天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(16)

 …ダンッ
 ── ビュオッ!

 跳躍すると同時に飛び掛ってきた魔物を、紙一重でかわす── はずだったが、勢い余って泳いだ身体を踏み留めようとしたその足が僅かにもつれる。
「…!」
 すぐさま体勢を整えた為、かろうじて転倒は免れたが、すれ違いざまに負傷していた左肩を魔物の爪が掠っていた。
 じわりと開いた傷から血が滲み出す感覚に、無意識の内に顔を顰める。精神が高揚しているからか、痛みはほとんど感じなかった。
「…ハッ…ハァッ……」
 研ぎ澄まされた聴覚が拾う、自身の荒い呼吸音がやけに耳につく。
 とうに身体の限界は超えていた。それをおして戦い続ける彼の身体が、悲鳴を上げているのだ。
 ── 魔物が現れてから、果たしてどれ程の時間が過ぎたのか。長くはないが、かと言って短くもないだろう。
 周囲には人や魔物の流した体液の臭いが充満し、相応の血が流れた事を示している。
 今までに倒した魔物は二体。
 一体は最初に自力で倒したものだが、二体目は周囲の協力の下に仕留めたものだった。それはおそらく、他に十分誇れる戦果と言えただろう。
 まだ完治していなかった身体は、ぎしぎしと軋む音を立てそうな程に疲れ果てていた。
 当然無傷でいられるはずもなく、先程肩の傷が開く以前にも、右足と右腕に軽度だが傷を負っていた。身体の左側を無意識に庇った結果だ。
 …それでもまだ、四体残っている。戦いは終わっていない。
 四体の魔物に梃子摺(てこず)る理由は、彼等の疲労がピークを迎えている事に加え、一体が例の岩石並の体表を持つ魔物であり、一体がやたらと俊敏な動きをする事にあった。
 前者は普通の攻撃ではこちらの剣が負けてしまうし、後者はその動きを追う事すら難しく『先を読んでこちらから仕掛ける』事が出来ないでいるからだ。
 残りの二体はその二体に比べれば比較的標準的な魔物と言えたが、だからと言って力が弱い訳ではない。
(…ちょっと、やばいな……)
 こういう状況で後ろ向きな思考は持ちたくはないが、状況を冷静に考えればそう結論せざるを得ない。
 今までの戦闘で、味方側も帝軍側も数を削られている。その内、援軍が来るかもしれないが、果たして人が増えたからといって状況が好転するだろうか。
(── しねえ、な)
 ちらりと視線を走らせた相棒の表面には、無数の傷がついている。
 かなり酷使されたのに、未だに刃こぼれもせず折れてもいないのは立派としか言いようがない。だが、同時にわかってしまう。
 …この剣では、とどめを刺すのは難しい。
 特に岩石のような表皮を持つ魔物は、弱点である首も心臓も今の状態では傷一つつけられそうにない。
 魔物には疲れなどないのか、その動きに乱れはない。腹立たしいが、そこには圧倒的な力の差があった。
(…チクショウ、せめてこの剣が…岩をも切り裂くような切れ味があったら……!)
 そんな有り得ない事を思いながら、襲ってきた魔物の腕を避ける。
 すぐ頭の真上を太い腕が走っていく。飛び退くと同時に剣を横に走らせたその時だった。
「…あ?」
 不意に手にした剣の重みが消えた。
 否── 消えた訳ではない。まるで腕の延長のように感じる程に軽くなったのだ。
 驚いて刀身を見ると、それは夜の闇にぼうっと浮かび上がるような微かな光すら帯びている。
(これは)
 今までの戦いの記憶を掘り起こさずとも、その光はルウェンには過去に幾度か見た覚えのあるものだった。
 だが、今回のように刀身が軽くなるような効果があったのは初めてだ。
(呪術…!)
 それは記憶が正しければ、武器や防具を強化する作用を持つ呪術が発動している証だった。
 だが、それを確かめる間を与えず、魔物は人の動体視力を超える速さでもってすぐ目の前に迫っている。ルウェンは反射的に剣を魔物へと振り下ろしていた。

 …ザンッ!!

 肉を切り裂く音と共に、確かな手応えを彼の手は感じ取っている。最初から切る事ではなく、牽制を目的としたはずの一撃は、予想以上の結果を齎(もたら)していた。
 彼の腕の一部のようになった大剣は、そもそも持ち得なかったはずの切れ味を発揮して魔物の腕を切り裂いていたのだ。

 ギャゥアアアアッ!

 すぐ側で魔物が苦痛の絶叫をあげて、ようやく何が起こったのかを理解する。
 ほとんど皮一枚で繋がり、ぶらりと下がった魔物の腕。自分と自分の相棒によって為されたそれに、思わず瞠目する。
(…マジかよ……)
 信じがたい程に切れ味が増していた。今までなら、せいぜい受け止められてしまうか、かすり傷を負わせる程度だったのがこれだ。
 切り落とすまでは至らなかった腕は、青味を帯びた体液を撒き散らしながらもすぐに再生を始めてしまうが、これだけの深手になると完全に再生されるまでに時間がかかる。
 すぐに反撃が来ない事をいい事に、乱れた呼吸を整えつつ、周囲にすばやく目を走らせる。
 闇に浮かぶ、光を帯びた武器や防具を視界の端に捉え、術が今ここで戦っている人間全てに作用している事を確認すると、次に浮かんだのは疑問だった。

 ── 一体誰が、そして何処からこの呪術を使ったのか。

 援軍が来たのかと思ったが、それらしい気配はない。だが、何処かに呪術師がいるはずだ。それも、かなりの腕を持つ者が。
 そうこうする間に魔物の腕は完全に再生する。
 ブンッ、と試すように腕を振るった魔物の取り巻く空気が、先程までと目に見えて変わっている事に気付き、ルウェンは気を引き締めた。
 どうやら、先程の一撃は魔物の逆鱗に触れたらしい。だが、もう怖れも焦りも感じない。今の剣ならば何とかなる── そんな自信が生まれていた。
 意識が切り替わると疲労感も遠のいた。剣を構え、魔物の攻撃に備える。
 怒りに我を忘れたならば、確実に真正面から仕掛けてくる。そう予測しながら、睨み合ったのは極僅かな時間。
 次の瞬間、魔物は一気に間合いを詰め、予想通り正面から襲い掛かってきた。
 目で追い着くのも難しい速さ── だが、相手の動きがわかっていれば、それを回避する事も難しい事ではない。

 シャッ!

 ルウェンの身体を切り裂こうと、魔物の腕が空を切って伸びる。
 その爪は鋭く長い。反応が遅ければその爪に切り刻まれ、すぐに自らの血溜りに沈む事になるだろう。
 だが、ルウェンはその爪を避けず、剣を身体の正面に下げる事で受け止めた。

 ガガ…ッギ……バキィンッ!!

 先程までは受けるだけで精一杯だった一撃を、ルウェンの剣は受け止めるだけに留まらず、そのまま受けた爪を全て切り落とす。
 半ば折るように切断された爪は飛び散り、大地へと音を立てて突き刺さる。その瞬間、感情をろくに見せない魔物が、初めて動揺したようにルウェンには見えた。
 その、一瞬を見逃さない。
 振り下ろされたのは、左の腕だった。腕を持ち上げた結果、防御ががら空きになっているその場所に、爪を切り落とした剣をそのまま横から叩き込む!

 ドシュ…ッ

 切れ味が増しているからこそ出来たその一撃は、深々と魔物の身体に突き刺さり、その奥にある器官をも切り裂く。
 魔物のもう一つの弱点── その心臓を。
 堪らずルウェンから逃げようと身を捩(よじ)る魔物を許さず、そのまま力に任せて刃を抉りこませる。…心臓の再生を阻害する為に。
 傷口はその本能のままに再生を開始するが、魔物の肉は内にある刀身を排除する事は出来ずに、そのままそれを取り込むようにして絡みつく。
 それを確認すると、完全に塞がる前にルウェンは一気に剣を手前へと引き抜いた!

 ……ギッ!!!!

 軋むような悲鳴が魔物の咽喉から迸(ほとばし)る。
 その強力すぎる再生力が仇になり、絡みついた肉ごと剣に貫かれた心臓が外へと引きずり出されていた。
 同時にそこから熱い体液が噴出し、またルウェンの身体に降りかかったが、彼は気にしなかった。
 ただ一度、返り血で滑る柄を握り直した以外は。
 ぐらりと魔物の身体が崩れた。逃げようと身体を捻った状態のまま、その目からは光が失せどう、と音を立てて横倒しになる。
 その重みでルウェンの剣へと絡みついた肉、そして心臓へと繋がっていた太い血管もまた、ブチブチと耳障りな音を立てて切り離された。
 ── こうして、また一体。
 残るは三体。すぐさま次へと向かおうと身を翻したその矢先。
 頭の中に、何者かの『声』が響いた。
《…魔物を、出来るだけ一箇所へ寄せて下さい》
「!?」
 思わず足を止めたルウェンは、反射的に上空に目を向けていた。
 …その時、何故目を空に向けたのか、彼にもわからない。だが、その行動は間違いではなかった。
 そこにあった常軌を逸した光景に、一瞬状況を忘れて見入る。
 禍々しく光る赤い月── それを背に宙に浮かぶのは、見間違いでなければ明らかに人間である。…人が宙に浮けるなど、聞いた事もない。
 月を背にしている為に詳細な外見はわからなかったが、その人物が布らしきものを頭から被っている事だけは確認出来た。
(…あれは……!)
 それを認識した瞬間、脳裏を駆け抜けたのは、まだ東領にいた頃の記憶だった。
 ソーロンの元へやって来た正体の知れない呪術師── その姿を改めて思い返すと、その時に聞いた言葉も一緒に甦った。

『…またお会いするような事があれば、このような物騒なやり取りはなしでお願いしたいものです』

(南の…呪術師だったのか)
 再び会う事があるとしても、よもやこんな場所でとは思わなかったが、何かが腑に落ちた。
 そう言えばあの時も、目の前で姿を消すという離れ技を使ってくれた。ならば、宙に浮いても大して不思議ではないではないかと。
 そして、どうすれば宙に浮くなどという芸当が出来るのかルウェンにはわからなかったが、一つだけ確実にわかる事があった。
 先程の剣を強化する呪術を使ったのがこの呪術師であり、つまり今この時点でおいては味方なのだという事は──。
 そこに再び『声』が聞こえてきた。
《一箇所に寄せる事が出来ましたら、出来るだけ遠くへ退避を。…少々乱暴な手を使用いたしますが、魔物の動きは完全に止める事が可能です。そこを…叩いて下さい》
 それはある意味、無茶な相談だった。
 魔物を一箇所に寄せるだけでも骨が折れる作業なのは目に見えてわかるのに、しかもその後すぐに退避せよ、など無茶を通り越して無理とも言える。
(簡単に言ってくれやがる……!)
 だが、腹は立たない。むしろ、面白いとさえ思った。── 勝てるかもしれない、とも。
 …だから。
「…乗って…やろうじゃねえか……」
 どうやら騒ぎにならない所を見るに、『声』が聞こえたのはルウェンだけのようだった。最初からルウェンに対して送ったのかもしれない。
 残っている三体は例の体表が硬いものと、標準的なものが二体。今動ける者と協力し合えば、一箇所に寄せるのは決して不可能ではない。
 状況は何も変わっていないのに、無意識の内にルウェンの口元に笑みが浮かんでいた。
「お手並み、拝見させてもらうぜ…!」
 こちらからの声が届いているのかは定かではないが、言い聞かせるように言い放つと、ルウェンは三体の魔物を一箇所に集めるべく、応戦している味方に向かって走り出した。

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