天 秤 の 

序章(2)

 …虚ろだった瞳に、ゆっくりと生気が戻り始めた。
 頬に赤みが差し、固く結ばれていた唇が綻ぶ。やがて数度瞬きをした少女は、見慣れぬ周囲の様子に怪訝な顔をした。
 ここは何処だろう。なんて古ぼけて汚い場所だろうか。
 雨音がやけに大きく聞こえると思ったら、屋根に穴が開いているし、何か異臭がすると思えば、足元には床ではなく土がそのまま剥き出しになっている。
 ── こんな場所は、知らない。
「…お目覚めですか、我が君」
「!」
 突然声をかけられて、その薄い肩が跳ねる。
 聞こえてきた声と言えばひび割れ、まるで地面の底からのもののように低く掠れている。…聞き覚えのない、老人の声だった。
 声の方── 背後にそろそろと目を向け、少女はぎょっと目を見開く。
 そこにまるで闇を人の形にしたような人物が、影のようにひっそりと佇んでいたからだ。
 頭からすっぽりと赤みを帯びた黒い布を被り、かろうじてその輪郭で人である事がわかるものの、顔は元より、その下にどんな姿が隠されているのか全くわからない。
「…だ、誰だ、そなたは?」
 それでもここで臆する事を恥じる誇りと勇気を総動員して誰何すると、影のようなそれはゆらりと頭を垂れ、先程の不気味な声でぼそぼそと答えた。
「我に…貴女様に告げられるような名などございませぬ」
「…どういう意味だ?」
 不審も露に眉根を寄せる少女に、それは答えなかった。
 ただ、布の隙間から出した白く痩せ細った、まるで骨そのもののような手を胸に当て、従僕が主人に対して取る礼を取るばかり。
「── わたくしを、主だと?」
 それはゆっくりと頭を縦に振った。
 少女は困惑する。一体、何がどうなっているのだろう。自分が今、何故こんな汚い場所にいるのかさえよくわからないのに──。
 するとその困惑を読み取ったように、それは再び口を開いた。
「…皇帝が乱心なさいました」
「── 何……?」
「現在、皇帝はその血に連なる全ての者を絶やそうとなさっております。…すでに七人おられた皇子及び皇女殿下の内、お二人は河岸をお渡りになられました」
「…ばかな……」
 それの陰々と響く声が紡いだ話は、到底信じられるものではなかった。
 『二人は河岸を渡った』と言った。つまりそれは… 自分の上に六人いた兄と姉の内、二人がもうこの世の者ではないという事だ。
 その全てと仲が良かった訳ではないが、血の繋がった兄姉だ。死んだと聞かされて平静でいられるはずもない。
 …それ以前に。
 皇帝── すなわちそれは彼女の実の父のこと。
 時として非情な決断を下す事もありはしたが、大体において優れた治世を敷き、名君の誉れも高かった。そして少女にとっては、もっとも敬愛する人だ。
 強く、厳しく── そして優しい父。その人が…自分や兄弟を殺そうとしているなど、どうして信じられるだろう。
 しかし黒衣の人物は、そんな彼女の心を見透かしたように更に言葉を重ねる。
「皇帝は…この世界すらも滅ぼしておしまいになるおつもりです。《開闢の間》の封印は解かれ、《陰陽の秤》は壊されました。…かくなる上は、現皇帝を廃し、新たな皇帝を立てるより他はございませぬ」
「…何を根拠に、そのような事を……!」
「根拠は、これに」
「!?」
 怒りに任せて椅子から立ち上がった彼女に、それはずい、と何かを突きつけた。
 思わずそれを凝視した少女は、やがてその顔を蒼白にして絶句する。
 それは鏡の破片だった。しかしただの鏡ではない。
 人の姿ではなく── 過去や未来を望んだ者に見せる特殊な術がかけられていたもの。
 …かつて、《開闢の間》と呼ばれた封印の間の入り口にあったものだ。特殊な文様を端に刻まれたそれを、見紛うはずがない。
 それが割れてここにあるという事は、すなわちその部屋の封印が解かれたということ──。
「…そんな……」
 呆然と立ち尽くす幼さをまだ色濃く残す少女に、それは静かに告げた。
「皇帝の御座につかれませ、皇女ミルファ様」
「…わたくしが……? …お前はわたくしに、父を殺せというのか!?」
 言葉の重さに青ざめる少女──ミルファに、それは怯む事なく言葉を返す。
「これより、この世は地獄と化しましょう。光と影の均衡が崩れた今、闇に葬り去られたはずの悪しきものも目覚め…数多の命が失われてしまうに違いありませぬ。…それを止められるのは、新たな皇帝だけです」
「兄や姉がいる!」
「…他の御兄姉もその内動かれるでしょうが…わかっておられるか。もっとも年若い貴女だからこそ、皇帝は簡単に命を奪えるとお思いになっておられる」
「…っ!」
「── 直に刺客がここにも来るでしょう。だが、その数は恐らく他の皇子・皇女殿下へのそれよりは数少ないはず」
 つまり── 逆を考えるなら、もっとも生存率が高いのは彼女だということ。幼いから…非力だからこそ、効率を重んじる皇帝は精鋭をこちらには向けてこないに違いない。そう言っているのだ。
 皆まで言われずとも、聡い彼女にその意図は伝わった。
「…お前は、一体何者だ?」
 まだ顔は青ざめていたものの、先程よりは心は落ち着いていた。
「何故── わたくしを主と呼ぶ?」
「……」
 それは答えなかった。
 沈黙したまま礼を解くと、手にしていた鏡の破片を改めてミルファに差し出す。
「…御覚悟はつかれましたか?」

 やはり地面の底から聞こえてくるような陰気な声が、逆に尋ねる。
 しばらくじっとその表情の見えない顔の辺りを見つめ── そしてミルファはその破片を手にした。
「…わたくしだって、死にたくはない。父を殺す事は…まだ決心はつかないが、皇位を目指す事が生き延びる唯一の道だと言うのなら── 進むしかない」
 その苦い答えに、それは微笑んだようだった。
 おや、と思う。
 当然ながら表情は見えないが、そんな外見には似つかわしくない柔らかな空気が生まれたような気がして。
 けれど次の瞬間にはそれは消え失せる。それは恭しく頭を垂れると、厳かに言った。
「ならば、僅かなりですが助力いたします」
「助力?」
「…この身が滅ぶまで御身のお側に仕える事をお許し下さるのなら、何人にも御身を傷つけさせない事をお約束いたしましょう」
 言われた言葉は途方もない事で、ミルファは目を丸くした。
 目の前の細い体。背は彼女のそれよりも随分高いが、唯一目の当たりに出来る手の様子から見て、どう考えても力のなさは大して変わらないように思える。
 そんな形(なり)で、どうやって父の手から放たれるだろう、屈強の刺客を退けると言うのか。
 けれど…父に命を狙われ、周囲に他に頼れる人間が一人もいないかもしれないこの状況で、助力を申し出てくれる存在はありがたい。それに自分以上に実情に通じている。
 何者かもわからないし、ひょっとしたら人間ですらないのかもしれないが── ミルファは決意した。
「わかった、許そう。そなたの働き…期待している」
 不安もある、信じたくない気持ちも強い。
 だが真実を知るにはまず、何よりこの場を切り抜け、生き延びなければならない。目の前の人物が何者だろうと、要は完全に心を許さなければいいのだ。
 そう思いながら、黒い布に隠れて見えない顔を辺りを真っ直ぐに見つめる。するとそれは暗い声に微かな喜びを漂わせて答えた。
「…ありがたき幸せでございます」
 その一瞬、表情を隠す布の隙間からそれの目が見えた。
 ── 不思議な色合いの、青。紫や緑を微かに帯びた…まるで、空のような。
(── ?)
 感想を抱いた瞬間、何かを思い出しかけた。
 けれどもすぐにそれは消え失せた為、ミルファはすぐに気のせいだと片付けた。状況が状況だけに、ゆっくりと物思いに耽る余裕もなかったとも言えるが。

+ + +

 ── 世界を治めるべき皇帝の乱心は、それまで平穏だった世界を混乱に導いた。
 自ら血を分けた子の命を狙う皇帝と、その凶行を止めようと抗う皇子・皇女の争いは、次第に世界全てを巻き込んで発展して行く事になる。
 長い…実に十年にも及ぶ混沌の時代はこうして幕を開けた──。

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