天 秤 の 

第一章 皇女ミルファ(1)

 しん、と水を打ったように静まりかえった内庭に続くバルコニーの扉を開く。
 ほとんど軋む音などしなかったし、まだ外へ姿を見せてもいないのに、静寂は盛大な歓声で打ち破られた。

「ミルファ様!」
「皇女殿下!!」

 口々に彼女を呼ぶのは、決して狭くはない内庭に所狭しと立ち並ぶの戦士達だった。
 男もいる、女もいる。
 老人もいれば、まだ戦うには早いのではないかと思えるような子供の姿まで。
 それをぐるりと見回して、ミルファはバルコニーへと足を踏み出した。
 わあっとひときわ声が高まる。それに微笑みで応え、ミルファはしばし場が静まるのを待った。

「…我が、忠実なる兵士達よ」

 引き潮のように歓声が見る間に小さくなるのを確認して、ミルファは口を開いた。
 そこから零れ落ちるのは、凛とした涼やかな声。甘さはないが、代わりに聞くものに一種の感銘を与える、選ばれたごく一部の人間だけが持つ声だ。

「集まってくれて、ありがとう。心から礼を述べます。…すでに話は聞き及んでいるかと思いますが、狂帝の軍がセイリェンの地まで迫りつつあります」

 決して張り上げている声ではないのに、彼女の声は内庭にいる全ての者へと届いた。老若男女、そこに集う全ての者の顔に緊張が走る。
 ── 狂帝。
 それはかつてこの世界をよく統べ、名君とも呼ばれた人物のこと。
 ある日突然乱心し、四方の地── 帝都を中心とし、方角に合わせて北領、東領、西領、南領と呼ばれる地方──より嫁いだ四人の后を全て惨殺し、更に血を分けた我が子までも殺そうとしている男のこと。
 …ミルファの、実父。
 彼が引き起こした災厄は、まだ記憶に生々しい。すでに、七人いた皇子・皇女の内、半数以上が実の父によってその命を散らしていた。
 当然、彼等もただ殺された訳はない。自分の命を守る為、そして凶行を働く父を諌める為、自ら武器を取り戦った者もいるし、身分を偽り姿も名も変えて、各地を逃げ惑った者もいた。
 それでも── 皇帝はいかなる手段を持ってか、自ら動く事なく彼らを追い詰め、その罪なき命を奪い去ったのだった。
 そればかりではない。その戦いに巻き込まれ、家や家族を失った民の数も相当の数に上った。
 追い討ちをかけるように、遠い昔に闇へと葬り去られたはずの魔物が現れ、そうして寄る辺を失った人々を襲い、民もまた恐怖と混乱に叩き落されたのだった。

「かの地は、この南領の要所。落とす訳には行きません」

 ミルファの言葉を真剣に聞くのも、彼等にとて今の状況を何とかしたいと思っているからに相違ない。その事を心強く思いながら、ミルファは腰に下げていた細剣を、空に向かって捧げ持った。

「…進軍!」

 彼女の号令で、全てが動き出す。
 兵士、そしてそれを指揮する指揮官、彼らを補助する斥候や、呪術師に施療士が、それぞれに応じた働きをする為に── 自らの忠誠を捧げた彼女の為に戦いの場に赴く。
 …命の保障のない、戦い。けれども彼等にとって、それはすでに日常茶飯事の事になっていた。

+ + +

「…お疲れさまです、ミルファ様」
 中庭に面したバルコニーから室内へと退くと、彼女の背にひっそりと陰鬱な声でそんな言葉がかけられた。
「何を言う。…ただ号令をかけただけだろう。私自身はなんら疲れるような事はやっていないが?」
 ミルファは驚いた様子も見せずにそんな返事を返す。
「……」
 その言葉に鼻白んだ訳ではないだろうが、背後の人物は沈黙した。
 ただ、気遣うような気配は伝わってきて、ミルファは小さくため息をつく。
「…ザルーム。心配してくれるのはありがたいが、私はそこまで柔ではないぞ?」
 くるりと振り返れば思った通り、見慣れた赤黒いローブをすっぽり被った長身の人物がそこに控えていた。
 『影』という意味を持つ名で呼ばれる彼が、こうして彼女を心配するのは何時もの事だったが、時折それが子ども扱いされているような気がして、ミルファは訳もなく苛立つ。
「我が君…人の命を背負うという事は、自覚がなくとも重責でございます」
 ザルームは表情を隠す布の向こうから、そんな事を静かに告げる。
「わかっている……! だから無理などしてはいないではないか。…もう、五年だぞ? お前は私を、まだ十二の子供と思っていないか」
「そんな事は……」
「いいや、絶対に思っている。…いいか、私はもう子供ではない。自己管理くらい自分で出来る!」
 一気に言い放つと、そのまま背を向け、後も見ずに部屋を出て行ってしまう。
 …そんな風にむきになる辺りが、まだ彼女が十七歳の少女である事を示していたのだが、本人にはその自覚はなかった。
 彼は布の内で苦笑する。そして同時に思う。
 ── もう、五年も経ってしまったのか、と。

+ + +

 廃屋で主従の誓いを交わしてから、ミルファとザルームは共に死線を潜り抜けてきた。
 今まで都の帝宮で何不自由なく育てられていたミルファが、こうして今も生きていられるのは、確実にザルームのお陰としか言いようがない。
 出会った当初は得体の知れない容貌と言い、唯一目の当たりに出来る手の骨のような有様に、一体どれだけの事が出来るのやらと思っていたミルファだったが、間もなくその認識は改められる事になった。
 彼は博識な上に、同時にとても強い力を持った呪術師でもあったのだ。
 呪術師とは只人には持ち得ない人知を超えた力を有する者で、それまでそうした者との接点がなかったミルファこそ、その存在を知らなかったが、決して珍しい者ではない。
 確かに今のような有事でもなければ、その能力の大半は普段の生活には役立たないものが多い。
 手を使わずに物を動かす力や、何もない所から炎や水、光を出す力。あるいは、古から伝わるという秘術。
 それらは人の病を癒す施療士や医師のように、人の役に立つものではないから。
 けれども、その異能と特殊な知識により、彼等はまた人々の中では特別視される存在でもあった。
 年に数度ある祭事に、彼等は必要不可欠だ。もはや絶えて久しい太古の言葉を諳んじられるのは彼等だけだし、供物となる獣を仕留める際、彼等の術は武器による攻撃よりもずっと確実だ。
 そんな知識を知ったのは随分後の事だが、共に過ごす日々の中、気が付くと最初に抱いた警戒心は薄れ、今はミルファにとってなくてはならない存在となっていた。
 父から送り込まれる刺客を撃退しながら、この亡き母の生地である南領へと辿り着いたのは、あの嵐のような晩から一年近くが過ぎようとする頃の事だった。
 ここで、二年前の夏にミルファは挙兵した。弱冠十五歳にして、引き返す事の出来ない道へと足を踏み出したのだ。
 …周囲への呼びかけ、協力の要請に一年。
 兵士を募り、その編成と訓練にまた一年。
 その間に祖父である前南領主が亡くなり、母の兄弟と共にその事後処理もせねばならず、五年の月日は瞬く間に過ぎていった。
 七人いたはずの兄弟も彼女を除けば、現在二人しか生きていない。
 五年の間に、様々な事があった。
 危うく死ぬ場面にも幾度も遭遇したし、父の軍に勝てた事も、また逆に惨敗した事もある。
 その全てがミルファを育てた。
 今やミルファは、現皇帝に対して反乱の意志を持つ者の、絶大なる旗頭になりつつある。
 現皇帝の娘である事ではなく、ミルファ自身のその資質をもって人々に慕われているのだ。
 …けれどもまだ、父である皇帝への道は険しい。今は南領を守り抜く事だけで手一杯の状態だった。
(…焦りは、禁物)
 廊下を突き進みながら、ミルファは自分に言い聞かせた。
 …が、先程部屋に置き去りにしたザルームが、口癖のようにミルファに諭す言葉なのを思い出して僅かに唇を歪める。
 今のミルファにとって、片腕とも呼べる存在。従者という意識は薄れ、もはや身内のような感情すら抱きつつある事を認識せずにはいられない。
 …本当はわかっているのだ。
 彼に対してそういう感情を持つべきではないと。
 何処の誰かもわからない人物だ。その素顔すら、未だにミルファははっきりと見た事がない。
 あの誓いの後、彼は呼び名がないと不自由なら『影』と呼ぶようにと言った以外、自らの事を決して明かそうとはしなかった。
 どのような意図があって、自失状態にあったミルファを帝宮からあの廃屋まで連れ出したのか。
 どうして、多くいた皇子・皇女の中からミルファを主に選んだのか──。
 …彼は何も語らない。
 けれど最初の誓い通りに、彼はその力を如何なく発揮して、数々の危機からミルファを守ってくれた。
 無事に南領に辿り着いてからは、主に参謀として彼女の手助けをしてくれている。
 決して表立って姿を見せようとしないので、限られた者にしか彼の存在は知られていないが、その働きがなければ、こんなにも早く挙兵は出来なかっただろう。
 彼は本当にその名の通り影のごとく、ただ忠実にミルファに従う。
 …だからこそ、気を許してはならないのだ。
 心を許してしまった後、もし彼に裏切られたなら── きっと、二度と立ち上がれない程に自分は打ちのめされる。
 そんな予感を強く感じるから……。

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