天 秤 の 

第一章 皇女ミルファ(14)

 地下へと辿り着いたソーロンは、そのまま奥の倉庫へと足を向けた。
 微かに漂う、黴の臭い。
 倉庫とは名ばかりで、今まで長い事使用されていなかった事を如実に物語っている。
 金属製の扉は、鍵がかかっていない代わりに重く、それなりに鍛えているソーロンですらも、一人では開くのにかなりの力を必要とした。
 蝶番(ちょうつがい)が神経に障る軋み声を上げ、その場の湿った空気に錆の臭いが混じる。
 苦心の末に開いたそこは、がらんとした石造りの部屋。
 棚が設(しつら)えてあるものの、見せ掛けだけで実際に使用されていない事が、その上に厚く積もった埃で知れる。
 ろくな光源のないその室内に、ソーロンは迷う事なく足を踏み入れ、その一角を目指した。
 石が敷き詰められた床── その一部分に手を伸ばし、周辺を探る。すると、僅かに違う手触りの部分に指が触れた。
(…ここか)
 ソーロンはそれを確認すると、すぐさまその石と周囲の石の間の、ごく僅かな隙間に手にした剣の刃を食い込ませる。
 ギリッ、と剣先が悲鳴を上げるが、構わず腕に力を込め、梃子の原理を利用してその石を持ち上げた。

 …ガゴッ

 何かが外れる音と共に、手は鈍い手応えを感じている。ソーロンは浮き上がったその石を持ち上げ、横へとずらした。
 固く閉ざされていた、更に深い地下へと続く道。薄闇に見える石段は先も見えない闇へと続いている。
「……」
 流石に光源を持たずにそこへ足を踏み入れるのは躊躇した。だが、今更上へ取りに上がる猶予もない。
 ソーロンは一度深呼吸すると、意を決してその石段へと足を進めた。
 狭いそこは、人一人が通るのにやっとな上に、倉庫内よりもずっとじめじめとしていて、いささか彼を閉口させた。…だが、ここを行くしか道はない。
 そろそろと石段を降りながら、途中で気付いて先程こじ開けた石をずらし、内側から出来るだけ元通りに見えるようにまた塞ぐ。
 途端に視界は完全な闇に支配され、足元すらも覚束なくなるが、あからさまに逃亡の跡を残す愚は冒せない。
 …脱出路は一本道。目の利かない闇の中、脇道のないそこで背後から襲われれば、いかに彼でも対処が出来ないからだ。
 やがて狭い石段は終わりを告げ、足は平らな道を踏みしめる。
 苔でも生えているのか、ぬるりとした感触を足は感じ取ったが、歩くのに支障がある程ではなかった。
(…行くしかない)
 視界の先にあるのは、真の闇。
 果てが何処にあるのかさえ掴めぬそこを、ソーロンはそろそろと壁伝いに歩き始める。
 進行方向から、微かに潮の香を漂わせる微風が吹いている。それだけが頼りだ。
 この通路の先は、東領の神殿を束ねる東の主神殿がある。そこへと続く道が、脱出路になったのには確たる理由が存在していた。
 神殿に仕える神官は、自ら殺生を行う事を禁じられ、攻撃という点においては何一つ出来ない。だが、彼等はその代わりに守りの術に長けている。
 生まれ持った聖晶の力に加え、唯一神ラーマナに授けられた神力により、呪術に似て異なる技を使用出来る者も少なくないのだ。
(そこでしばらく匿(かくま)って貰わねばなるまいな……)
 苦々しく思いつつも、魔物の集団に手も足も出ない今、彼等の手を借りるより他はないだろう。…果たして彼等の技が、魔物相手に何処まで通用するものかわかったものではないが。
 進むにつれ、やがて目が闇に慣れてきた。手に触れる壁の感触だけを頼りに進んでいたせいで、遅々として進まなかった歩みが少しずつ速くなる。
 果たして、どれ程歩いたのか。時間の推移のわからない場所だが、少なくとも一刻は歩いているだろう。
 やがて、前方からの空気の流れに変化が現れ始めた。
 少しずつ強まる、潮の香り。耳を澄ますと、遠くから打ち寄せる波の音も微かに聞こえてきた。
 ── 出口は、近い。
 確信すると、無意識の内に足は速まった。
 東の主神殿はアーダの最東端に置かれている。そこは、世界で最初に太陽の光を浴びる場所。海の匂いは、海岸線ぎりぎりに建てられたそこが近い証なのだ。
 やがてソーロンは、何処までも続くかに見えた通路の終焉へと辿り着いた。
 手探りで周辺を探ると、ここへ降りる時に使用したような石段を発見する。ともすれば踏み外しそうなそこを登りつめ、入り口と同様に出口を塞いでいる石に手をかけた。
 パラパラと隙間に詰まっていたと思われる土が落ち、彼に降りかかったが、それに構わず力をこめると、手応えと同時に石が僅かにずれ、そこから微かな光が差し込んでくる。
 細い、ともすれば消えてしまいそうなその光は、それでもささくれ立っていたソーロンの心を救い上げるのに十分だった。
(…夜明けだ)
 その光は、彼の目には悪夢の終わりを告げる象徴のように見えた。
 光に飢えていたかのように、ソーロンは生じた隙間に指を無理矢理ねじ込み、力任せに石をずらす。
 古井戸を模したその出口から身体を引っ張り上げた瞬間、明るい光に包まれた。
 目前には海があった。その海面を黄金色に染め、太陽が僅かに姿を見せている。
 その光景は過去に幾度か目にした事もあったのに、今のこの時ほど美しいと感じた事はないように思えた。
 これほどに光が心を癒すなど、思いもしていなかった。
 知らずその場に立ちつくし、その輝きに見入る。今まで張り詰めていた緊張の糸が緩んだのかもしれない。すぐ側に神殿が見えていた事も、理由の一つだろう。
 …安堵感に支配された彼は、それ故に気付かなかった。

「── チェラータ・バドゥ・ライ・シェルク・カージュ……」

「…!?」
 何処からともなく聞こえた声に、はっと我に返ったソーロンは、声の主を探そうとして異変に気付いた。
 ── 一体、どうしたと言うのか。身体の自由が利かない……!
 焦燥感を感じて青褪める彼を嘲笑うように、声は殊更淡々と言葉を紡ぐ。
「ライ・マキュール・マーナ・ディアス・ウェル・サザーラ・ティ・イ・レレーラ・ペイザ──」
「ぐ…あ……ッ!?」
 耳慣れない異質な音の羅列が耳へ届く度に、針で刺すような痛みが全身に走る。
 だが自由を奪われた身体では、苦痛に喘ぐ事は出来ても、指一本動かす事は不可能だった。
 一体自分の身に何が起こったのか、ソーロンにはわからなかった。
 痛みに耐え、歯を噛み締めながら、かろうじて動く目を動かして周囲を探る。
(…何者…ッ…?)
 視界には何者の姿も見えない。だが、彼の疑問が聞こえたかのように、すぐ背後から声が返った。
「── 私が何者かなど、知る必要はありますまい……?」
 くぐもった声は、男のものとも女のものともわからないもの。ただ、その声に潜む毒にぞわりと全身が総毛だった。
「貴方はここで、死ぬのですからね」
「!」
 不吉な言葉と共に、氷のように冷たい指が首筋に触れる。それは細く、肉のない── さながら骨そのもののような指。
「…呪術、師…か……?」
 何故そのような事を連想したのかわからないまま問うと、背後の声は愉快そうに咽喉の奥で笑う。
「ふ…まだ、口が利けるとは。流石は皇帝の血を継ぐ者と申し上げるべきか──」
 感心したように紡がれた言葉は、同時に嘲笑を含んでいた。

BACK / NEXT / TOP