天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(15)

「── 魔物が…!?」
 魔物出現の報告を受けて、ミルファの顔に厳しい表情が浮かんだ。
 すでに太陽は地上を去り、外は夕闇に包まれている。
 状況によっては一時撤収を指示する為に送った伝令は、異変に気付くや報告をすべく、すぐに取って返したという話だが、その往復にかかった時間を考慮すると、状況はかなり深刻だと言えた。
 果たして、今どうなっているのか。少なくとも良いものではないに違いない。
「…正確な出現位置と状況は」
「はい、出現位置は現在帝軍が占拠している港です。魔物は帝軍との交戦中に現れた可能性が高く、敵方にも味方にもかなりの負傷者、死傷者が出ている模様です」
 口早に告げる伝令の顔もひどく緊張している。
 それもそうだ。何故なら魔物が集団で現れるなど、今までは『有り得ない』事だったのだから。
 その報告に耳を傾けながら、ミルファは怖れていた事態が現実になった事、それによって予想の枠を超える事のなかった、ある可能性が現実味を帯びた事に動揺を隠せなかった。
 無意識の内に唇を噛み締め、胸元を握る。そうして何とか自分を保つのが精一杯だった。
 じわじわと身の内を侵食するのは── 恐怖。
 自らの死を意識したものとは異なる、純粋混じり気なしの恐怖だった。
 …魔物が集団で、しかも何らかの意図を持って現れるその意味に対しての。
(…出来る事なら、そうであって欲しくはなかったけれど……)
 そう思うが、おそらく間違いはないだろう。
 ── 魔物を支配出来る何者かがいるのだ。単体でも十分脅威であるそれを、意のままに操れる何者かが。
 それは皇帝の背後に見え隠れする存在を意識せずにはいられなかった。
 そして十中八九、その存在は先程ミルファに対して刺客を送り、なおかつその命を取るに足らないもののように奪った呪術師に違いないのだ。
 呪術に加え魔物までも従える── その存在にミルファは恐しいと思った。
 おそらく、それこそが相手の狙い。
 今回、魔物を仕掛けたのは、セイリェンを制圧する為でもなく、ミルファの命を奪う為でもない。
 もし魔物が単なる手駒なのだとしたら、帝軍側にも犠牲者が出るのはおかしな話だ。だから── 目的は別にある。
(…ただ、自らの力とその冷酷さを誇示する為だけに? …こんな手の込んだ事を……?)
 今ある手持ちの情報で考えられるのはそれだけだった。
 他に理由があるかもしれないが、少なくともそれが狙いならば、目的は完遂されたと言えるだろう。
 実際、ミルファは今動けずにいる。
 予想以上に強大な敵の存在を前に、自分を保つ事で精一杯なのだから──。
「…殿下?」
 普段ならば、報告すれば打てば返るように即座に指示を出すミルファが沈黙している事を訝(いぶか)しみ、伝令が思わず声をかける。
 その声でミルファはようやく現実を思い出した。
 ここで手の届かない相手の事をどう考えようと、手出しも何も出来ない。今出来る事は他にあるのだと。
 今取れる、最善の策を。…一人でも多くの者を窮地から救う為に。
 握り締めていた胸元から手を離し、ミルファは小さく吐息をつくとすぐさま頭を切り替える。今こうしている間に、また犠牲が出ているかもしれないのだ。
「…おそらく、もう帝軍にこちらを攻撃する余力はありません。民の防衛に回している者の内、余力がある者を全て港へ向かわせなさい。支援の方は命に関わる重傷者を抱えていないのならそちらもすぐに向かわせるように。…もはや敵も味方も関係ありません。人的被害を最小限に食い止める事を最優先になさい…!」
「はっ…!」
 ミルファの言葉を受けて、伝令がすぐさま立ち去る。
 その背中を見送りながらも、今の指示で良かったのかミルファにもわからなかった。
 今日は朝からずっと動きっぱなしなのだ。いくら体力に自信がある者でも、いい加減に疲労が出ている頃に違いない。
 そんな状況で…果たしてどれだけの事が出来るのか。だが、港で現在戦っている人間を切り捨てる事は出来ない。
 ── 絶対に全滅という事だけは避けたかった。それは結果的に敗北を意味する。
 正体を現さない、けれども確実に存在する『敵』に負ける事になる。人の命を道具のようにしか考えていない『敵』に。
(…でも、守る為に人を動かして── それでさらに犠牲者が出たら……?)
 相手が、せめて人ならば。
 怖れる事はないし、いくらでもやりようがあった。だが、それが魔物になっただけで、事態の動きは予測できないものになってしまった。
 そして…それはこれから先に進む限り、ずっと付き纏うのだ。ずっと── 全てが終わるまで。
 ぐっと拳を握り締めて、思いつめた顔で思案する。
 これぞという有効的な策を思いつけない以上、少しでも良いと思われる方策を探らなければ── それが、彼等の命を預かる自分の、今出来る事。
 その時、その背後でふと気配が生じた。
 その気配は、いつも自分が危機の時に現れる。まるでそれが伝わるように。
 そんな事を思いながら、ミルファは背後に目を向けた。
「…ザルーム……」
 名を口にして、ミルファは確かに今その瞬間、自分が安堵感を覚えた事を自覚した。ほっとしたのだ。…事態は何も変わらないのに。
 その事をミルファはすぐに恥じた。
 その存在を信じて良いかもわからないくせに、その手だけは欲するなんて── なんて都合が良過ぎるのかと。
 その結果、名を呼んだまま何一つ言葉を紡げなくなる。そんなミルファの心情を知ってか知らずか、ザルームが口を開く。
「── 我が君」
 呼びかける声は、いつもと変わらぬ陰鬱な声。何かと視線で問うと、ザルームは淡々と言葉を重ねた。
「この場から、離れる事をお許し頂けますか」
「…?」
 一瞬、その言葉の言わんとする所を推し量れず、思わず眉根を寄せる。だが、すぐに目を見開くと、ミルファは思わず問い返していた。
「…何とか出来るのか?」
「お約束は出来ませんが。…最低でも助力する事は可能かと」
 その言葉だけで、十分だった。
 つまり、ザルームはミルファの身を守る事まで手が回せないが、その代わりに港での戦いに力を貸すと言っているのだ。
 知る限りでは、今まで事がミルファの命に関わらない限りは、自らその力を使用する事がなかったザルームが、だ。
 決して表立って動こうとはしない彼が、動いてくれようとしている。
 ミルファは表情を改めると、きっぱりと頷いた。
「わかった、この身は自分で守る」
「…それではしばらく失礼いたします」
 未だに彼に対する疑惑の棘は刺さったままだ。だから『頼む』という言葉は口には出来なかった。
 それを口にしては、本当に都合の良い人間になってしまうような気がして──。
 そんなミルファに、ザルームはいつものように一礼するとそのまま姿を消す。残されたミルファに出来る事は、いるのかどうかもわからない存在に祈る事だけだった。

+ + +

 ── 契約を忘れるな

 それは一月ほど前の明け方に、戒めるように告げられた言葉。

 ── お前は『影』
 ── 本来なら、光がなければ存在する事も出来ないもの

 だから忘れるな、と。
 この身がこうしてここにあるのは、『契約』という名の鎖があればこそ。
 鎖を断ち切らない限り、自分だけでは存在出来ない『影』も存在出来る。
 …けれどその鎖は、とても細く脆(もろ)い。

 ── 本来ならば、お前はこの世界にあってはならぬもの

 もし、その鎖を完全に手放したなら。
 この偽りの身は、たちまち滅ぶのかもしれないけれども。

 ── 自由は、ないと思え

 選択の余地など、最初からない事はわかっている。
 『契約』を守る事が、全てだという事も。…それでも。


 それでも──。

+ + +

 遥か下、地上から聞こえるのは怒声に悲鳴、あるいは剣戟の音。時折混じるは、闇の生き物の咆哮か。
 見下ろしたそこはすっかり闇に支配されている。
 港という比較的障害物が少ない場所である事が幸いしてか、月明かりだけでもかろうじてそこにあるいくつもの人影は確認出来たものの、果たしてそれが帝軍に属する者なのか、それとも南領側に属する者なのか判別は出来ない。
 先程のミルファの指示を受けて、今頃は援軍がこちらに向かっているに違いないが、状況を見るに果たして間に合うかどうか微妙だ。
 人影に混じる、明らかに大きさの違う影の数を数える。一体、二体── 全部で四体。
 それらしい大きさの動かない影が二体ある所を見ると、その二体は自力で倒したのだろう。
(…取り合えず、策は生きたか)
 今回、東側の人間ばかりを攻撃側に回したのは、魔物に比較的免疫があると判断したからだ。
 おそらくこの場にいたのが南領側の人間だったなら、魔物が集団で姿を見せた段階で混乱し、場合によっては事態を悪化させると思ったのだ。
 …少なくとも、戦いを挑む気概は持てなかったに違いない。
 もちろん免疫があるからと言って、勝てるなどとは思ってはいなかった。相手は魔物── 人と比べるにはあまりにも強大な力を持つ存在なのだから。
 必要以上の混乱を抑えられれば、と思っていた程度だっただけに、二体とは言え、その魔物を逆に倒していたのには正直彼にも驚きだった。
 いかなる術を使ってか空に立つ彼が見下ろす先に、一人特に動きが目覚しい人影がある。
(…彼のお陰か)

 ── 『返り血のルウェン』。

 南の地にまで聞こえていた、その人物の二つ名を思い出す。東領で一度直接見(まみ)えた顔を思い出し、その名が伊達ではない事を実感した。
 だが、一見圧しているようにも見えるが、いくらルウェンでも半日以上動きっぱなしとなれば、疲労もかなりのもののはずだ。
 しかも、まだ身体は万全ではないはず。
(…猶予はない……)
 彼はそう結論すると、その目をちらりと天上に座する月へと向ける。
 禍々しい赤い輝きを帯びた月。まるで…今宵流れた血を吸い取っているかのような。
(せめて、夜でなければ)
 胸の内で苦々しく思う。
 夜の闇は、魔物に力を与える。太陽の光の下では狂気に支配される彼等だが、月の光の下ではその力を増すのだ。…狂気に冒される事なく。
 その事実を知る者はほとんどいない。…否、知る必要がなかったと言うべきか。
 だが、だからと言ってする事は変わらない。彼── ザルームは再び地上に目を戻すと、その手を地上へと向けた。
 老人の、と表現するよりは、骨のようなと表現した方がしっくり来るその手に、かつて耳にした戒めの言葉を思い出す。

 ── 契約ヲ・ワスレルナ──

 その言葉を振り払うように一度頭を振り、その口に言葉を乗せる。
「…リオン・ペルセム・イルシータ・ロニ・リアス」

 ── それは己の身を縛る鎖を撓(たわ)ませる行為。

「レシテ・リューシ・ナ・モレス」

 ── それは、己の役目を忘れる行為。

「メイ・アウィータ・グルーレ・ニスティータ・テア・ディアス……!」
 詠唱が終わると同時に、彼の身を襲ったのは呼吸すらも奪う激痛だった。
「……ッ!」
 ぎり、と心臓を刺し貫くような胸の痛みは、わかっていて『契約』の枠を超える行為に及ぶ己を責めているかのようだった。
 その痛みをやり過ごし、地上を見やる。
 呪術としては一般的な術ながらも、展開範囲が広かった為にその難度が飛躍的に上昇していたその術は、どうやらうまく効力を発揮してくれたようだ。
 その結果を見つめ、彼は細く吐息をつく。
(…── 契約、か)
 それを守る為に、今自分はここに在る。それこそが、存在理由。
 …でも。
「それでも…譲れないものが、あるのですよ……」
 誰に言うともなく呟いたその言葉は、微かな苦笑を帯びて空に消えた。

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