天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(8)

 セイリェン進軍を三日後に控えた夜、最終的に決定した任務がそれぞれに指示された。
 派遣される人間は、その任務で大まかに三つに分けられた。
 一つは現在駐留中の友軍に合流する部隊で、これは主に現在もセイリェンで暮らす住民を帝軍から守る事が任務だ。
 古くからの交易拠点であるが故に、民のその地への執着と思い入れは他より深く、退去を勧告しても守らない者が多いと推測されたからだ。
 先祖代々伝わる看板を守る事が、商人である彼等の誇り。
 しかしそれが危険な事が明らかで、中には強引にでも退去させるべきではという意見もあったが、ミルファはそれを退けた。
 現在、限られた兵で何とか均衡が保たれているのは、セイリェンの民がその独自の情報網で助力してくれているからだ。
 そんな彼等を無理強いして事を運べば、今後のセイリェンの民の協力が得にくくなるのは目に見えて明らかだった。
 彼等は南領の民である前に、信頼を大事とする商人なのだから。
 そして決して少なくない彼等が移動するとしたら、帝軍に行動を起こす絶好の機会を与えかねない。
 現在駐留している兵だけでは、セイリェンの民を全て守る事は不可能だ。
 圧倒的に民の方が多く、下手に刺激して戦闘が始まりでもしたら、それに多くの人間が巻き込まれる。場合によっては、民から少なくない数の犠牲者も出るだろう。
 そして、帝軍にセイリェンの民を盾に取られるような事は、絶対に避けなければならない。
 ならば── 現状を維持し、差し向ける主力部隊を全て彼等の防衛につけ、可能な限り犠牲を少なくする。
 それがミルファの…実際には、表に出る事のない『影』の出した案だった。
 戦闘能力をほとんど持たない民を防衛するとなると、どうしても自身の防御が遅れ、味方に負傷者が出る。
 それを援護する支援部隊は、その場その場ですぐに対応出来るよう、元々いる医師・施療師だけでなく、セイリェンの住民からも応援を得るよう、セイリェンの実力者達に話をつけていた。
 攻撃手段こそ持たないが、彼等の武器は正にその知識に他ならない。
 医師と施療師は、その専門性によって兵士と比べ数が限られている。重傷者優先に治療をする為にも、迅速に且つ妨害なく移動する必要性があった。
 ── 地の利は、南にある。
 長くその地で暮らしている者が多いセイリェンの民は、当然ながらその街の隅から隅まで把握している。それこそ、地図にも載っていない道すらも。
 その知識を提供して貰う。戦力を持たない民を守る代わりに、協力を依頼したのだ。貸し借りを嫌う彼等は、その申し出を快く受け入れた。
 …これで、民の防衛とその支援は何とかなる。だが防戦一方では、当然ながら事態は動かない。
 そう── こちらからも攻撃しなくては、帝軍から完全にセイリェンを奪回など出来はしないのだ。
 その攻撃を任された部隊が、三つ目。けれど、それは南領の重臣達をひどく驚かせる提案だった。
 それは── …。

+ + +

「…なるほど、ね」
 顔見知りだからという理由でか、ルウェンの元へ指示を伝えに来たのはジニーだった。
 緊張の隠せない顔と口調で告げられた指令に、ルウェンはしばし眉間に皺を寄せて考え込んだが、やがて納得したように頷いた。
「『勝手にやれ』たあ、いい加減なと思ったが…つまりこういう事だな? 守りの事は考えなくていいから、敵だと認識したら問答無用で攻撃しろ、と」
「そういう…事なんでしょうか? 攻撃を任された部隊の人数は支援部隊の半数以下ですし…しかも全て傭兵なんですよね」
 伝令役が済んだからか、ジニーも普段の口調になって考え込むように腕を組む。仕事なので言われたままに指令を伝えたものの、個人的には納得出来ない話だったのだ。
 そんなジニーの言葉に、ルウェンはおや、と眉を持ち上げる。
「俺の他にもいるのか」
 確かに、ルウェンはミルファに直々に奪還命令を賜った身だが、何百人といる帝軍に一人で向かわせる訳がない。
 まるで他に命を下された人間はいないと思っていたかのようなルウェンの言葉に、流石のジニーもじとりと呆れた目を向けた。
「── いくら何でも、ルウェンさん一人にやらせる訳ないでしょう」
「あ、いや、そういう意味じゃなくてだな」
 フィルセルからならともかく、ジニーからそんな目を向けられたルウェンは、慌てて言葉を継いだ。
「攻撃を任される人間が俺一人じゃないって事はわかってるって。…つーかだな、俺がいくらすごかろうとそりゃ無理だろ。一人で全員何とかしろって言われたら…泣くぞ?」
「泣く…それはそれで見てみたいかも……」
「オイ」
「冗談ですよ。じゃあ、なんで驚いたんですか」
「…お前、最近フィルの口調が伝染(うつ)ってないか?」
 言いながらも、二人の関係をちゃんと知らない事にルウェンは気付いた。仲はいいようだが、どちらかというと恋人というよりは友達や兄妹という感じが強い。
 …もっとも、外見が全く似ていないので、兄妹という訳でもなさそうだが。
 だが、今はそんな事を確認する必要性がない。ルウェンはすぐに頭の中を切り替えた。
「まあ、それはさておきだな。俺が驚いたのは、攻撃を指示された人間が全て傭兵って所にだよ。つまり、俺以外にもそれだけの南領以外の人間がいるって事だろ。── 多分、俺の読みじゃ、その傭兵は全員東領から来た人間だ」
「…!」
 ルウェンの言葉に、今度はジニーが驚いて目を見開いた。
「ああ…! そう言えば、最近東から流れて来る人間が増えたって……」
「やっぱりな」
 もう、あれから── 東領が混乱に沈んだ夜から、間もなく一月になる。
 東領の都アーダからならさておき、南領寄りの地方に駐留していた兵等が、腕を振るう場所を求めてライエに向かったとしたら、もう到着していても不思議ではない頃合だ。
 普通ならば彼等を南領の戦力として投入するには、もっと時間が必要となるに違いない。
 一つの戦力とするには個人間の能力差がバラバラだろうし、精神的に彼等が南領側の人間ではないからだ。
 個人の能力を把握しそれに合った場所に配置するだけの時間もなければ、彼等の意識が周囲のそれと同調するには、一月やそこらでは無理だろう。
 だが、南領の兵士とそれ以外の役割がきっちりと線引きされている今回の作戦では、そうした問題をほとんど考慮せずに済む。
 当然、民を守る南領の兵士よりも、直接攻撃を担当する東側の兵士では、その危険度は異なる。
 だが、守るべき場所を奪われ、血気に逸(はや)っているであろう彼等なら、受けて立ちこそすれ退けるとは思えない。…この、自分がそうであるように。
「…誰が考えたか知らないが、南には結構な切れ者がいるようだな」
 傭兵の心理まで視野に入れての作戦なのは間違いなかった。
 東側からの戦力がなかったなら出て来なかった策だろうが、それでもルウェンは素直に感心した。
 おそらく、この作戦は提案者以外をひどく驚かせたに違いない。
 本来なら有り得ない話だ── 戦闘で最も重要な役目を、まだ南の地に馴染んでもいない人間達に任せるなど。
 命令系統が存在しない彼等を無理にまとめず、逆に自由にしたのも面白いと思った。
 最初から集団でやって来た訳でもない彼等に、短期間で一人の指揮官の下でまとまれという方が無理だ。
 …それはおそらく、常識破りでありながらも、今の現状ではもっとも効率の良いやり方。
「誰か知らないが、一度会ってみたいもんだな」
 ルウェンの何気ない言葉に、ジニーはしばらく考え込んだ後、試すような目を彼に向けると口を開いた。
「── 今回の作戦が成功したら、会えるかもしれませんよ」
「あ?」
「だって、ルウェンさん…セイリェンを奪還出来たら、正式にミルファ様に仕官する事になるんでしょう?」
「…そうなるとは断言出来ないけどな」
 不思議な熱意のこもった視線に軽く困惑しつつ、曖昧に答える。
 奪還できれば、というのは確かだが、それなりの成果を齎(もたら)さなければならず、言う程単純でも簡単な事でもないからだ。
 だが、ジニーはそんなルウェンに、更に熱っぽい口調で語った。
「ルウェンさんなら、きっと出来ますよ! ミルファ様の側近くに仕えるようになったら── 多分、言葉を交わす事もあると思うんです」
「…誰と」
「ザ…──」
 眉間に皺を寄せて尋ねると、勢いのままその名を口にしかけたジニーは、慌てて口を閉じ、僅かな間を置いて言い直した。
「…ミルファ様の『影』と、です」
「『影』?」
「今はこれ以上は申し上げられませんけど…すごい方なんです。今回の作戦を考えられたのも、きっとその方だと思います」
 その言葉にあるのは、憧れと尊敬。その様子だけで、どれ程にジニーがその『影』に敬意を抱いているのかわかるようだった。
 何だかよくわからなかったが、取り合えず皇女ミルファには『影』と呼ばれる、参謀のようなものがいるらしい、とルウェンは自分を納得させた。
 そんな話は東領には伝わって来ていなかったし、ジニーの言葉からでもその存在が公には秘されている事は確かのようだ。
(…なんか、怪しいよなあ……)
 ジニーには悪いと思いつつ、それがルウェンの『影』に対する感想だった。同時にこれは是非とも会ってみたいと、興味も惹かれた。
 思い出すのは、先日直接会った皇女ミルファの姿。…孤独な空気。
 どうやら、この南の地は一筋縄で括れない何かを抱えているらしい── そんな気がした。
(…ま、俺は取り合えず働くだけだがな)
 ── 全てはまず、そこから。

+ + +

 三日後。ついに南の軍は動いた。
 領館から出立する彼等を、ミルファは何処か思いつめた顔で見送りながら、きゅっと胸元を握り締めた。
 もう二度と、引き返せない。
「…始まった……」
 そのまま窓の外へ目を向けたまま、ミルファはぽつりと呟いた。
 あの中の全員が無事で済む訳がない。…犠牲は、出るだろう。無血で事が済むなど、考えてはいないけれど。
「…どんどん、遠くなる……」
 思い出すのは、遠い面影。晴れた空の瞳。
 視線を持ち上げると、そこにあるのは暗い曇り空。
 昨夜の雨の余韻を漂わせたそれは、これからの自分の歩む道を、象徴しているかのようにミルファには見えた。
 …晴れた青空など、相応しくはないと。
 こんな事になる以前から、とっくに諦めていたはずなのに胸は苦しさで痛んだ。
 その苦しさを振り切るように頭を振り、ミルファは窓辺を離れてその部屋を後にする。向かう先は会議室── 今後の動向を話し合う為の場所。
 そこでミルファは一つの提案を出すつもりでいた。…暗雲の道を、自ら歩む為に。

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