領 主 夫 人 は  習 い 中

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「お目覚めですか、ミルファ様! 今日も良いお天気ですよ!!」
 南領に身を寄せてから、一月近く。
 その間にすっかり馴染んだ、朝の清々しい空気に負けない明るい声でミルファは目を開いた。
「…おはよう、サティン……」
 寝ぼけ眼で挨拶すれば、声の持ち主はにっこりと笑う。
「はい! おはようございます!」
 声に負けぬ明るい笑顔で閉じてあったカーテンを開けて回るのは、ミルファ付となった南の領館の女官で、名をサティンという。
 年は聞くところによると、幼い頃に両親を失った為に正確な年はわからないが、二十代中頃という事である。だが、一見しただけではとてもそうは見えない。
 せいぜい、十代後半といった感じである。詰まる所、童顔という事なのだろう。
 南領の生まれにしては、少々色素の薄い栗色の髪に焦げ茶の瞳。
 顔立ちは目を惹く美人ではないものの、柔和な女性らしい丸みを帯びた優しい顔立ちは愛嬌があり、その笑顔は見る者の心を和ませる力を秘めている。
 性格はと言えば、天真爛漫を絵に描いたような裏表のない無邪気さ。南領へ来た当初は慣れない場所と知らない人ばかりに囲まれ、何処か気を張る事が多かったミルファだが、サティンが側に付くようになってからは目に見えて肩から力が抜けていた。
 女官としての仕事振りは、手際が良いとも言えず、どちらかというと不器用な部類に入るのかもしれない。
 だが、一年近くも逃亡性格を送ったミルファは、自分の身の回りは自分で出来たし、少なくともその人選はミルファにとっては適していると言えた。
「今朝もご朝食はコリム様とジュール様が御一緒にとの事ですが、よろしいですか?」
 身支度を整えるのを手伝いながら、サティンがいつものように尋ねて来る。
 元より断る必要もないし、帝宮にいた頃は広い食堂に一人きりで食べるのが嫌で、無理矢理女官に付き合わせた事もある位だ。
 食事はやはり、一人よりは誰かと食べた方が美味しい。それが家族ならなおの事だ。
 多忙な祖父や叔父が、わざわざ時間を調整して合わせている事にもミルファはとっくに気付いていた。その気持ちを申し訳なく思う反面、嬉しく思う。
 だが──。
「もちろんよ。それで良いのだけど……」
 答えつつも、その言葉の後半は隠しようのない陰りが宿る。その原因に心当たりがあるサティンは、申し訳なさそうに俯(うつむ)いた。
「やっぱり、今日も…叔母上は姿を見せてはくれないのですね?」
「は…はい……」
 ミルファの声が沈む。それに釣られるように、サティンも身を縮めるように小さく頷いた。
 この一月に満たない時間の間に、ミルファも南領主の内部のあれこれを知る所となった。
 今は亡き母、サーマはあまり実家の事を話さなかったので、知らない事の方が多い。
 たとえば、母の上には母の違う兄が二人いて、それぞれが現在地方で生活しているという事も、南領に来てから知った事だ。
 そして── 叔父であるジュールの婚約者、すなわち未来の領主夫人となる人物についてもそうだった。
 すでにコリムの妻は亡くなっており、ミルファから見ると義理の叔母となるその人が実質的にこの領館の女主人と言える人物だ。
 いかなる理由か、まだ婚姻こそしていないそうだが、とっくに会って挨拶の一つはしていても不思議ではない人である。
 ── だが、しかし。
 もう一月にもなろうと言うのに、ミルファは未だにその人物と顔を合わせるはおろか、姿自体を見た事がないのだった。
「…やはり私は、叔母上に避けられているんじゃ……」
 まったく身に覚えがないが、ここまで来るとそう思えてくる。落ち込むミルファに、サティンが慌てたように首を振って否定した。
「ま、まさかそんな! そんな事ありませんよ!!」
「ですが、もうここに来て一月になろうとしているのですよ? 聞けば、叔母上となる方はこの館にいると言うではありませんか…。同じ館にいて、一度も顔を合わせないなんて不自然でしょう?」
「うっ、そ、それはそうですけど〜…」
 正論を突きつけられ、サティンも詰まる。
 ミルファとて、礼儀は弁(わきま)えているつもりだ。いかに皇女と言えども、匿(かくま)えと言わんばかりに急に押しかけてきた事は今も反省している。
 逆を言えば、皇女に対して挨拶の一つもないというのは、十分に不敬に当たる行為だ。将来、この南領をジュールと共に治めて行くであろう人がそれをわからないはずがない。
 実際、ジュールは幾度も顔を出すように言っているとの事だが、流石に強要出来ずにいるようだ。
「確かに…私がここに来たのは歓迎すべき事ではなかったと思います。南領には迷惑をかけてしまうと思いますし……」
「ミルファ様…あの、ええとですね。コーディア様はそういうつもりではないと思いますよ?」
「じゃあ、サティン。どういうつもりだと言うの?」
 切り返すとサティンは一瞬ぐ、と言葉に詰まった。しかしすぐに気を取り直すと、想像ですけど、と前置きをしてから口を開いた。
「きっと、単純に気後れしてるんですよ」
「…私が皇女だからですか?」
 予想外の言葉に、ミルファは目を丸くした。
 話を聞く限りでは、ジュールの婚約者── 名をコーディアと言う── はサティン同様、市井の生まれで身よりもないらしく、皇族に対して過剰に恐れ敬うその気持ちはわからなくもないのだが……。
 流石に一月である。ミルファがそうした過度の敬意を喜ばない事くらいはわかってくれても良さそうなものだ。
 ── これがミルファに対する、遠まわしな拒絶でなければ、だが。
「サティンだってこんな風に普通に話してくれるでしょう。気後れなんて……」
「わたしだって、最初はすっっごく緊張しましたよ? 粗相(そそう)があっちゃならないって。…実際、最初からやらかしてしまいましたけど」
 その時を思い出したのか、サティンはくすぐったそうに笑いを漏らす。
「最初?」
 言われたミルファは、サティンの言う『粗相』が何かさっぱりわからなかった。
「ほら、わたし、最初から『ミルファ様』って呼んでしまったでしょう。本来ならそこは『殿下』って尊称で呼ぶべきでしたのに。ジュール様みたいに血縁がある訳でもないのに直接名を呼ぶなんて、本当なら、本人から許されなければいけないのでしょう?」
「ああ……」
 確かにそんな決まりめいた事があった気もした。
 元々、南の離宮ではサーマの方針もあり、そうした堅苦しさが少ない場所だった事もあって、まったく意識の端にも上らなかったが。
 言われてようやく納得するミルファに、サティンは苦笑する。
 皇女であるという自覚はあるのに、それが特別であるという認識が薄いと言わんばかりの言動。他の皇族を知らないが、ミルファが変わっているであろう事は確かだった。
 ミルファの身分なら、すぐに顔を出せと命じる事すら出来るというのに。
「ミルファ様は恐れ多くも皇帝陛下の血を引いていて、更にコリム様の息女であられたサーマ様の血を引く御方です。皇女殿下なんて、一生お顔を見る事も、言葉を交わす事だってないはずの方。…一般庶民にとっては、今でもやっぱり雲の上の存在ですよ」
「…そういうものなの」
 呆然と呟くミルファの姿を見るに、やはりそうした認識がないのは明らかだった。
「ですから…コーディア様はミルファ様にどう接したらよいのかわからないんじゃないでしょうか。しかも、皇女様から『叔母上』なんて呼ばれるなんて、恐れ多過ぎて倒れてしまっても不思議ではありません」
 励ますようにきっぱりと言われた言葉に、ミルファはさらに途方に暮れた。
(…やっぱりいきなり叔母上と呼ぶのは、あまりにも図々しかったかしら……)
 単純に身内意識で呼んでいたのだが、まさかそれが原因だったのだろうか── そんな事を考えつつ、ふとミルファは気付いた。
「…サティン」
「はい?」
「サティンは叔母上に会った事があるの?」
 随分と説得力のある言葉に、そんな推測を抱いたのだが、サティンはその質問にひどく狼狽した。
「う、あ、…そ、そりゃあ…知ってます、けど。だって毎日顔を合わせますし……」
 答える言葉は歯切れが悪い。心なしか、目が泳いでいる気さえする。
 何なのだろうと訝(いぶか)しんでいると、ミルファが口を開く前にサティンは音を立てて手を合わせた。
「お願いですから、引き合わせろって言うのは止めて下さい! 後生ですから!」
 一体何事かと思うほどの嫌がりように、ミルファは眉を顰(ひそ)めた。
「…? 叔父上ですら出来ない事を、サティンに押し付けたりはしないけれど……。ただ、教えて欲しいだけ。どんな方なのか」
「どんなって……」
 ミルファの願いに困ったように考え込み── しばらくして、サティンはそうだとばかりに手を打った。
「それなら他の女官とか使用人に聞いてみてはどうでしょう。わたしだけより、人となりがわかるんじゃないでしょうか」
「他の? でもそれは…自分の知らない場所でそんな事を聞き回られたら、叔母上もいい気がしないのでは……」
「大丈夫です、その当たりは根回ししておきますから!」
「根、根回し……?」
「そうと決まればまずはお食事です! さ、コリム様とジュール様がお待ちですよ。その間にわたしはお部屋を片付けてから、みんなに話をつけておきますからね♪」
「え、あの、サティン…、あの?」
 思いがけない押しの強さに流され、そのまま部屋の外へと送り出されてしまったミルファは、言われた通りに食堂へ向かいつつ首を傾げた。
(何で…こんな事に……?)
 おそらくその疑問には、ミルファに仕える博識な某呪術師ですら答えられないに違いなかった。

+ + +

 祖父と叔父と共に食卓を囲んだ後、自室に戻ったミルファを連れてサティンが向かったのは、領館の敷地内にある離れだった。
 南向きに大きな窓を切り取られた居心地の良い広い部屋には、老若男女幅広い人々が思い思いに寛いでいる。
 一見平和そのものだが、よく見れば身体の何処かに白い包帯が巻かれていたり、顔色が良くない者で占められている事がわかる。
 そう、ここは病や怪我を癒す人達の為の場所── 医療院だった。
 話には聞いていたものの、ミルファがここに足を踏み入れるのは初めてだ。
 ここには基本的に身寄りのない者が入っているらしいが、このような施設を領主が自らの館に作っているのは南領だけだろう。
 物珍しさと、祖父であるコリムの仕事を確かめたいという気持ちで周囲を見回していると、いつの間にか側を離れていたらしいサティンが一人の女性を引っ張って来るのが見えた。
 見るからに来るのを嫌がっている所を、無理矢理に引っ張ってきている様子である。
 女性にしては背が高く、女性らしい丸みに欠けた身体を白い服で包んだその人物は、サティンに何かしら文句を言っていたようだが、ミルファの姿を見ると僅かに目を丸くして口を閉じた。
「お待たせしました、ミルファ様!」
 女性の仏頂面とは対照的にサティンの顔は明るい。
 逃がすまいとばかりにがっちりと抱え込んだ腕に、何となく罪悪感を感じつつ、ミルファは女性に目を向けた。
「…こちらは?」
「コーディア様とは姉妹のように育った人です。まずはこの人が一番かなと思いまして!」
 本人が口を開く前にサティンが上機嫌に紹介する。
 女性はその様子に抗うのを諦めたのか、小さくため息を漏らすと、軽く一礼した。
「初めまして、ミルファ様。私はリヴァーナ=シアル=トリークと申します。こちらで医師として働いております」
 紡がれる少し低めの声音は淡々としていて、表情同様に感情が乏しい。
 不機嫌なのか元々そうなのか計りかねたが、仕事中に無理矢理引っ張って来られた感は否めない。ミルファもすぐに頭を下げた。
「忙しい所ごめんなさい。私が叔母上となる方がどんな方か知りたいと言って……」
「そのようですね。これから簡単な事情は聞きました」
 横目でサティンに視線を投げつつ頷くリヴァーナの様子から、この物言いは本来の性格からのようだと判断したミルファは、にこにこと笑うサティンに目を向けた。
「姉妹のようにって事は、もしかして叔母上も医師を…?」
「いいえ、コーディア様は元々この館で女官として働いてました。その辺りの事もこちらのリヴァーナの方が詳しいと思います」
 ね、とサティンに視線で促されたリヴァーナは同意するように頷いた。
「あれが医師になったらこの世の終わりです」
「それはちょっとひどくない、リヴァーナ…」
「事実でしょう。あれの不器用さと学習能力のなさは一種の才能です」
「……」
 無表情に語られる言葉のひどさに、ミルファも何と言っていいのかわからなかった。
 歯に衣着せない言い様は姉妹のように育った者故の率直さなのか、それとも性格なのか── おそらく両方なのだろう、とミルファは結論した。
 最初から否定的な言葉が出るとは思わなかったのか、サティンの顔も強張っている。
「で、でも…いい所もあるわよね?」
 自分でこの状況を作ってしまった負い目からか、サティンは涙ぐましい努力を見せた。
 そんなサティンを一瞥し、ちらりとミルファに視線を流すと、リヴァーナはしばし考え込むように沈黙する。
(…考え込まないと出て来ないの……?)
 あの叔父が選んだ人ならば、おそらく誰もが認める女性なのだろうと漠然と想像していたミルファは、心の中で少し後悔していた。
 もしかして自分は、踏み込んではならない部分に踏み込んでしまったのではなかろうか──。
 やがてサティンとミルファが沈黙に耐え切れなくなりかけた頃、ようやくリヴァーナは口を開いた。
「…私から見れば、コーディアは欠点だらけです」
 それは言外に救いようがないと言わんばかりの言葉だ。だが── 何故かリヴァーナの口調は何処となく柔らかなものになっていた。
「ミルファ様、『亀』という生き物をご存知ですか」
「かめ…?」
「南領の端、南海に生息する生き物なのですが。機会があれば一度ご覧になるといい。コーディアはあれにそっくりです」
 そっくりと言われても、それがどんな生き物なのかミルファにはさっぱりだった。
 きっぱりと言い切る言葉に、サティンの顔が若干強張った所から、どうやらそのたとえはあまり良いものではないらしいと判断するばかりだが。
「一体、それはどんな……?」
「それはもう、非常に行動が遅い動物なんです。泳ぐのは達者らしいんですが、陸地に上がると人の何倍も遅くしか動けない」
「…な、なるほど……」
 つまりそれだけ鈍臭いと言いたいのだろうか── いい所を考えて結局欠点が出て来るのはあまりに救いがない気がする。
 そんな考えを見透かしたのか、リヴァーナはけれど、と言葉を繋いだ。
「けれど…どんなに障害があろうとも、どんなに時間がかかっても、彼等は目的に向かって進みます。コーディアもそうです。失敗しようとも、最後まで諦めない。見た目によらず根性があります。その点だけは、私も評価していますよ。…今すぐには無理でしょうが、先はひょっとしたらひょっとするかもですね」
 やはりあまり誉めているようには聞こえなかったが、言葉の端々に感じられる親愛の情に、ミルファはこの人は確かにコーディアをよく知る人だと思った。
 誉める事なら相手を知らなくても出来る。だが、先に欠点を上げた上で相手を誉める事は余程親密でもなければ出来ない事だろう。
 リヴァーナは言う事は言ったとばかりに、すぐに医療院の奥へと戻ってしまったが、流石にサティンはそれ以上引き止めなかった。
 こういう人なんです、と苦笑しつつ、ミルファを次に連れて行ったのは女官の詰め所だった。
「コーディア様の元同僚達ですからいろいろ聞けると思いますよ!」
 そう言ったサティンは、しかし中には入ろうとしなかった。
「ミルファ様が話を聞きたいって事はもう話してあります。本当はご一緒したいんですけど…わたしも仕事があるので、ちょっとだけ失礼していいですか?」
「ええ、それは構わないわ。一通り聞いたら自分で部屋に戻るからサティンは自分の仕事をして頂戴」
「ありがとうございます、それじゃ行って来ますね!」
 軽く一礼してサティンが立ち去ると、何だか急に静かになった気がした。
 いるだけで明るい空気を醸し出すサティンに、皇帝や帝都の状況に心を悩ませるミルファもかなり救われたものだ。
 先程のリヴァーナの言葉を借りると、これがサティンの才能なのかもしれない。
 そんな事を思いながら、ミルファは詰め所の扉を叩いた。

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