天 秤 の 

第一章 皇女ミルファ(8)

「── 火を使え。許可する」
 その言葉に、周囲の人々は動揺を隠せずにどよめきを漏らす。
 だがその中で一人、ルウェンだけは驚いた様子も見せず、逆に感心したような顔を見せた。
「…いいんですか、殿下? そうすれば、ここも無傷では──」
「構わん。…館は、また建てられる。だが…人の命に二度はない。そうだろう、ルウェン?」
 それはおそらく一か八かの勝負だった。
 うまく行けば魔物を何とか撃退する事が出来るかもしれないが、最悪の場合── 何も残らない。
「今は魔物をどうにかするのが先だ。火で焼けば、奴等の再生能力も少しは下がるはず…時間はかかるが、一体ずつ確実に仕留めろ。…── こうなったら持久戦だ」
「…御意」
 ソーロンの決意を秘めた言葉に満足そうに頷くと、ルウェンはまだその場にいた伝令二人にすぐさまそれを伝えるよう指示する。
 伝令が退出の礼もそこそこに駆け去ると同時に、再びソーロンに向き直るとその顔にようやく普段の笑みを浮かべた。
「…何だ?」
 その笑顔の意味がわからず、訝しげに眉を寄せるソーロンに、ルウェンは笑顔のまま言い放った。
「いやあ、あんたに剣を預けて正解だったなと思って?」
 打ち解けすぎる口調に、その場にいた誰もがぎょっと目を剥いて絶句した。
 時と場合によっては、不敬罪に問われる言い草だっただろう。
 だが、それを受けたソーロンは怒りもしないばかりか、全く気にした様子も見せずにふん、と鼻先でばかにしたように笑うだけだった。
「お前に言われても、全然嬉しくない言葉だ」
「…あっそ」
 剣を預けた主のつれない言い草に拗ねたように唇を曲げると、ルウェンは気を取り直したようにその場に跪き、腰に佩(は)いた剣を鞘ごと外してソーロンに差し出した。
 …それは騎士が主と認めた者に行う、剣を預ける儀式。かつて、ソーロンとルウェンの間で一度は交わした主従の儀式だ。
 それを何故、またやろうとしているのか。その意図がわからずに剣を受け取ろうとしないソーロンに、ルウェンは生真面目な口調で口上を述べ始めた。
「我が剣は我が命と同一のものにして、血潮の一滴すらも主の為に捧げるものなり」
「ルウェン? 何の真似だ」
「…うるせェな、最後まで黙って聞きやがれ。──我が主の命なれば、その太刀となり、その盾となり、その鎧とならん。我が名、ルウェン=アイル=バルザークの名において、この忠誠は我が命が絶えるまで永遠のものと誓約す」
 そこまで言うと、ソーロンもたじろぐ眼光で剣を受け取るように訴える。
 周囲の人々も唖然として見守る中、ソーロンは渋々捧げられた剣を受け取り、そしてまた視線で訴えられて、仕方なしに口を開いた。
「…許す。我が名、ソーロン=トゥレフ=ガロッドの名において、汝を我が剣と認め、その命を預かる事をここに誓約せん」
 そしてため息。この非常時になんの茶番だと思っていると、ルウェンはソーロンの予想を覆す言葉を口にしたのだった。
「…ではこの剣にお命じ下さい、我が主よ」
「── 命?」
 見れば、ルウェンの顔が再び真剣なものに変わっている。
 困惑を隠せないソーロンに、何処か慇懃無礼な口調で彼は更に続けた。
「たった今、殿下は私の命を預かると誓約なさったでしょう。…我が剣は飾り物ではございませんが?」
「……!」
 言わんとする所に気づき、ソーロンはぎょっと目を見開いた。
「…お前は私に、『私の為に死ね』と命じろと言うのか」
 やがてその血の気の失せた唇から、呻くような言葉が零れ落ちると、ルウェンはしたり、とばかりに不敵に笑んだ。
「それでもいいですが。…一応、これでも騎士なもんで。剣の主を一人放り出して、戦いに行く訳には行きませんからね。取り合えず、剣の主がどういうものかをもう一度思い出していただいた訳ですが」
「……」
 重苦しい空気が生まれた。
 遠くから響く声や剣戟の音が現実を知らせる以外は、まるで時でも止まったようにその場は沈黙が支配していた。
 押し黙ったソーロンの返答を、飄々とした笑顔のルウェンが待つ。
 悩む余地など今は何処にもない事は明らかだった。今は一人でも多く、対抗する手段が欲しい。咽喉から手が出る程に。
 けれども…ソーロンはすぐに答える事は出来なかったのだ。
 ── それでも先に沈黙を破ったのは、ソーロンだった。
「…わかった、行け。ただし── 私に剣を預けた以上、簡単に死ぬ事は許さないからな」
 疲れたように呟いて、手にしたルウェンの愛刀を差し出す。
 立ち上がると同時にそれを受け取り、ルウェンは当然だとばかりに片眉を持ち上げた。
「当たり前でしょう。私を誰だと思ってるんですか」
 それは自信に満ちた言葉のように聞こえたが、それが己を鼓舞する為の虚勢である事をソーロンは見抜いている。
 だが、ここは敢えて気付かない振りをして、彼もまた笑みを浮かべた。
「ふん…『返り血のルウェン』の名、伊達ではない所を見せてもらおう」

+ + +

 遠く、遥か地上から風が血の匂いを運ぶ。
 それは周囲の潮風に似て、けれど全く異なる匂い。
 夜明けが近付き、東の海の果ては僅かに明るくなりつつあった。
 もっとも東に位置するその場所は、世界で最初に太陽の目覚めを目の当たりにする。その時は、近い。
 近付く夜明けを感じながら、風の只中にいたそれは、くすりと笑いを漏らした。
 闇に溶け込むその姿は、まだかろうじて空に存在する月によってわずかに輪郭だけが見て取れる。
 それは大きさと形から判断すると、人のようだった。
 風を受けてはためく布。全身をすっぽりと黒っぽい布で覆ったそれは、いかなる術によってか空中に立ち、上空から闇に沈んだ地上を見下ろしていた。
「…踊れ、我が手の上で」
 布の奥から、くぐもった言葉が紡ぎ出される。それはあからさまな嘲笑が込められていた。
「せいぜい抗うがいい…どうせ、逃げられはしないのだから……」
 聞く者は誰もなく、その呟きはただ風に浚われて消えるばかり。
 やがて地上に見える館から、赤い火の手が上がった。
 それはその周囲を吹き荒れる海風によって、たちまち広がり、館を包み込んでゆく。
 闇に浮かぶ、赤い炎。それはまるで、大地の流す血のようだった。
 そして── その炎の元では、実際に多くの血が流れている事をそれは知っていた。
 ゆらり、とその腕が持ち上がり、まとわりつく布がさながら翼のようにばさり、と音を立てる。
「さて、そろそろ仕上げと行くか……」
 呟くと同時に、その指がパチリと軽く鳴る。その瞬間、ここからではわからないが、地上で更なる混沌の種が芽吹いた事をそれは感じ取る。
 やがてそれは程なく育ち、抗おうとするものに恐怖と絶望を与える事だろう。
 くすくす、と堪えきれないように零れ落ちる嘲笑。肩を揺らし、やがてそれは哄笑へと変わる。
「…はははははは……!」
 愉快で堪らない── 言葉以上に雄弁に物語るその笑い声は、笑い声だというのに何処か呪詛のような印象を与えた。
 否、実際にそれは何かを呪っていたのかもしれない。
 その目は地上を離れ、今にも大地の果てに消えようとする月へと向かう。
「狂うがいい、天秤よ。そして全てを無へと還すがいい──」
 そんな呟きが零れ落ちたかと思うと、もうそこに人影の姿はなかった──。

BACK / NEXT / TOP