の 扉

− 中 篇 −

「…え? 何でぼくが…『神童』って言われているか、ですか?」
 そして、翌日。
 考えてもわからないなら、直接本人に聞けばいいだろうと思ったルネットは、早速ケアンに質問を振った。
 数多いたはずの神官の中、彼が『特別』になる理由は何なのか──。
 ケアンはその質問を過去に幾度もされたのだろう。
 最初こそ驚いた顔をしたものの、すぐにその顔に少し困ったようは表情を浮かべた。
「それが…特別な事は、何も……」
「しかし、何かがあったから、こうしてそんな若い身空で大神殿に行く事になったんだろう?」
「それは…そうだと、思うけど……」
 答える言葉が尻すぼみになり、やがてその顔が俯(うつむ)いた。
 ── やばい、泣かせたかも。
 別に苛めたい訳ではなかったルネットは、慌てて言葉を重ねた。
「いや、そのだな! …正直、ちょっと君が心配になったんだよ」
「…え?」
 苦し紛れの言葉だったものの、それはルネットの正直な気持ちだった。
 思いがけない言葉だったのか── ケアンが顔を上げる。少し赤くはなっているものの、目に涙がなかった事に心底ほっとしながらルネットは続けた。
「何と言うかだな…言葉だけが独り歩きしている気がするんだよ。僕が知っているくらいだ、君の『神童』という評判は大神殿でもとっくに知れ渡っているだろう。にも関わらず…ケアン、君はその呼び名を誇りに思うのでもなく、むしろ他人事のように捉えている気がするんだ」
「……」
「あいにくとそういう立場になった事はないから、これは想像するしかないんだが……。ケアン、今まで僕を含めていろんな神官と関わりを持ってわかっただろう? 誰もが君を『神童』として見る。『ケアン=リール=ピアジェ』という七歳の子供としては見ないんだ。君は…それに耐えられるのかい?」
「……」
「『知らない事を知りたい』…それは、別に他人や周囲に対するものだけじゃない。自分自身にだって向けていいものだよ。君は、今自分が置かれている立場を理解したいと思わないかい?」
 ルネットの言葉は恐らく、子供にとっては難しい事も含まれていただろう。
 だが、言わんとする所は伝わったのか、ケアンはじっとルネットの言葉に耳を傾け── やがて少し考え込んだ後、ぽつり、と呟いた。
「…本を読んでいただけ……」
「…ケアン? 今、何て……」
 うまく聞き取れずに聞き返すと、ケアンは意を決したように顔を上げ、それまでの何処か一歩引いた口調ではなく年相応の口調でルネットに答えた。
「本を読んでいただけだよ。じ、じいさまが…持ってた本が、図書室にあって……」
 言葉の後半になるに従い若干口早になるのは、こうして自ら考えた事を誰かに伝える事に慣れていないせいだろうか。
 所々つかえながらも、一生懸命思う所を話そうとするケアンを、ルネットは黙って見守った。
 緊張の為か、それともそれ以外の理由からか、ケアンが何かに耐えるようにぎゅっと両手を握り締めている事に気付いていたけれど。
「それで…嬉しくなって、本当は勝手に読んじゃいけないって知ってたけど、でも……!」
 家族の中で、ただ一人の味方だった祖父。
 死んでしまった時、世界に一人きりになったような気がした。
 いつかはそんな日が来る事を知っていたけれど、眠る前までは確かに笑っていたのに、目を覚ましたら冷たくなっているなんて、夢にも思っていなくて──。
 淋しさと懐かしさが、少年に禁を破らせた。
「…そしたら、司書神官様が来て……」
 てっきり叱られると思った。
 神殿の蔵書の多くは古く、保存状態には気を使われてはいても、ちょっとした事で破損する事もあり得る。
 その為、特に分別がまだついているとは言いがたい幼い見習い達は、図書室への立ち入りはもちろん、閲覧する事も禁じられていた。
 神殿に入った当初に固く言い含められた事だ。
 もっとも、多くが遊び盛りの子供達である。本よりも遊びに興味を持つ年頃である為、わざわざ言われなくとも、好き好んで陽射しを避ける為に薄暗く、少々黴臭いその部屋に近寄る者などいなかったのだが。
 いつの間にか背後にいた司書神官は、けれど予想に反して叱りはしなかった。
 ただ、一言尋ねてきた。
「『その本の内容がわかるのですか?』って聞かれたから、だから……」
 叱られる事への恐怖で硬直した身体では、はいと言葉で答える事ができなかったので、ただただ頷いた。
 するとその神官は軽く目を見張り、ではと本の中の一文に骨ばった指を走らせた。
 ── この文は何と書かれていますか?
 尋ねられた質問は、その時よりもっと幼い頃── 言葉を覚え始めた自分に祖父がよくしていたものと同じで。
 硬く強張っていたケアンの口は、無意識の内にその文章を読み上げていた。
 その答えを聞いた司書神官は、しばらく黙り込み── やがて『もし、他にも読みたい本があるのなら今後はちゃんと私を通しなさい』と言い、禁を破った事は責めなかった。
 …たった、それだけ。
 ケアンにとってはそれだけの事。なのに、それがその後のケアンの生活を一変させてしまったのだ。
 今までは誰にも話せなかった。それ以外に切っ掛けという切っ掛けは思いつけないが、そんな事でと否定されるのが怖くて出来なかった。
 それをようやく吐き出せた事で、少しだけ心が軽くなる。そしてルネットも、そんなケアンの告白を一笑に付したりはしなかった。
「…本を読めたから、神童扱いになった……?」
 難解な書を読めたから、という理由ではないはずだ。そうだとしても、この幼さで大神殿に入る理由には不十分過ぎる。
 そう、それが── 普通の本ならば。
 閃いたのは一つの可能性。しかし、それは同時に別の謎を深めかねないもので、ルネットはケアンに確かめるか否か、しばし悩んだ。
(まさか…でも、もしかしたら……)
 悩みつつ、視線を向けた先。ケアンが何処か思い詰めた顔でこちらを見つめていた。
 その顔でようやく気付く。
 『神童』の名を他人事のように思っている訳ではない。そうではなくて、むしろ──。
「…そうだよなあ」
 やがてルネットの口から零れた言葉はそんなものだった。
「ケアン、君は…人が怖いんだね」
「……」
 図星だったのか、それとも自覚がなかった事を指摘されて気付いた為か、ケアンは目を反らし地面に向ける。
 無意識にだろう、今度はぎゅっと服の裾を握り締める姿に、ルネットはケアンの抱える不安の大きさの一端を見たような気がした。
 知らない場所、知らない人。
 語られる、自分の知らない『自分』。そして向けられる自分ではない『自分』を見る目。
 大きな流れに逆らう力もなく、ただ流れて行くだけ。
 幼い身でそれは、一体どれ程の恐怖だろう。
 いっそ、『神童』という名に溺れられる程に育っていたなら良かったのだろう。せめて見出されるのが、もっと後だったなら。
 ── けれどもう、ケアンの時は動き出してしまっている。
「…これが確かであるとは限らないけれど」
 迷いは、消えた。
 この決して長いとは言えないが、短くはない道中を共にする者として、少しでもケアンの抱えた不安を解消してあげたい一心で、ルネットは自分の思いついた可能性を口にした。
「君は、古代語が読めるんじゃないのか?」
「古代…語?」
 生まれて初めて聞いたと言わんばかりに、ケアンが繰り返す。
「あいにく、僕は学がないもんでね。ここで確かめる事は出来ないけれど…多分、君が読んだ本は古代語で書かれた本じゃないかと思う」
 ── それはあくまでも可能性の一つ。
 神殿に置かれている蔵書で、読めるだけで『特別視』される物として考えられるのが、ルネットにはそれくらいしか思いつけなかった。
 太古の時代の言葉で書かれたそれらは、今の文字とはあまりにもかけ離れていて、今では読める者は数少ない。
 今も術にその言葉を用いる呪術師とて、多くが口伝で伝わる為、その文字を正確に知る者はろくにおらず、主神殿でも数人いれば良い方で、読めたとしてもその意味まで理解する事が出来る者はさらに限られるという。
 もし、その能力が備わっているのだとしたら── 大神殿が欲しても、不思議ではないかもしれない。
 だが一方で謎にも思うのだ。
(…神殿はこんな小さな子供や、呪術師の協力を請うてまで…何を探しているんだろう……)
 かなり以前から、神殿が山のような蔵書から何かを探し出そうとしている事はルネットも知っていた。
 それが何かまでは、地方の一神官であるルネットには預かり知らない所だが……。
「もし、そうなら…君はもっと自信を持っていい。神殿は純粋に君の能力を評価して、大神殿に召喚したんだからね」
「ぼくの…能力……?」
「そうだとも」
 励ますように肩を叩き、殊更明るい口調でルネットは続けた。
「それでも不安なら、はっきりと問いかけるべきだ。相手が神殿の長である主席神官様であろうとね!」
「え、で、でも……っ」
 流石に乱暴な結論だったのか、ケアンの方が慌てる。
 その顔から先程まであった不安が多少なりとも消えた事を確認して、ルネットは断言した。
「大丈夫だ! 君にはそうする権利がある!」
「け、権利……!?」
「それはそうだろう。神殿は…焦ったのかもしれないが、君に選択の余地を与えるのを忘れているんだからね」
 ちゃんと説明する時間も、自覚させる時間も与えず、先へ先へと進ませた。
 いくら相手が幼い子供だからと言って、これは明らかに周囲の先走りとしか思えない。
 ── これだけの幼さで大神殿などに入れば、ケアンが将来神官以外の人生を選択する事はまずないだろう。
 この自分が神官の道を選んだのは、興味の対象が神殿にあったからで、それがなかったら故郷に戻って、ばかをやったり農作業をしたり、適当な所で嫁を貰ったり、子供が出来たり孫が出来たり…そんな風に生きた事だろう。
 …そんな想像が出来るくらいには、選択肢が与えられていた。
 神殿しか知らずに育った人間が、敢えて未知の世界で生きようと考えるとは思えない。
 だからこそ。
「いいかい、ケアン。これは年長者からの忠告だ」
 自分でもどうして数日ほどしか一緒に過ごしていないこの子供に、ここまで心を砕くのかわからなかった。
 特別子供好きでもなかったはずだし、お節介を焼くのは性に合わない方だったはず。
 それでも放っておけない何かが、ケアンにはあった。
「…あまり、人を怖がらない方がいい。僕のように何にでも首を突っ込め、とは言わないけどね。一人という事に…『特別』というものに、慣れ過ぎるのは良くないと思う。君の立場を考えると、臆病になる気持ちはわからないでもないがね」
「おくびょう……」
 繰り返した顔は、何処か神妙なもので。
 それはまるで、確かにそうかもしれないと自分を納得させているかのように見えて── 反射的にルネットはその額を指で小突いていた。

 ビシッ。

「そこで納得しない!」
「〜〜〜ッ!?」
 何の前触れもなかったせいか、それともそんな事をされたのが生まれて初めてだったのか、ケアンは驚きを隠さなかった。
 …正確には、痛みを隠さなかった。
 両手で額を押さえ、涙目でルネットを見つめてくる。
 実際、直接的な暴力を禁じられた神官の身で、そんな激しいツッコミを入れるのはルネットくらいのものである。
 うっかり加減するのを忘れたルネットは心の中で冷汗をかきつつ、しどろもどろに言い訳を口にした。
「え、えーと…ともかく、今のは…そう! いわゆる『愛の鞭』だから!」
「……」
 なんだかとても乱暴な理屈というか、言い分のような気がするのだが。と言うか、とても痛かったのだが。
 取り合えず何か自分が間違ったらしい、と素直なケアンは自分を納得させた。
「…もしかして、違う、と否定すべきだったんですか……?」
「そこまでの覇気があれば望ましいというか……」
 最初からそういう覇気があったら、今頃ケアンはこんな所にまで来ていなかったに違いない。
「まあ、つまりだな。嫌だと思ったら、ちゃんと相手に伝えろという事だね」
「でも…そんな事、失礼になるんじゃ……」
「だから子供のくせにそこで妙な遠慮をしない!」

 むに。

「……」
「……す、すまん。反射的に手が。今のは…その、いわゆる『教育的指導』だ、うん」
 何が起こったのかいまいち理解出来ていないケアンの顔から、両頬をつまんだ手を外しつつ、ルネットは下手な言い訳を述べた後に、はあ、と小さくため息をついた。
 これはどうも、ケアンの性格をもう少し前向きにする所から始めねばならないらしい。
(…まあ、先は長いし)
 旅は始まったばかりで、旅の終着点はまだまだ先だ。
 それまでに── 自分に出来るだけの事はしようとルネットは心に決めた。
 自分でもお節介だとは思うが…どう考えても、この様子では大神殿の百戦錬磨の『じい様』達にいい様に利用される気がしてならない。
 それはそれで、そういう人生もありだろうが…自分自身すら守る術を持たない者に、せめて一つくらい、武器を持たせてやりたいではないか。
 それが何か、まではまだルネットにも掴めていないが。それでも何かはあるはずだ。
 うっかり『人生の貧乏くじ』を引いてしまった、この気の毒な『同胞』の為の武器が。
「よし、先を急ぐか!」
 未だに状況がわかっていないケアンが見ている事にも気づかず、一人張り切るルネットはさっさと歩き出してしまう。
 ── 彼の言う、ケアンの『武器』がすでに自分を『負かして』いる事にも気付かずに。

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