天 秤 の 月
第一章 皇女ミルファ(15)
「──
ッ!!」 次の瞬間、ぎりっと心臓をわしづかみにされたような激痛が胸を走り、ソーロンは声にならない絶叫を上げた。 それが背後の人物の仕業である事は、言われずともわかった。 「…ああ、夜が明けてしまう。早々に片を着けるとしましょうか」 ふいっと首から指が離れたと思うと、背後にいた人物が彼の前へ移動する。 頭からすっぽりと全身を覆い隠すような黒い布に、身体の線を見せない同色のローブ。朝焼けを背に立つその姿は、以前、彼の前に姿を見せた呪術師を思い起こさせた。 そう思うと、聞こえてくる声までもが似て聞こえるから不思議だ。 「…さて、殿下」 「…?」 「このまま私に、生きながら心臓を潰されるのと──」 布の内から、パチリと指を鳴らす音。 「…我が下僕に八つ裂きにされるのと、どちらがお好みですか……?」 「!?」 ぎょっと目を見開いたのは、その言葉の残酷さの為ではなかった。 …ゆっくりと、だが確実に昇り行く朝日。 その光の中、何もないはずの空間がゆらりと揺らいだかと思うと、そこから数人の人間が現れたのだ。いずれも帝軍の甲冑を身に着け、剣すら帯びている。 その事自体、驚きに値する事だっただろうが、次の瞬間、ソーロンの目前で起こった出来事は、この夜に目撃したいずれの衝撃も凌駕するものだった。 …グ…ゥァアアアア〜〜〜〜ッ!!! 完全に明るみに姿を現したと思った矢先、彼等は突然咽喉を掻き毟らんばかりに苦しみ始めたのだ。 その咽喉から迸(ほとばし)ったのは、到底人のものとは思えぬ、獣じみた咆哮。 そして。 「── な……ッ!?」 形が、変わってゆく。 陽光がその変容してゆく様を照らし出し、身動きならない彼は、目を反らす事も出来ずにその全てを見届ける事になった。 四肢が変形し、見る間にそれは人から人以外のものへと姿を変えてゆく。 ある者は腕が伸び、ある者はその皮膚が盛り上がり硬い外皮に変わった。 ある者は長い牙を、ある者は鋭い爪を、ある者は──。 変貌が進むにつれ、彼等の目に狂気にも似た『飢え』が宿るのが、遠目でもはっきりとわかった。 知性の欠片もない、元が人だったとは思えぬ異形の姿を持つ血に飢えた生き物。── そこにいたのは、紛れもなく自分達が『魔物』と呼んでいた存在だった。 「おや。少し刺激が強すぎましたか?」 すぐ側で忍び笑う声。 「…これが、あなた方が『魔物』と呼ぶものの正体ですよ。《陰冥》の力を受けた者にとって、こちらの世界の光は毒── 肉体を活性化させ、爆発的な能力向上をもたらしますが、代わりに知性は完全に失われ──」 ガルゥアァアア……!! 「……ッ!!!」 話を遮るように、魔物が咆哮を上げ次々にソーロンへと襲い掛かる! …ガシュ……ッ! 「…ァ……──!!」 首筋、腕、肩── そこから焼け付くような痛みが走ったと思うと、そこから熱い血が吹き出し、彼の身体を瞬く間に真紅に染めた。 「ア…ゥ、グ……ッ」 身体の自由を封じられているのが、この時ばかりは幸いだった。 そうでもなければ、おそらく恥も外聞もなく牙を立てる魔物を振り払おうとのた打ち回っただろうし、痛みに叫んでいただろう。 「…ああ、間に合いませんでしたか。もう少しは我慢すると思ったのですがねえ……」 くすくすと笑いながら、黒衣の人物は魔物に牙を立てられたソーロンへと歩み寄る。 「こんな風に、血を求め徘徊するだけの生き物に成り果ててしまうのですよ。…苦しそうですね、殿下?」 「……ッ」 ギリギリと牙が肉に食い込み、その度に目の前が赤く染まった。 痛みの閾値を越えてしまったのか、それとも血が流れ過ぎたのか、苦痛よりも寒気を感じてソーロンは唇を震わせる。 指一本動かせない腕から、生命の源は滴り落ち、ボタボタと音を立てて地面へ吸い込まれて行く。しかし── そこまでされても、まだ彼の元へ『死』は訪れなかった。 「…そうだ。折角ですから、記憶を頂いておくとしますか。死んでしまうと、取り出すのも面倒ですからね──」 言いながら、その骨のような指が彼の眉間へと伸びる。 指が触れたと認識すると同時に、布の内からまた不可思議な響きの言葉が紡がれた。 「…シェルキータ・タリム・ディアス・ナ・ケーゼン・フィッツ・リリト・テア・ヴァイズ」 「──!!」 全身に走る痛みに加え、今度は指が触れている部分から雷撃に打たれたような衝撃が走った。 「メイ・アーワ・タリム…カリェン・ライ・デ・ロティ」 (な、…なに、が……?) 言葉に合わせて、ざわざわと全身の細胞が蠢(うごめ)く。肌の下を虫が這うような感覚に、吐き気すら覚えた。 (何が、起こっているん…だ……!?) 「ライ・イスト・マーナ・マティオス── メイ・アーワ・タリム・イ・スピル・アレル…!」 「………!?」 詠唱が完了した瞬間、彼の中にあった全ての記憶が脳裏を駆け抜けた。 生まれた瞬間から、今現在までの記憶にあるものもないものも、その全てが甦り、そして奪い去られるのをソーロンは感じ取った。 (あ、あ、…あ──── !!) 喜びも、怒りも、悲しみも、苦しみも。『己』を構成するその全てを──。 時間にして、それは一瞬の出来事だった。 ふっと何事もなかったかのように指が離れると、極限まで見開いたソーロンの目から、意識のない涙が零れ落ちた。 肉体と精神とを同時に引き裂かれた彼に、もはや個としての意識はない。それはただ、生きているだけの抜け殻だった。 「…さて、死んでいただきますか」 暗い愉悦を隠そうともせず呟くと、再び言葉を紡ぐ。 「…ディスティーザ・ソアラ……」 びくん、と一度だけソーロンの身体が跳ね、その目から完全に光が失われる。 ── それが、最後だった。 「…フ、フフ…フハハハハ……!!!」 愉快で堪らないと言わんばかりの哄笑が響くと同時に、それまでソーロンの身体を大地に縛り付けていた術が解除される。 それを待ちかねたように、その身体に食らいついていた魔物は、狂喜も露にその肉を噛み千切る。濃密な血の臭いが周囲に漂い、次いで肉を咀嚼(そしゃく)する湿った音が響いた。 「── その程度にしておけ」 無心に肉を食む魔物へ、軽蔑しきった冷たい声をかける。そこに僅かに混じる皮肉な響きに、魔物達は気付かない。 「…光が毒ならば、《分銅》の血は麻薬── お前達程度では御せるまい」 やがてその言葉を証明するかのように、ソーロンの血肉を口にしていた魔物達は互いに襲い掛かり、殺し合いを始める。 互いに噛み付き、さながら共食いの様相を呈した浅ましい姿を眺めながら、光を遮る布の内で陰気な声は呟いた。 「── 残るは皇女が二人……。さて、どう料理しようか……?」 |