天 秤 の 

第一章 皇女ミルファ(7)

 ── 後世、その変事は《東領の変》として、《皇帝乱心》と共に歴史に刻まれる出来事となる。
 それ程に、それは世界の常識を覆す出来事だったと言えよう。
 その時の事を実際に目にした者は、皆、当時の事を尋ねられてはこう繰り返した。

 ── 今後、どれ程恐ろしい目に遭おうと、きっとあの日以上の恐怖を味わう事はないだろう。出来れば二度と、思い出したくもない記憶だ……。

 …── と。

+ + +

「て…敵襲だあああッ!!!」

 その叫びが上がったのは、まだあらゆる生き物が眠りの中にある夜明け前のこと。
 夜と朝の狭間── その闇と静寂を切り裂くように、見張り兵の声は響き渡った。
 不意討ちではなかった。
 何しろ、『敵』は堂々と正門の前に姿を現し、その腕で固く閉ざされた門扉を叩いたのだから。
 …ただし、叩かれた城門が叩かれると同時に木っ端微塵に砕けた事だけが常と異なっていただけで。
 正面から進入した『敵』は、そのまま中へと進入し、やがて彼等の侵入に気付いて駆けてくる警備兵達を見つけると、その瞳に喜悦の光を浮かべた。
「一体何事…う、うわああああッ!?」
 警備兵達は目の当たりにした常軌を逸した訪問者その姿に、己の目を疑った。
「ま、魔物……ッ!?」
「ばかなっ、何故こんな所にこいつらが──!」
 侵入者── それは、この東領ではほとんど出現が確認されていなかった『魔物』と呼ばれる異形の生き物達だったのだ。
 現在、滅亡の一途を辿りつつある北領では頻繁に目撃されているが、それでも彼等(と表現するには、いささか獣に似過ぎているが)が複数で姿を見せる事はないとされていた。
 …なのに。
「…神よ……!」
 その場にいたのは、姿も形も大小さまざまの、魔物の集団だった。
 軽く見積もっても十体はいるだろうか。
 招かざる客は、ゆったりとした足取りで中へと進んで来る。その目に宿るは狂気── 狂喜。
 舌なめずりをせんばかりに、それはらんらんと滑りを帯びた輝きを放っていた。
 これから起こる、血の惨劇を思い描いてか──。
 その進入を阻もうと、彼等はそれぞれの得物を手に取ったが、気の毒なくらいに持ち上げたそれは手元から震えていた。
「だ、誰でもいい…報告に走れ!」
 カタカタと震えながらも、その中でも年嵩の男がそう口にした。
 この館の守りを任された責任が彼にそう言わせたのだろうか。その言葉に、その場にいた彼以外の人間はそれぞれ顔を合わせ── しかし、結局、誰一人動く事は出来なかった。
 思いがけなかった事実を知った驚愕と、それが意味する恐怖とで、足が完全に竦んでいた為だ。
「何をしている…早く……!」
 男が急かした。
 魔物達はもう、彼等から十数歩の所にまで迫っている。
(駄目だ……)
 彼等の脳裏に浮かんだのは、そんな諦めを含んだ言葉だった。
 今、もし下手に動いたら、目の前にいるこの魔物達は一気に襲い掛かってくるだろう。
 逃げれば追う、それが獣の本性だ。その場合、追う側は逃げる側より圧倒的な力を持っている事が常。
 …そして魔物は、一体でも彼等が全員で束になっても勝てるかどうか怪しい程に強大な力を持っている。
 結局、彼等はその場に立ち尽くし、じわりじわりと迫り来る恐怖と向き合う事しか出来なかった。
 ── やがて。
 恐怖が頂点に達した誰かが手にした剣を取り落とした、澄んだ金属音が響き── 時を置かず、夜の闇に複数の人間の断末魔の叫びが響き渡る。
 …それが、これから起こる狂乱の始まりの合図だった。

+ + +

 正門での惨劇を皮切りに、本来ならば静寂の中にある時分ながら、一瞬にして東の地を預かる領主の館は昼間以上の喧騒に包まれた。

「通路を塞げッ! これ以上、進入を許すなーっ!!」

 怒声、悲鳴── それに混じって飛ぶ、命令の声。
 人々は忙しく立ち動くが、誰もがその顔に隠し切れない恐怖を浮かべていた。
 東の都アーダは、東領でも最も東に位置する島に置かれている。
 当然ながら、そこに至るまでには何度も船を乗り継がねばならず、その都度厳しい審査を受けて身元を証明せねばならない。
 身元に少しでも不透明な部分がある者は、その場で捕縛され、何らかの処分を受ける事になっており、故に彼等が心の底でこの地で滅多な事が起こるはずがないと思ったとしても、罪ではなかっただろう。
 何しろ、相手が『人間』ならば、確かにそれは思い違いではなかったのだから。

「報告いたします!」

 乱暴に扉を開くと同時に、転がるような勢いで伝令が駆け込んでくる。
 そして荒れた呼吸を整える暇も惜しみ、そのまま口を開いた。
「敵は…、正門突破後、現在中央棟にて、足止めを…受けております! ですが、すでに数名の…戦闘不能者が出ており…っ、突破されるのも、時間の問題、かと……!」
 肩を上下させ、喘ぐように報じられた知らせに、その場にいた人間の顔は一様に曇った。
 その中心にいたソーロンが、今まで全力で駆けてきたと思しき伝令に労いの言葉をかけようとした時、再び扉が乱暴に開かれ、違う伝令が飛び込んで来た。
「大変です……! 先程、北の門と西の門からも敵の侵入が確認されました!」
「…何だと……!?」
 その報告に最初に反応したのは、その場にいた警備隊長だった。
 普段は人好きのする笑顔を浮かべ、滅多な事では動揺を見せない彼が、蒼白の顔でうめき声を上げる。
「まさか…囲まれていると言うのか……!?」
「── 隊長」
 そのまま頭を抱え込む警備隊長に、すぐ横にいたルウェンが労わるような声をかける。
「少し、落ち着かれた方がいい」
「落ち着け!? ルウェン殿、貴公はこの事態を前に落ち着けると思っているのか!?」
 弾かれたように顔を上げると、警備隊長は声を荒げて詰め寄る。
 その目は充血し、恐怖と混乱とに支配されているのは明らかだった。
「魔物が、襲ってきたのだぞ!? しかも…集団でだ! 魔物が今までに集団で…しかも組織的に襲撃するなど、聞いた事もない! そんな異常事態で、どうして落ち着けると言うのだ!!」
「…それはそうですがね。だからって、驚き慌てたって、事態は何も変わらないでしょうが」
 今にも掴みかからんばかりの警備隊長に、ルウェンは疲れたようにため息をついた。
 その顔はと言えば、やはり緊張を隠せない。
 彼とて、複数の魔物と対峙(たいじ)した事など一度もなく、数度単体で目撃した事がある程度だ。…しかも、息絶え、もう動かなくなった状態の。
 そもそも、魔物と呼ばれる存在は、遥か昔にその姿を消したと言われていた存在だった。
 神話や地方に伝わる伝承にその名が残るほどで、実際にその姿が確認されたのは《皇帝乱心》後のこと。
 人よりも獣に近い異形の姿。それぞれに異なる姿を持つ為に、代表的な姿を挙げよといわれても難しい。
 全身が硬い毛で覆われたものもいれば、鱗のようなもので覆われたものもいる。
 目が一つしかないものもいれば、五つもあったものもいる。中には腕すらも二本以上あるものもいたらしい。
 外見的には単に『異形』としか表現するより他はない。だが、それらには一つだけ共通点が存在した。
 特徴とも呼べない事だったが、それ以上にそれを表している特徴もない。
 それは── 人間が数人束になっても倒すのが困難な程の高い戦闘能力と、切り裂いた先からすぐに傷が治って行く、信じがたい程の回復力を有するということ。
 弱点という弱点はなく、倒すには首を落とすか、心臓を抉り取るしかない。そうでもしなければ、たとえ心臓を突いても、すぐに再生してしまうからだ。
 …それでも、今まで何とか対抗してこれたのは、魔物が必ず単体で現れていた事と、知能が獣並みしかなかった為。
 一体に対し、集団で当たれば何とかなる── それが今までの魔物における『常識』だったのだ。
 だが、今回の襲撃はそれまでの認識を全て裏切るものだった。
 複数での出現、組織的な行動── まるで、今までが彼等の油断を誘う為にわざとそうしていたのではないかと思えるほど。
「…殿下、どうされますか?」
 思いがけない事態に、ルウェンからも普段の飄々とした雰囲気は消えていた。殊更冷静になろうとしているのか、声も硬い。
 その采配を問う声に、彼の剣の主は考え込むような表情で視線を上げた。
 ソーロンの動きに、その場にいた全ての人間の目が集まる。
 その顔は緊張の為か、それとも恐怖の為か、明らかに青褪めてはいた。だが── まだ何一つ、諦めてはいない顔だった。
 その表情に、知らず人々は見入っていた。言葉もなく。
 …やがて彼は、淡々と口を開いた。

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