天 秤 の 

序章(1)

 月が、泣いている。
 赤く染まって、嘆いている。

「……ハハ………アハハハ………!」

 鼓膜を振るわせるのは、狂気じみた哄笑。
 笑っているのに、どうしてだろう、まるで苦しんでいるように聞こえてくるのは。

 ── 月が、見下ろしている。

 そう言えば、いつか聞いた。
 月が満ち欠けを繰り返すのは、それが陰陽の天秤を司るからだと。
 光は影なしには存在出来ず、影もまた光なしには存在出来ぬ。時には光が、時には影が重みを増す事があろうとも、それはやがて元の重みに戻ってゆく。
 それこそが、自然の摂理。
 互いに影響し合い、それぞれにないものを補い合うのは、光と影のみにあらず── そんな事を話してくれたのは、果たして誰だっただろう。
「…滅びるがいい……」
 軋むような声が、呪詛を紡ぐ。
「絶えてしまえ…こんな、世界なぞ……!」
 窓から差し込む月の光が、大きな黒い影を浮かび上がらせていた。
 人の、影だ。
 その足元にも、また一人。けれどもその影は力なく横たわり、もう二度と動く気配を感じさせない。
 ふと風に乗って、何処か潮をイメージさせる生臭い匂いが届いてきた。
 これは、一体何だろう。
 正体がわかっていながらも、頭は働かず、そんな事だけを思う。
 ふと、影がこちらを振り返った。
 逆光でその表情は見えない。けれどもその顔は、自分のよく知る人のもののはずだった。誰よりも敬愛する人のもののはずだった。
 …なのに。
 どうしてそこから、恐怖しか感じないのだろう……?
 扉の影から覗いているのに気付いているのか、いないのか。その影はまるで獲物を求める獣のように、ゆっくりとした足取りで自分の方へ向かって来る。
(…逃げなきゃ)
 迫ってくる人影に、凍りついた心がそう命じる。
 けれども足は竦んで動かない。目の前にある光景が、悪夢のようにしか思えなくて、この期に及んでまだ信じようとする。
 やって来る人が、自分を害するはずがないと。
 あと僅かで扉が開かれる── そう思った時、不意に誰かに強く手を引かれた。
 強引に扉から引き離されたかと思うと、そのまま横の小部屋に連れ込まれる。そこは衣裳部屋で、奥に潜り込めばおいそれとは見つからない。
 まだ思考の追いつかない自分の身体を、あまり大きさの変わらない誰かが抱きかかえるようにして奥へと連れてゆく。
 何者か確かめなくても、その人物に恐れは感じなかった。
 この衣裳部屋が隠れるのに絶好の場所だと知るのは、自分以外ではあと一人しかいないのだから。
 言葉一つ交わさなかった。何が起こっているのか、どうしてこんな所に隠れなければならないのか、そんな事を尋ねる事もなかった。
 …ただ庇うように身体に回された温もりに、そう言えばこんな風にこの人が自分に直接触れたのは一体何年ぶりだろう、そんなどうでもよい事を考えるばかりで。
 そしてふと気が付くと、意識は闇に堕ちていた。

+ + +

 …ザアアア……アアア……

 雨が激しく地面を叩いている。
 
 ……オォ…ォォ……

 遠くで風が吼えている。
「……」
 ぽたりぽたり、と地面に滴り落ちる雨の雫を踏みしめて。
 彼は大事に大事に抱えていたそれを、そっと目の前にあった古びた椅子に座らせた。
「…はあ……」
 緊張の糸が、瞬間切れる。
 思わずついた吐息を恥じるように、彼はすぐさま表情を改めた。
 …── まだ、何一つ終わっていないのだ。
 古ぼけ、煤(すす)けた壁に囲まれた小さな部屋だった。否── 小屋と言っても過言ではない。何しろその部屋以外には、部屋と呼べる場所は他にはないのだから。
 屋根は低く、しかも隅は破れて穴が開いていた。激しく降りつける雨をそのまま受け入れ、その辺りはすっかり水溜りになっている。
 床は板を張られておらず、剥き出しの土のままだった。雨のせいか、それとも元からか、じわりと土独特の臭いが立ち上がり、その狭い部屋に篭りつつある。
 廃屋── おそらくは、そう表現できる場所。
 彼はぐるりと周囲を用心深く見回した後、再び椅子の上に下ろしたものへ目を向けた。
 厚手の布を被り、さらにその上に半分破れかけてはいるものの、まだ何とか形を保っている雨よけのマントを被せられたそれは、激しい雨の中を来たとは思えない程に濡れた様子は見られなかった。
 唯一、外から来た証があるとしたら、そこから覗く二本の細い足にある華奢な靴が、部分的に濡れた土で汚れている事くらいだろうか。
 …それは、一人の少女だった。
 彼はそっと被さっているマントと布を取り、彼女がまったく濡れていない事を確認する。 対照的に彼はと言えば、頭からずぶ濡れとも言える有様で、動くだけで腕や髪から雨の雫が落ちてくるような状態だった。
 体温を雨に奪われた為か、唇は色を無くし、指先も小さく震えている。それでも── 彼は少女が雨に濡れずに済んだ事がわかると、心底安堵したようにその強張った口元に微笑みを浮かべたのだった。
(良かった、良かった、良かった……)
 心の中で繰り返す。
 濡れて冷えているだけでなく、今までの道中ですっかり雨と泥とで汚れた手を取り去った布で出来るだけ綺麗に拭うと、そっと僅かに乱れていた少女の足元を整えた。
 そうされている間、少女は身動き一つしない。まるで等身大の人形のように、じっと椅子に座っている。
 年の頃は十二、三歳程。
 漆黒の黒い髪は長く、緩やかな波を描いて背と肩を流れ、長い睫毛に縁取られた大きな目にあるのは、淡い緑の瞳。
 それは光の下では更に透きとおり、さながら宝石のように輝くが、今は暗く沈んでいる。…瞬き一つ、しない。
 花びらのような唇は固く結ばれ、かつては薔薇色に染まっていた頬は蒼白だった。
 ── 少女は生きながら、同時に死んでいた。
 呼吸はしているし、心臓も動いている。けれど、その中にある精神が完全に現実を放棄していた。
「…ミルファ……」
 彼はそっと呼びかける。
 けれど、やはり少女は無反応だった。その様子を痛ましげに見つめながら、彼は自らの唇を噛む。
(── どうして、こんな事に)
 思い返すのは、ほんの一日前に起きた惨劇。
 取り返しのつかない事態になってしまってすら、誰一人それが起こった事を信じきれずにいた。
 …もしかしたら、それを引き起こした張本人ですら、その瞬間まで自身に生じつつあった変化に気付いていなかったのではないか、そう思える程に。
(急がなくては)
 …雨音は次第に激しさを増し、世界からそれ以外の音を消し去る勢いだ。それだけが唯一、彼にとっての救いだった。
(…ミルファ)
 何一つ瞳に映さない少女に、心の中で語りかける。
(もしかしたら、僕がこれから行う事は…君を苦しめるだけかもしれない)
 瞳は少女に向けたまま、震える指で濡れた服の胸元を探る。
 やがてチャリ、と小さく金属の触れ合う音と共に、首からかけていた鎖が引き出された。その先にあるのは── 爪の先程の大きさの、空の色をした珠。
 それは、この世界における神の祝福を受けた者のみに与えられる、『聖晶』と呼ばれるものだった。一人一人形と色が異なり、生まれ落ちたその時に、その手に握って生まれてきたもの。
 誰もが持つ物ではない。実際、世界を支配し統べる皇帝すらも所有してはいなかった物だ。それを…首から外す。
(君は、僕を憎むかもしれない── それでも)
 決意を込めた瞳は、少女から掌にある珠に移り、また少女に戻った。そして一瞬躊躇った後で、それを少女の無防備な膝の上にそっと乗せた。
「…感傷、かな」
 ぽつりと呟く。
 浮かんだ苦笑は、嘲笑を帯びていた。この期に及んで、まだ迷いのある自分を嫌悪するかのように。
「……」
 神の守護を取り去り、もはや彼を守るものは何一つない。
 彼の指がまた動き、今度は腰の辺りから細い短刀を取り出す。護身用とも呼べない華奢なそれは、それでも彼の望みを叶えるには十分だった。
 鞘を抜き、刃を確かめる。
 …曇りもなく、刃こぼれもない。それを確認すると、彼は一度深呼吸した。
 そして。
「……ッ!」
 一息に、短刀を持つ手とは反対側の手首を切り裂いた!

「…メイ…カリェン…ダルーナ・マティオス……」

 吹き出す鮮血をそのままに、彼は言葉を口にする。その声は微かに震え、雨音に紛れそうなほどにか細かった。

「グリナ…ラーナ・セルヴ…──」

 ぽたり、ぽたり、と血は決して浅くはない傷口から溢れ、剥き出しの地面に滴り落ちる。
 薄闇にも鮮やかなその赤は、たちまち地面に吸われ、どす黒い色へと変化した。その場にあった土の臭いは、鉄錆びたような血のそれにとって変わられてゆく。

「…カリェン・イ・ウェルシュ・ムーザ…イスト・ケルプ・ラーナ・ソアラ!!」

 最後は思いの全てをぶつけるような勢いで紡がれた言葉は、瞬時に彼の求める現象を引き起こした。
「……っ!」
 手首に鋭い痛みが走り、歯を噛み締めてそれに耐える。
 …一体いつの間に現れたのか、そこには一匹の蝙蝠が張り付き、溢れる鮮血を啜り上げていた。
 彼はそれを驚いたように凝視し、やがてその口元に歪んだ笑みを浮かべた。
 ── 召喚は、成功したのだ。
 やがてひとしきり彼の血を吸った蝙蝠が、ばさりと飛び上がる。そして。
《…神の稚児(ちご)よ》
 蝙蝠の口から、神経に障る『声』が紡がれた。
《その血を我に捧げ、その命を代償に何を求める》
 彼はその問いかけに迷う事なくこう答えた。


「── 我が主に、玉座を」

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