天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(1)

 その人の事を覚えているかと問われると、正直返答に困る。
 記憶ではなく、記録として残っている限りでは、その人と初めて顔を合わせたのは二歳の頃の事になる。
 物心つくかつかないかの、そんな曖昧な頃の出会いをはっきりと覚えているはずもなく、しかもそれを最後に今まで顔を合わせた事がないとなれば、どんな人だったのかなど、わかるはずもない。
 その上、その人も当時は八歳かそこらの年齢だったはず。長じた今、二十三歳になっているその人も、果たして自分の事を覚えているだろうか。
 …血の連なる人の中で、一番遠い人。そんな認識しかない。
 ただ── 一つだけ覚えている事がある。

「…ありがとう……」

 驚いたような口調で呟かれたその言葉と、僅かに脳裏に残る色鮮やかな花束の影。
 おそらくそれは、最初で最後になった顔を合わせた時の記憶。

 …たった、それだけ。
 それだけの、繋がり──。

+ + +

 それはセイリェンの戦いから、一月余りが過ぎようとする頃。今後の進路を話し合う軍議での事だった。
 セイリェンの商人を束ねる元締めの屋敷── 南の領館とは比べ物にならないが、相応に広いその場所は、臨時的に皇女ミルファが率いる反乱軍の本部となっていた。
 その一室を借りての話し合いはすでに両手の数では足りない程行われていたが、今後の事についてミルファが具体的な考えを言及したのはその時が初めてだった── が。
 ミルファの発言を聞いた司令官達は、一様に首を傾げる事となった。
 と言うのも、彼女が一月前にセイリェンへ従軍すると言い出した時と同様、ミルファの発言は彼等が全く想像もしていなかったものだったからだ。

 曰く── 進路を北西へ。

「…つまり、西へ進むと、そういう事ですか……?」
 確認を取る声にも、『まさか』という気持ちが表れている。だが、対するミルファはその問いかけに当然のように頷いた。
「その通りです。シェリス河を渡り、河沿いに西へ移動した後は西領との境界に沿って北上するつもりです」
 言いながら、ミルファの細く白い指は机上に広げられた地図上の道を辿る。そこには一切迷いはなく、少なくとも思いつきで言い出した事ではないのは確かだった。
「……」
 地図とミルファを交互に見つめ、どうやら本気でそんな事を言っているらしいとわかると、その場は一気に動揺と困惑に包まれた。
 今まで出されてきたミルファの指示には、特に疑問も不審も感じていなかった彼等だが、今回ばかりはそうもいかない。
 何しろ、セイリェンとその周辺の船職人が寝る間も惜しんで船を造った結果、まだ十分な数とは言えないものの、帝都へと向かう足は確実に準備出来つつある。
 船が出来れば、後は帝都に向かって進むだけ── 誰もがそう思っていた。
 しかし、このまま真っ直ぐ北上せずに西へ迂回するように進むというのなら、その予想は大幅に覆された事になる。
 やがてその中の一人が、その真意を問うべく口を開く。
「…お畏れながら、殿下」
「何です?」
「先の戦いにて士気は上がっておりますが、皆、このまま北上し帝宮を目指すものと考えている者ばかりです。そこに来て、わざわざ西へ迂回するとなると士気の低下を引き起こしかねないと思われますが…西に、それだけの事をする何かがあると、そう仰るのですか? 詳しくご説明願いたいのですが……」
 その言葉に一同が頷く。だがその反応を予測していたのだろう、ミルファはその質問に対して怒りもせず動揺も見せなかった。
 いつもの感情の起伏のない、落ち着き払った表情でその質問に答える。
「あなた方の困惑はもっともだと思います。ですが…現在の状況を考えると、この方が良いと思うのです」
「現状…ですか?」
 益々困惑を深める重臣達に、ミルファは噛んで含めるように自らの考えを述べた。
「二月前…東領での異変の事は、記憶にまだ新しいでしょう。そして、このセイリェンでの戦い── その二つに共通する新たな脅威を、あなた方も知っているはず」
「……!!」
 東領とセイリェン、遠く離れた二つの場所を共通項で括(くく)る脅威── それだけで、彼等は内に生々しく刻まれた記憶を思い返していた。
 見る間に顔を強張らせる彼等の反応に眺め、ミルファはさらに続ける。
「…そう、魔物── その集団による、無差別攻撃です」
 人を大きく凌駕(りょうが)する力を持った恐ろしい存在── 魔物。
 それが集団で現れた事によって、数多くの死傷者、負傷者を出した事は忘れたくても忘れられるようなものではない。
 先のセイリェンでの戦いで出現したのは、全部で六体。
 その全てを犠牲者を出しながらも撃退出来た事は非常に大きいが、それに先んじた東領ではその倍以上の魔物が現れたという。
 …どちらにしても未だ嘗てなかった事であり、とても歓迎出来る事でもない。
「あれは恐らく、偶然などではありません。偶然と片付けるには、あまりにも出来すぎている。…これから先は、むしろ魔物が出て当然と思わねばならないでしょう」
 ミルファの言葉は、その場に衝撃を与えた。
 一瞬静まりかえった後、人々は口々に自らの意見を述べ始めた。
「それはつまり…狂帝側は意図的に魔物を出没させる事が出来ると、そう仰(おっしゃ)るのですか…!?」
「で、ですが、そんな事をどうやって…!!」
「だが、そう考えれば辻褄が合うではないか? 先の戦いの時、不思議に思ったんだ。どうして防衛側と攻撃側とが分断された丁度そこに、魔物が出たのかと──!」
 今までの常識をあくまでも信じるのなら、それは絶対に在り得ない事だ。だが、彼等は実際に体験している。それ故に、頭ごなしにそんなばかなと楽観的な否定は出来なかった。
 逆に── 否定出来ない事が、その信じがたい事実を肯定しているようでもあった。
 やがて収拾のつかなくなったその場を収めたのは、部屋の隅に控えていた男だった。

「…それで、殿下。魔物が出る事と西への進軍に、どういう関連性があると?」

 決して意図的に発言した訳ではないだろうが、決して大きくはないその質問の声は混乱する彼等に現実を思い出させるのに十分だった。
 そう── 今、話し合っているのは魔物に関する事ではなく、今後の進路についてだった、と。
 結果的にその場にいる全ての人間の注目を浴びる事になった男── 先日、皇女ミルファに剣を預ける事で騎士となった人物は、その視線をものともせずにミルファに対して質問を続ける。
「現在、西領は南領同様に魔物の出現率は低く、比較的安定した場所のはずです。よもやわざわざ魔物退治に出向くつもりではないでしょう?」
 彼── ルウェンの言葉は、その場にいる人間の考えを代弁するようなものだった。
 西へ行くとミルファが告げた時に彼等が疑問を抱いたのは、そこが現在この地上で一番安定している場所だという認識が強かったからだ。
 魔物の出現率だけなら南領も少ないが、今となっては唯一となった皇帝への反乱軍が存在する為にそれ以外の危険が増している南領に比べると、皇帝に対し歯向かう姿勢も見せず、魔物も出る事が少ない西領の方が生命の危険に関しては安全性が高い場所だと言えた。
「ええ、ルウェン。あなたが言う通りです。今の西領は恐らく南領よりも安全でしょう。でも、だからこそ── 危険なのです」
 しかしミルファはルウェンの言葉を一度肯定しながらも、すぐにそれを否定した。
「…危険? 西領がですか」
「そうです。確かに西は平穏です…何しろ、名高き『聖女』が守る場所ですから」
 西領が現在平穏である事が出来る、その最たるもの── 『聖女』。
 この南の地までその名を届かせる彼女は、ミルファにとってもまた特別な存在だった。
 聖女ティレーマ── 正しい名はティレーマ=サリス=セリエン。
 現皇帝の第二皇女にして、唯一生き残った母親の違う姉。だが、ミルファにその人に関する記憶はほとんどない。
 最後に会ったのが二歳。それ以後の十五年の間、今まで一度も会った事がないからだ。
 ミルファにとっては、もっとも関係の薄い姉である。
 というのも、ティレーマはその手に聖晶を持って生まれてきた人間── 神官だからだ。
 だからこそ今まで生き延びて来れたばかりか、西領を守る事も出来たと言って過言ではない。
 神官が持つ庇護の力は、己のみならず周囲にも及ぶ。
 現在ティレーマは西領の最も帝都よりにある地方神殿に身を寄せ、そうする事によって帝軍のそれ以上の侵攻を防いでいるという。
 神官の身である限り、その命は保障されていると思いながらも── けれど、とミルファは逆接に言葉を繋ぐ。
「── 西は、牙を持たない」
 ミルファの言葉に思うところがあったのか、ルウェンが表情を引き締める。
 実際、西領の対応が受身に終始しているのは事実だった。
「西の主神殿におられた姉上が自ら帝都側まで出て来られたからこそ、西領の安全は保たれている。けれど、東領の事でもわかったはずです。…どんなに奥地にいようと敵の手は届く。すぐ目の前にいるのならなおの事です」
「…西に魔物が差し向けられると?」
「可能性はあります。神官である以前に、姉上は『皇女』なのですから」
 ── 皇帝の血を継ぐ人間である限り。
 その命は常に狙われている。実の…父に。
 もしミルファが神官に関して世間一般並に無知だったのなら、おそらく危惧は抱かなかっただろう。
 神官だからと言って、決してその命を奪えない訳ではない。その事実を知らなければ。
 だが、ミルファは今この場にいる人間の誰よりも『神官』を知っていた。だからこそ、危険だと思ったのだ。
 …人の『神官に害を為す事は出来ない』という一方的な固定観念が。

『神官だからといって、絶対に怪我をしないって事はないよ』

 遠い日に、聞いた言葉を思い出す。

『「命に危険がない」程度なら普通に怪我をするし、身に降りかかる直接の災厄ではないから、病気にも罹(かか)るしね』

 結局の所、聖晶がその持ち主を守るのはその命に及ぶ程の直接的な災厄だけで、それ以外の手段でならその命を奪う事は出来るのだ。
 そして彼等から反撃する事は絶対的にない。殺生以前に故意的に他者を傷つける事もまた、禁忌とされているから──。
「今ここで西までも均衡を失ってしまう事は避けたい。だから…」
「あえて帝都と西領の間に入って壁になる、と?」
 言葉の後半をルウェンが引き継ぐと、ミルファははっきりと頷いた。
 東領のような事は繰り返したくなかった。もう、ミルファには皇帝を除けばティレーマしか近しい人は残っていない。
 喪いたくない── その想いが全てだった。たとえそれが、馴染みの薄い姉でも。
「私が西へ動く事で、南領への侵攻も減るはず。…狂帝の狙いは、あくまでも私と姉上の命なのだから」
 …ただし、その裏にいる魔物を動かす存在の狙いが、何処にあるのかはわからない。
 その部分だけが不安要素だったが、まだ確証が得られていない今、ミルファはそこまで言及はしなかった。
 いずれ直面する問題だろうが、あまりにも相手に関する情報が少なすぎる。不用意に不安の種を蒔くのは避けるべきだと判断した結果だ。
「これ以上、必要のない血が流れない為に。…私は西への行軍を望みます。異論はありますか?」
 真摯な願いの込められたその言葉に、反論の言葉はもう聞こえなかった。

+ + +

 そして数日後── 反乱軍に属する全ての人間へ今後の進路に関しての指令が下った。
 多くは疑問と動揺を隠さなかったが、上官に当たる指揮官達による自主的な説明によって、皆、最後には納得した。
 西へと向かうとなると、いろいろとまた別の問題も浮上するだろうし、何より今まで背を守っていた『南領』という後ろ盾を失う事になる。
 だが、彼等もまたミルファに運命と命を預けると決めた人間だった。
 シェリス河を渡る準備が整ったのは、それから更に数日後。
 ついに南の地を離れる事になったミルファは、その船上で空を眺めた。
 南の領館を旅立った時に見た、暗い曇天とは違う夏の気配を強く漂わせる青い空がそこに広がっている。
 ただそれだけの事なのに── 何故、こんなにも心が救われるような気持ちになるのか、ミルファは不思議だった。
 その目はやがて真上から北、そしてこれから進む西へと動く。
 …父に対して挙兵してから、三年目の夏。
 先行きのわからない流れの中、ミルファはその人生で最大の激動の年となる十八の年を迎えていた。

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