天 秤 の 月
第ニ章 騎士ルウェン(12)
戦闘が開始して、数刻。 南領優位の報告が伝わる中、ミルファの元へは刺客の手が伸びていた。 多くが戦場に気を取られている状況に、皇女自身が従軍している絶好の機会を逃す手はない。 確かに報告を携え、指示を仰ぎに来る伝令が忙しく出入りするが、彼等が長居する事はなく、側仕えや重臣の姿も今はない。 やがてミルファが一人になった瞬間を見計らい、刺客は天幕へ押し入った。 入り口に下がった布を跳ね上げると同時に、その奥で驚いたような目を向けるミルファへと一気に肉薄する! シャッ!! 一瞬で決着を着けるよう、軽く薄く…その分切れ味の増した剣が空を切る。それはそのまま、皇女の細い首筋を切り裂く── はずだった。 …キン!! 「…!?」 手にした剣が弾かれる衝撃と音に、刺客は一瞬何が起こったのか理解出来なかった。 ミルファは一歩もそこから動いていない。だが、その手が先程まではなかったものを握っている。 (── ばかな……!) 刺客の必殺の一撃を受け止め、弾き返したのは細身の剣。装飾もあり、一見飾り物のように見えるそれは、白刃を煌かせ実用に耐えるものである事を伝える。 すかさず引いたものの、驚きを隠せずまじまじと自分を見つめる刺客へ、剣を構えたミルファはその唇に薄い笑みを浮かべた。 「…私が剣を使える事が、それ程に不思議ですか?」 「っ!!」 その言葉に我に返り、刺客は剣を改めて構える。それを静かな目で眺めながら、ミルファもまた剣を構え直した。 その姿勢は美しく、彼女の剣が単なる付け焼刃ではない事を示唆していた。 そうしながら、ミルファは顔から笑みを消し、冷たさすら感じさせる声でぽつりと告げた。 「── 自分の身も守れない者が、戦地へのこのこと来る訳がないでしょう。私も見くびられたものですね」 「く…っ」 ミルファの言葉に、刺客は襲撃が失敗した事を悟ると、自分の退路を開く為── あわよくば、その身を害そうと手首に隠していたナイフを投げつける! 一、ニ、三── 全部で三本。それぞれ、首、胸、腹の急所を狙うそれは、ほぼ同時にミルファへと襲い掛かった。 いくら剣を多少使えても、実戦経験は浅い── そう睨んでの事だった。だが、それはミルファに傷一つつける事はなかった。 「…メイ・プロス・テス──」 何処からともなく紡がれた言葉が刺客の耳に微かに届いた時には、ミルファの周囲に瞬時に生じた風の壁が、ナイフを全て弾き返している。 「な、何……!?」 予想外の事に動揺し、刺客は一瞬対応が出遅れた。そのまま脱出するはずだった足が止まった刹那、その隙を突くように新たな言葉が紡がれる。 「…メイ・チェル・リアス」 短いその言葉は、終わると同時に劇的な効果を発揮する。 はっと我に返った時には、刺客の身体はまるで目に見えない綱で縛り上げられたように、身動きの出来ない状態になっていた。 (── 呪術…!!) 自身の身に何が起こったのかを理解した刺客は、信じられない思いで目前のミルファを見つめた。 使用したのはミルファではない。だが、この場に他の人間の気配はなく、その困惑が彼の目に浮かんでいた。 その目を真正面から受け止めて、ミルファは剣を仕舞うと身動きの取れない彼の元へ歩み寄って来た。 「── 口は、きけますね?」 「……」 確かに動きが取れないのは身体だけで、それ以外に関しては制限はない。 しかし、仮にも皇帝の命を受けて皇女の命を狙った身だ。何を聞かれようと答えるつもりなどなかった── が。 「答えなさい。あなたに命じたのは、誰です」 「…?」 ミルファの質問の意図が掴めず、刺客は眉間に疑問を隠さない皺を刻んだ。 彼に命じたのは皇帝── それは当然、ミルファも知っているはずだ。それ以外に、彼女の命を狙う輩などいないはず。 にもかかわらず、まるでミルファは別の人間が彼に命じたかのように尋ねてきた。 ミルファの目は偽りを見逃さないかのように、真っ直ぐで鋭い。それを受け止めながら、彼は指令を受けた時の事を思い返した。 …今から一月以上前、皇帝より召喚を受けて向かった玉座の間。 奥の壇上から睥睨(へいげい)する皇帝に対して膝をつき、礼を取った彼に皇帝は── …。 (…いや、違う……) 『これより南の地へ向かい、皇女ミルファを亡き者にせよ…と陛下は仰っておられます』 まるで封じられた何かが弾けたように、その時の情景が脳裏に甦った。 そうだ── 玉座の間には、皇帝以外にも人がいた。皇帝の傍らに控え、一言も言葉を発しなかった皇帝の代わりに、命を下した人物。 全身を包み込み、覆い隠した黒っぽい布とローブ。まるで、影のようだと彼は思った。 (そうだ…俺に命を下したのは、陛下ではない……) その些細(ささい)だが、決定的な事実を今の今まで忘れていた事に疑問を感じた。一体、どうして── そう思った瞬間。 彼の耳を駆け抜けたのは、不可思議な言葉の羅列──。 『フルク・フォルン・キア・ペルセム・イスト・ラーナ・レヴィ──』 (…な、何だ……?) 『…ピューレ・アイダ・ネイド・フィ・カンティータ・タリム・ラーナ・オルディル・メイ・ディスティーザ・キア・ディアス……』 (──!?) 言葉の羅列が消えたと思うや否や、彼の体の内に不可解な熱が生じた。 熱── いや、そんなものではない。まるで、身体の中に炎が──! 「…っ!!!!!!」 「!?」 突然前触れもなく大きく目を見開いた刺客に、ミルファは只ならぬものを感じ取った。 刺客の目は血走り、その顔はみるみる赤く染まる。顔だけでなく、首や手の血管が一気に浮き上がるのが目に見えてわかった。 「…っ、ザルーム!!」 「お下がりを…!」 反射的に自らの影の名を呼ぶのと、当の影が姿を現すのは同時だった。 ザルームがこれ程に切羽詰った言葉を発するのは珍しく、ミルファは状況が予想よりも悪い事を察し、すぐに言葉に従う。 そのまま刺客とミルファの間に身を滑り込ませたザルームは、すぐさまその腕を前に伸ばし、これから起こる事に対しての防御を取った。 「アリム・ニスト・エリル・メイ・シェルク・フォルン・ナ・メシエ…!」 一瞬、凍りつくような冷気がその場を支配したようにミルファは感じた。だが、その術が効力を発揮するよりも先に、刺客の身体に異変は起こった。 「──〜〜〜〜〜ッ!!」 刺客が何か重圧に耐え忍ぶような、苦しげな表情を見せたと思った瞬間。 ……ゴオッ!! 刺客の身体の中から、信じられないような量の炎が吹き上がった! 「…ッ!!!!」 それはまさに一瞬の事── ザルームが展開した術の効果か、その炎はその手を周囲に伸ばす事なく、そのまま刺客の肉を内側から焼くだけで消え失せる。 最初にかけた呪術を解いたのか、その場に固定されていた体がゴトリと音を立てて崩れ落ちる。 その身体は全身燃え尽き墨と化していた。相当な高温だったのか、骨すらも溶けて見えない。 「……──」 一瞬とは言え人の燃える様を目の当たりにした上に、漂う人の肉の焼けた臭いに吐き気がこみ上げたが、ミルファは口を押さえ必死に耐えた。 代わりに、生理的な涙が目の端に浮く。 「……口封じ………」 彼女を守るように前に立つザルームのぼそりとした声に、ミルファは何が起こったのかを完全に理解した。 (── やはり、いる) 皇帝の背後には、呪術師がいる。それも…こんな残酷な手段で口封じの出来る人物が。 (…何てむごい事を……) つい先程まで生きていた人間の成れの果てを見つめ、ミルファはその唇を噛んだ。そしてザルームの赤黒いローブに包まれた背中を見つめた。 (…やはり、ザルームは関係がない……?) だが、同時にザルームがこの場にいた状態で、刺客が呪術で命を奪われた事が疑問を募らせる。 皇帝の背後に呪術師がいるのは間違いない。しかも、おそらくザルームと同等の使い手が。 だが、ザルームのような高度な術を使える人間が何人もいるのも不自然な気がしたのだ。 そんな事を考えていると、異変を感じ取ったのか、複数の人間がやって来る気配がした。 「…ミルファ様」 ようやく振り返り案じるように声をかけてくるザルームへ、ミルファは青褪めた顔で大事ない、と答えた。 「この場は何とかする。…行け」 「……」 何か言いたげな様子を見せながらも、ザルームはその姿を消す。 その消え行く姿を見つめながら、ミルファは漠然とした予感を感じながらも思った。 (…いつか、はっきりさせなければ……) おそらく、ザルームは何か秘密を抱えている。その素性だけでなく、何か── 予想もしていない大きな秘密を。そんな気がしてならない。 果たしてその全てがわかった時、自分はどうするのだろう。 やがて駆け込んできた人々に簡単に状況を説明しながら、その日が来る事を恐れている自分をミルファは自覚した。 |