天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(9)

 …サアアアア……


 深夜に、耳を打った雨音。
 決して激しくはなかったその音を耳にした瞬間、ミルファははっと飛び起きていた。

 ── イソイデ・アメヲシノゲルバショニ・ユカナクチャ──

 頭を支配していたのは、そんな焦り。
 しかし飛び起きると同時に、そこがむき出しの地面や木の根元ではなく、きちんと綿と羽毛の詰まった布団の中だと気付き、ミルファは呻(うめ)くように声を漏らした。
「…ああ……」
 肩から一気に力が抜ける。
 ここは、南領の領館。刺客に怯えながら眠り、泥と傷に塗れながら遅々として進まない道を歩いていた頃とは違う。
 刺客の危険はなくなった訳ではないが、獣や魔物に不意を突いて襲われる事はないし、暖かく柔らかな布団も、風雨から守ってくれる屋根や壁がある。
 ── あの日々から四年の月日が流れたのに、まだこんなにもその頃の記憶が生々しく残っている。
 ミルファは夜の闇の中、そっと自分の手を持ち上げた。
 うっすらと浮かび上がるのは、今では傷一つ見当たらない白い── 以前、幸せだった頃と変わらないような手。
 けれど、この手もかつては小さな切り傷やすり傷だらけになり、土で汚れていたのだ。
 寒さに凍え、暑さに倒れた事もある。
 足も最初の頃はすぐに豆が出来て、時として出血し腫れあがり、歩く事もままならない事すらあった。
 …── その事を、これから先も忘れてはならないと思う。
 逃亡の日々、共にいたザルームは余程の事がない限り、手を貸そうとはしなかった。
 有事の際はその力で自分の命を守ってくれたけれど、南へ下る道中、決してミルファを甘やかす事はなかった。
 …おそらくあの頃は、たとえ彼が手をさし伸ばしたとしても、はねつけたに違いないけれど。
 自分の力で、自分の意志で歩くこと。それはあの時の自分には必要な事だった。
 あの、一年に満たないが決して短くはない時間は、ミルファにとって大きな意味があった。
 ただ『歩き続ける』事がどんなに大変か、『生きる』事がどんなに苦しい事なのか、身を持って知る事が出来たのだから。
 それはきっと、帝宮での暮らしが続いていたなら、一生気付かずにいたであろうこと。
 十二の自分は無知で、そして傲慢だった。
 与えられていた恩恵の大きさを知らずに、ただ日々を無為に過ごしていただけ。
 あれから五年が過ぎて十七になった自分は、あの頃よりは少しはまともになっているだろうか。
 この自分に命をかけて戦ってくれる人間が、誇れるだけの人間になっているだろうか──。
 …自分はまだ年若く、そして無力だ。
 明日、夜が明けたら南の軍は進軍する。北へ── そしていつかは、その先にある皇帝のいる帝都へ。
 出来るだろうか。小さな力を一つにまとめ、大きな力へ導く事が。

『皇帝の御座につかれませ』

 あの日、ザルームが自分へ告げた言葉を現実に出来るだろうか。
 見つめる手はあまりにも小さく、ミルファは苦笑する。
(それでもやらなくては。…もう、今更止める事など出来はしないのだから……!)
 最後まで諦めない心も、あの一年で身に着いた。
 今はそれだけが唯一の武器。それだけを手に、先へと進むしか道はないのだ。
 心はもう、決まっている。
 兄が死んだと知った日に決めた。…父をこの手で討つと。
「…そこへ、行きますから」
 昔の父の面影を思い浮かべ、ミルファは挑むように呟く。
「── 必ず」
 ぎゅっと手を握り締め、ミルファはその目を、まだ夜の闇に支配された窓の外へ向けた。

+ + +

「…なんですと……!?」
 軍議の最中、ミルファが発言した言葉は重臣達に波紋を投げかけた。
「ミルファ様も従軍なさるなど…本気で仰っているのですか!」
 彼等の動揺を前に、ミルファはもう一度投げかけた言葉を繰り返した。
「もちろん、本気です。私もこれから出立し、先程進軍した友軍に加わります」
「危険です! もっと御身を大事になさるべきです!!」
「そうとも、貴女の身に何かあったら、我々はどうすれば良いのですか!?」
 口々に反対意見を述べる重臣達はいずれも必死の形相だった。
 それが本心からの言葉であるのはその目を見れば一目瞭然で、その事をミルファはありがたいと思った。
 思った── けれど。
「ではあなた方は、このままずっとここで睨み合いを続けているつもりですか」
「…ッ」
 静かなミルファの問いに、彼等はぐっと言葉に詰まった。
 子ほどに年の離れた皇女の言葉は、彼等の迷いを的確に突いていたからだ。
 このままセイリェンを取り戻せたとしても、このまま均衡状態を続けていれば、また何時か帝軍はこの南の地へ手を伸ばすだろう。
 皇帝が諦めない限り、ずっとそれは続く。そしてそれが、一体いつまで続くのかわからないのだ。
「…皇帝の狙いは、私のこの命。私がこの地を出れば、南への侵略はおそらく避けられるでしょう。私がこの地から動かない限り、罪もない南の民に犠牲が出てしまう。もうこれ以上、必要のない血が流れる事を避けなければ」
「…で、ですが……!!」
 ミルファの言わんとする所は理解出来るが、はいそうですかと頷ける事でもない。
 そんな困惑する場を治めたのは、それまで黙って彼等の言動を見守っていた人物だった。
「── 皇女がそこまで覚悟を決められているのなら、従おうではないか」
 動揺する彼等の中へ放り込まれた言葉に、彼等は一斉にその言葉の持ち主へと目を向けた。その目はいずれも、まさかと物語っている。
「もう、挙兵してから二年。そろそろ動く頃合では? 皇女殿下が仰る通り、このまま睨み続けても埒(らち)が明かない」
 そう言って穏やかに微笑むのは、まだ三十をいくらか超えた辺りの男だった。
 男の名はジュール=アッダ=カドゥリール── この南の領主を務める、ミルファの実の叔父である。
「…叔父上……」
 思わぬ援軍に、ミルファも驚きを隠せなかった。
 母の弟である彼は、以前から彼女の言動を肯定的に受け止めてくれていたが、流石に今度ばかりは反対するのではと思っていたのだ。
 そんなミルファと予想外の事で絶句する重臣達を交互に見ると、ジュールは笑顔のまま言葉を重ねる。
「あと一月もすれば、殿下も十八になられる。もう子供ではいらっしゃらない。そしてこのまま守りに入っていても、事態が動かないのは確かでは? …この南領を預かる領主として、私は殿下に南の兵を預けようと思う」
 それは名実共に、南領の命運自体もミルファに委ねるという事も示していた。
「ジュール殿、それは……!」
「何か異存でもありますか? …この期を逃せば、次にいつ機会が回って来るかわからない。東領の兵士が加わり、士気が高まっている今を逃す手はないのでは?」
 まだ若いながらも南の地を治める男の言葉に、反論出来る人間は誰もいなかった。物言いたげな顔をしつつも、彼等もまた今が絶好の機会である事がわかっていたからだ。
「皇女ミルファ、我等を率いて下さいますか」
 叔父の言葉に、ミルファは表情を改めるとしっかりと頷いた。
「助力は決して無駄にいたしません」
 その言葉にジュールは満足そうに目を細める。こうしてミルファは、ついに南領から動く事になった。

+ + +

「ありがとうございました、叔父上」
 軍議が終わり重臣達が退室してしまうと、ミルファは残った叔父に礼を述べた。
「実の所…流石にこの事ばかりは反対されるのではと思っていました」
 正直に思った事を口にすると、ジュールはその顔に心外だと言わんばかりの表情を浮かべた。
「何を仰る。殿下が挙兵すると言い出した時に言ったでしょう。── ならば、殿下を擁する地を統べる者として最大限の協力をする、と」
「確かにそう言っては下さいましたが…事が事ですから」
 セイリェンは南領の都市だ。そこを奪回する為に兵を動かす事は、最終的には南領に良い結果を齎(もたら)すからこそ出来た事とも言えた。
 しかし、そこから帝都── 帝宮を目指すとなると話は別だ。
 ミルファはセイリェン奪回後、兵の中から自分の志に同意する有志を募り、それ以外は全て南へ返すつもりでいた。
 自分自身が言った言葉── 『必要のない血が流れる事を避ける』為に。
 だが、ジュールはそんなミルファに南の兵を預けると…そのまま彼等を自軍としても構わないと言ってくれたのだ。
「気になさる事はありません、殿下── いや、ミルファ」
 領主の顔から叔父の顔になり、ジュールは悪戯っぽく笑った。
「本心を言わせて貰えば、叔父として姪を助けたいと思っただけの事だからね。…職権乱用とは、正にこの事だ」
「叔父上……」
 たとえそれが本心でもやはり申し訳ない気持ちは変わらず、思わず俯(うつむ)きかけたミルファに、ジュールは困ったように肩を竦めた。
「そんな顔をしないでくれないか、ミルファ。…まるで姉上に罪悪感を持たれたような気がして、居心地が悪いからね」
 その言葉にミルファは下げかけた顔を上げる。
 姉上── つまりそれはミルファの母、サーマの事だ。
「…私はそんなにも母に似ていますか?」
 それは南領の地へ来て過去何度も耳にした言葉だったが、ミルファ自身はそんなに似ているとは思えなかった。
 何しろ、サーマの少女時代の姿など知る手立てはなく、まだ大人になりきっていない自分と対比させるにも、記憶に残る母はもっと大人の姿なのだから。
 ジュールはその目を懐かしげなものにして、よく似ている、と応えた。
「瞳の色以外は、生き写しとしか言いようがない位だ。…だからだろうな。手を貸したいと思うのは。重臣達もおそらく同じように思っているのではないかな」
「何故……」
 母に外見が似ているというだけで、助力を得られるとは思えない。
 その疑問を口にすると、ジュールはミルファも知らない事を口にしたのだった。
「それはだな、ミルファ。本来なら、姉上がこの南の地を治めるはずだったからだよ」
「…え?」
 耳にした言葉はミルファを驚かせるのに十分だった。
 確かにミルファの母である南領妃サーマは、南領主の娘だった。それはミルファも知っている事実。
 けれども、各地の領主は世襲制でそれぞれの地を治める事になっているものの、その領主に女性が立った事は一度もないのだ。
「お母様が…南領主の後継だった……?」
 信じがたいと言わんばかりの呟きに、ジュールは頷いて見せた。その目は過去を回想するように、ミルファの顔を見つめる。
「そうだ。皇帝陛下が、皇妃にと望まなければ…史上初の女性領主が誕生し、私が領主になる事はなかっただろう。私も姉の補佐をするつもりで勉強はしていたが、ずっと姉が継ぐのだとばかり思っていたよ」
「…そんな事が……」
 ミルファが知るのは、南領妃としての母の姿だけだ。
 だが、その話で何故サーマが皇帝の片腕として働く事が出来たのか納得した。領主の仕事も皇帝の仕事も、基本的な部分では一緒のはずだからだ。
 そんな事を考えるミルファに、ジュールはしみじみと言葉を締めくくる。それは何処か悔恨の念が漂うものだった。
「もし、姉上が二十年前のあの時、帝宮へ行かなければ── 時々そう思う。そうしなければ、姉上はこんなにも早く亡くなられる事はなかっただろうか、とね……」

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