

 一方的な見解から抜け出したルネットの目から見ると、ケアンという少年は年齢にしては聡い事を除けば、ごくごく普通の子供だった。
 むしろ非常に内向的な性格のようで、どんな場面でも自己主張するような事はなく、よくぞ地方神殿の上位神官達の目に止まったものだと思う。
 こちらが心配になる位に世間慣れをしていないし、年の割りに純粋すぎる気さえした。
 神殿に上がるまでは、地元で『悪ガキ』の名を欲しいままにしてきた己の子供時代と比較するのがそもそも間違っているのだろうが──。
(…それにしても疑問だな)
 険しい山を越える人達の為に、街道沿いに建てられている粗末な山小屋の中。
 幼い足に山歩きは辛いのだろう、食事を終えたと思うと部屋の隅で寝息を立て始めたケアンが風邪をひかないように毛布をかけながら、ルネットはしみじみ思った。
(この子の一体何処が、『神童』なんだ?)
 ── これでも一応は神官だ。世間一般の人間よりは神殿の事はよくわかっている。
 その自分から見て、地方神殿にいるケアンと同世代の見習い神官と比べて、これと言って特出した能力があるようには見えなかった。
 物覚えがいいとか、知能が高いとか── そうした事ははっきり言えば、神官の世界にはあまり関係がない。
 『学』は神殿に入れば誰にでも必要にするだけ手に入れる事が出来る。
 もちろんあったに越した事はないが、神官の身分とも言える位階は学力で決まるものではない。
 それぞれが持つ神力の高さと、質による。
 基本的に呪術師とは違い、神官の持つ力は自分の内にある力をもって世界そのものに干渉するものだ。
 ここで示される『世界』とは自分自身を除いた全て。
 たとえば各地の主神殿にいる『聖女』と呼ばれる女性神官達は、その癒しの力によって『他者』という世界の一部に直接干渉する為に特別視され、敬意を払われる。
 ラーマナの教義の上で、その存在は異端でもある為、正規の位階には入っていないが、特別に扱われるのはそれだけ神力が強いからなのだ。
 ── しかし、目の前であどけない寝顔を見せる、この少年は。
(神力は確かに少し高い気もするけど……)
 主神殿の主座神官をして『神童』と言わしめるだけの物であるようには思えないのだった。
 にもかかわらず、そう扱われる何がこの少年にあると言うのか──。
(……気になるじゃないか)
 少しずつ、まだまだぎこちないながらも心を開いてくれているケアンに対し、こんな好奇心を持つ事は少々不謹慎かもしれないが。
「…仕方ないね。これも性分だ」
 苦笑混じりに呟き、ルネットもまた火の始末をしてごろりと横になった。
 『知らない事を知りたい』── 好奇心の強さに関しては、他に負ける気がしないのだから。

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