天 秤 の 月
第ニ章 騎士ルウェン(13)
戦闘が始まってから数刻──。 南領優勢のまま、帝軍が港へと押し返された状況で日没を迎えようとしていた。 西の空は茜に染まり、東の空は夜の色に沈みつつある。昼と夜の狭間── 黄昏時。 (…『光と影が曖昧になる時間』、だったか?) ふと、随分昔に聞いた迷信を思い出しながら、ルウェンは他の攻撃を担った者達と共に、建物の影から港の様子を伺っていた。 夜明けから動きっぱなしだった彼等の疲労は相当なものだったが、士気はまだまだ衰えていない。 誰もが疲れを訴えないばかりか、今日で完全に決着を着けると言わんばかりの様子である。 ── 光と影が曖昧になる時には影の国への入り口が開いてしまうから、そこに掴まらないように早くうちへ帰りなさい── それは小さな子供に対して、大人が言って聞かせる約束事のような言葉。 『影の国』には恐ろしい化け物がいて、入り込んだ子供を捕まえて食べてしまう── 何故、今この時にそんな事を思い出したのか、ルウェンも自分に苦笑した。柄でもない。 だが、出立した時の曇天とは打って変わって晴れた空に黄金の残光を放つ太陽は、そうした事を想起させるような存在感があった。 「ルウェン殿。一気に攻め込みますか」 物思いに沈んでいると、横から声がかけられる。 彼より少し年上だろうか。 見ると戦斧を手にした二十代後半辺りの男が、彼に対して友好的な笑顔を向けていた。 笑顔と言っても、状況が状況の上に元々強面らしく、少々迫力があり過ぎたが。 名乗った覚えもないし、その顔に見覚えがないルウェンは一瞬心の内で首を傾げたが、こうした事は東領にいた頃もそう珍しい事ではなかったので、そのまま受け入れる。 本人にはまったく自覚のない事だったが、ここまで至る間に、いつの間にかルウェンは彼等の中心的な人物になっていた。 そのほとんどが東領から来た人間である。その中には直接の面識はなくても、ルウェンの名を知っている者がいた。 ── かつて、幾度も東領を危機から救った『返り血のルウェン』の名を。 そして彼が南領にいるという話は、ルウェンがフィルセルに行動を規制されていた間に何処からともなく広まっており、彼は知らない間に兵士達の中では有名人になっていたのだった。 「皇女側から指示がないという事は、このまま片を着けろって事か…」 言いながらも、ルウェンの赤紫の瞳は抜け目なく港の様子を分析する。 今までの戦闘で、帝軍側はこちら以上の損失を被(こうむ)っている。 こちらも何人かは負傷などで人数が削られてはいるものの、現在の動きを見るに、この人数でも港を奪還するのはやってやれない事でもなさそうだった。 と言うのも、敵側の動きは確かに彼等を警戒はしているものの、守りに入っているにしては緩く、はっきり言わせて貰うなら隙だらけで、むしろ『襲って下さい』と言っているような状態なのだ。 ── だが。 (…何か、すげー嫌な予感がするんだよなあ……) 隙だらけなのは確かだが、それがどうにも罠臭く感じられてならなかった。今までの戦いで感じていた、妙な手応えのなさもそれに輪をかける。 …実際、彼等は南領の陣営から孤立した微妙な位置にいた。 状況次第では一旦帰還を指示すべく、今も彼等の元へ伝令が走っていたが、それが到着するのはまだ先の事である。 そうなってしまったのは、偏(ひとえ)に南領側が予想したよりも遥かに帝軍が弱かった為だ。 敵と見たら問答無用に攻撃せよ── その指令に従い、彼等は戦った。 一人倒したら次、また一人を倒したらその次、と動いた結果、防衛を担う主力部隊や支援部隊から切り離された形になってしまったのだ。 同時に、彼等が戦っている裏で、皇女ミルファ自身への刺客の襲撃とその只ならぬ死によって、本営が混乱した事も理由の一つだ。 そちらの対応に手を取られ(何しろ、見るからに呪術による死亡だったのだ。直接の攻撃でないだけに、周囲への波紋は相当なものだった)、最前線への情報伝達が遅れてしまった。 今回は戦況が良かった為に、たまたまそれが問題として表面化しなかっただけなのだ。 ちらりと、目を港から周囲にいる兵士達へと走らせると、そこにいる人間は皆、見るからにやる気満々の顔をしている。 …下手に止めると、今後の士気に関わりそうだ、と彼は思った。 「── 行くか」 このまま無為に時間が過ぎるのを待っていても仕方がないと判断し、ルウェンが誰に言うでもなくぼそりと呟くと、それを待っていたかのようにそれぞれが得物を構える音がした。 (…って、何で俺がこいつらを指揮してるんだ……?) ようやくその事に気付き、ルウェンは困惑を隠さずに眉間に皺を刻んだが、すぐさま気持ちを切り替えると彼も剣を持ち上げる。 今日一日ですっかり手に馴染んだ大剣にちらりと視線を向け、彼は満足げに唇の端を持ち上げると、そのまま港へ駐留する帝軍に向かい先頭に立って駆け出す。 彼を追って、他の人間も続いた。 相当の人数である彼等の存在に気付き、帝軍が慌てて応戦しようとする所へ、隙を逃さずに襲い掛かる! 今、彼等に出来る事は、目の前の敵を倒すだけ──。 西の空では、太陽が完全に地平へ没し、最後のわずかな輝きだけが空に残るばかりになっていた。それを追うかのように、天には代わりに月が姿を見せている。 ── その色が、何処か不吉な赤い輝きを帯びていた事に、その場にいる人間は誰一人気付かなかった。 + + + ── 異変が起こったのは、太陽が完全に姿を消し、夕闇がその場を支配した頃合だった。 |