天 秤 の 

第ニ章 騎士ルウェン(18)

 その夜──。
 盛大に浴びた返り血を洗い流し、夜風に当たっていると、ふと背後に何者かの気配が生じた。
 何者かと問わずとも、それが誰かルウェンにはわかっていた。
 名は知らないが、そんな風に唐突に姿を現す事の出来る存在を彼は一人しか知らなかったからだ。
「…何か用か?」
 今は寸鉄帯びていない。元より得物を手にしていたとして、太刀打ちできるかも怪しい相手だ。丸腰のまま、ルウェンはその目を背後に向けた。
 闇の一部のように、ひっそりと佇む姿。頭からすっぽりと布を被ったその人物は、暗い声音で彼の問いへ答える。
「まだ…名乗りもしていなかった事を思い出しましたので」
「それでわざわざ? …ご苦労な事だな」
 得体が知れないのは相変わらずだが、その言葉にルウェンは正直拍子抜けした。
 つい先程の戦いで、ルウェンすらも畏怖を覚える程の呪術を使って見せた人物だと言うのに、たかがそれしきの事でやって来るとは思えなかったからだ。
 だが、実際それが目的だったらしく、彼は自らの名を口にする。
「── ザルーム、と申します。皇女ミルファ様にお仕えする呪術師でございます」
 淡々とした口調で名乗られたその名前は、ルウェンの知るものだった。
 思わずまじまじと見つめてしまう。
(こいつが……)
 思い出すのは、セイリェンへと向かう前にジニーと交わした会話だった。

『誰か知らないが、一度会ってみたいもんだな』
『── 今回の作戦が成功したら、会えるかもしれませんよ』

 今回の作戦を立てた、皇女ミルファの『影』。言われてみれば、これ以上ぴったりの存在もいない。
 あの時は胡散臭いとしか思わなかったが、実際に会ってみると驚きの方が先に立つ。
 恐らく今まで、ミルファの側にありながらも、ほとんど表立って姿を見せていなかったに違いない。
 そんな人物がまだ正式に仕官もしていない自分の下へと姿を見せた事── わざわざ名乗りに来た事が不思議でならなかった。
 だが、それよりもまず先に言わねばならない事を思い出し、ルウェンは口を開いた。
「…先刻のあれ、助かった」
「……」
 ザルームは虚を突かれたように沈黙を返した。表情は見えないが、そうした事は雰囲気で伝わる。
 やがてザルームは微かに苦笑の滲む声でいいえ、と答えた。
「あれも、ルウェン殿の働きがあったからこそ。正直言って、魔物相手にあそこまでやれるとは思ってもおりませんでした」
 そこにあるのは、心からの賞賛。それは益々ルウェンを困惑させた。
 あれだけの力を持つ呪術師である。もっと尊大で傲慢な態度を取ると思っていたのに、これでは肩透かしだ。
 だが、褒められて悪い気がするはずもなく、ルウェンはまだ僅かに持っていた警戒を解いた。
「それはこっちの台詞だ。あんな術、初めて見たぜ。呪術ってのはあんな事まで出来るものなんだな」
 魔物を完全な氷像にした術を思い出しながらそう言うと、ザルームは静かに頭を振った。
「あれは…呪術ではありません」
「…え?」
「最後に使った術は、『呪法』と呼ばれる禁呪── 今のこの世には、ほとんど伝わっていない、命を奪う事を目的とした術です」
「……!」
 その言葉は、ルウェンから言葉を奪うのに十分だった。それはかつて、東の主神殿で聞いた事を思い出させる。

 ── 今ではもう記録にもほとんど残っていませんが、身体を傷つける事なく人の命を奪える術があったそうです……。

 一月前のあの日、ソーロンの命を奪い去ったかもしれないもの。おそらくザルームは、それと同様の術を使ったと言っているのだ。
 反射的にルウェンはザルームへと問いかけていた。
「…何を知っている!?」
「──」
 呪術という事にしておけば、疑問にも思わずに済んでいたかもしれない事実をわざわざ口にするその意図を問う。
 まるで、疑えと言わんばかりの言葉── だが、それ故にルウェンはザルームが何らかの情報を手にしているのだと確信した。
 おそらく今ここに剣があれば、その切っ先を咽喉元に突きつけていたに違いない。
 だが手元に剣はなく、ルウェンは代わりに切りつけるような鋭い視線をザルームへ向けた。その視線を真っ直ぐに受け止め、やがてザルームは重い口を開く。
「…事は、あなたが思うより重大で深刻です」
「何…?」
「ただ言える事は、深入りすればただでは済まないという事だけ── 命の保障も出来ません。それでも…ソーロン様の敵を討ちたいとお望みですか」
 それは忠告のようでいて、明らかな牽制とも言えた。
 呪法と呼ばれるものがどんなものかを意識させる事で、ルウェンの関与を拒んでいるのだ。
 …命が惜しければ手を引け、と。
 その問いに、ルウェンはしばし考え込むように沈黙し── やがてその口元に笑みを浮かべた。
「そんなの決まっているだろうが。…誰が手を引くかってんだよ」
「……」
「相手がどんな化け物だろうと、これだけは譲る気はねえ。絶対に見つけ出して── この手で討つ。必ずだ…!」
 ここで手を引いては、一体何の為に生き延びたのかわからない。
 その為だけに、満身創痍の身を引きずってここまで来たのだ。今更、命が惜しいなどという理由で尻尾を巻いて逃げるなど出来るはずがなかった。
 彼の意志の固さがわかったのか、ザルームはそれ以上は何も言わなかった。そんな彼に逆にルウェンが尋ねる。
「何でわざわざそんな事を言いに来たのかわかんねえけどよ。一つだけ聞きたい事がある」
「…何でしょう」
「お前は、味方か?」
 それが愚問なのはルウェンにもわかっていた。だが、確認せずにはいられなかった。
 ── ザルームは、肯定もせず否定もしなかった。
 再びその身を闇へと紛らせながら、ただ一言だけを口にする。
「……今の所は」
「── !?」
 ルウェンははその答えの意図する所に気付き、言葉を失った。
 つまり── ザルームにもザルームなりの理由があって動いているという事だ。
 もし彼の目的がミルファやルウェンの意志に反するものであった場合、敵にもなり得るということ──。
 気がつくと、もうローブ姿はなかった。最初からそこにいなかったように、見事に姿が消え失せている。
 だが、ルウェンはそこから動けなかった。それだけ、ザルームの残した言葉は彼にとっては衝撃的なものだったのだ。
 やがて夜風で身体が完全に冷え切るまで、彼はそこに立ち尽くした──。

+ + +

 セイリェンの戦いから、明けて十日。
 今回の戦いで被害にあった街の復興も進み、人々に本来の活気が戻りつつある頃、ルウェンの元を訪れた者があった。
 数日前に今回の働きを評価され、正式に皇女ミルファへ騎士として仕官する事が決まり、一躍英雄扱いを受ける事になった彼である。
 そんな彼に会いたがる者は少なくなく、彼に与えられた宿の一室へ来客がある事自体は、それほど珍しいものではなくなっていた。
 その為、特に気にもせずに叩かれた扉を開いたのだが── その向こうにいた人間の顔を見た瞬間、彼は見事なまでに固まっていた。
 にこやかで明るい、無邪気な笑顔。南領の人間には多い黒髪は肩の上辺りで切り揃え、緑を帯びた茶の瞳は悪戯っぽく輝いている。
「フィ…、フィル…ッ!?」
 思わず名を口にすると、その笑みは一層深まった。そう、そこにいたのはかつて彼の看護人兼監視人だった施療師見習いの少女── フィルセル=リッド=マグリス、その人だったのだ。
「お久し振りです、ルウェンさん♪」
「久し振りって…お前、南の領館に残ったはずじゃ…!?」
 あからさまに動揺するルウェンに、フィルセルはむっとしたように唇を尖らせて抗議する。
「なんですか、その迷惑そうな言い方。仕官が正式に決まったって聞いたから、こうしてわざわざおめでとうって言いに来たのに」
「だ、だってな……」
 フィルセルの言い分ももっともだったが、ルウェンがそんな態度を取ってしまうのも仕方がないと言えば仕方のない事だった。
 何しろ、このまま帝都に向けて進軍するなら、おそらく全てが終わるまでは会う事もないだろう── そう思っていた人間が、いきなり前触れもなく現れたのだから。
 しかも…少々、思い出したくない記憶がある人間が。
 悪い事に、今回の戦いで彼の傷は増えており、完治していない傷を抱えて極限まで身体を酷使した結果、二日程倒れていた身である。
 果たしてそれを知られたなら、どんな説教(あるいは肉体的制裁)が待っている事かと結構本気で怯える彼は、とてもではないが魔物の集団相手に勇敢に戦い、大活躍した人間には見えない。
 …彼を英雄だと慕う人間には到底見せられない姿である。
「来たって…そういや、お前一人なのか? ジニーは?」
 怪我の事に話が及ぶのを避け、さりげなく(少なくとも彼はそのつもりだった)話題を変えると、フィルセルは特に気にした様子もなく、笑顔のままあっさりと答えた。
「来てますよ? 今は上官の方の所に挨拶に行ってます。その内、こっちにも顔を出しに来ると思いますよ。…と言うか、今回はジニーが従軍する事を志願したんで、じゃああたしもとそれに便乗したんですけどね。医師とか施療師の人間は多くはないし、人手はいくらあってもいいと思いましたし」
 そのあまりにも気軽な物言いに、ルウェンは思わず頭を抱えた。
 わかって、いるのだろうか。
 ここから先は戦いの連続になる可能性は高い。つまり── それだけ命の危険も増す。
「フィル…お前な、これは物見遊山とは違うんだぞ? ったく、よく保護者が許したな」
 つい説教じみた事を口にすると、フィルセルは僅かに小首を傾げて答えた。
「保護者なんて、もういませんけど。あたしにも、ジニーにも」
「……!?」
「だから、ちゃんと自分で考えて決めたんですよ。危険なのはちゃんとわかってますから」
「……」
 自分で蒔いた種ながら、予想外の結果にルウェンは何も言えなかった。
 確かに今の時代、大人になる前に両親を失う子供は少なくない。…否、むしろ多い。ルウェン自身、幼い頃に流行病で家族を一度に失った身である。
 そういう現実を理解していながら、無神経に『保護者』という言葉を口にした事に反省の念を抱いていると、いつの間にかすぐ側に近寄ってきていたフィルセルが彼の顔を見上げてにこり、と笑った。
(──!)
 それは、かつて南領で療養中に幾度となく見た特徴的な笑顔。
 ヤバい、と思った時には遅かった。フィルセルは笑顔のまま、その手で景気付けるようにスパーンと彼の胸を叩いていた。
「〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!!?」
「何を暗い顔してるんですか、ルウェンさんらしくないですよっ!!」
 ぎこちない空気を吹き飛ばす、明るい声。
 しかし、ルウェンはそれ所ではない。東領で負傷し、ようやく治りつつあった肋骨に受けた衝撃に声すら出なかった。脂汗を流しながら、無言で耐える。
 そんな彼をきれいに無視して、フィルセルは発展途上の胸を反らすと、まるで宣言するように言い放った。
「まあ、安心してくださいね♪ これからはあたしがいますから、怪我をしても大丈夫! 心置きなく戦ってください。死んでさえなければ何とかしますから♪ ねっ?」
 それは何も知らない者が聞けば、微笑ましい限りの発言だったが、言われた当人の顔は見るからに引きつった。
 引きつったまま── その口元に無理矢理笑みを貼り付ける。実に涙ぐましい努力だ。
「あ、ありがとよ…そりゃあ、心強い……な……」
「どーんと大船に乗ったつもりで任せて下さい!」
「あ、ああ…ハハハ…」
 表面上は何とか笑顔を浮かべながらも、ルウェンは心の中で、これからは何があろうと重傷を負う事は避けねば、と心に誓っていた。

+ + +

 その翌日。
 全ての船を失くし、魔物相手の血戦が行われた港で、鎮魂の儀式が執り行われた。
 死傷者の多くはその魔物との戦いで出たものである。その中には帝軍に属する人間も多く含まれていた。
 そんな彼等の魂の安らかな眠りを祈る為に、ミルファはセイリェンに近い地方神殿からわざわざ神官までも呼んだ。
 今までの戦いではなかった事だが、人々はそれを歓迎した。神官による鎮魂を彼等も望んだ為だ。
 何しろ、今回の死者はほとんどが普通の死に方をしていないのだから。
 普通の葬儀が行われる時も大抵水場が選ばれる。
 それは命を失った者は『河』を渡り、そこで全てを洗い流されて無に帰すと考えられているからだった。
 簡略ながらも祭壇が設えられ、そこに派遣されてきた神官が立ち、厳かに聖句を唱え始める。

「── ここに哀れなる魂が為、祈りを捧げん。唯一の神にして、秩序を司りし神ラーマナよ。死の運命に殉ぜし子等の魂を導きたまえ。迷う事なく河岸を渡れるよう、手を差し伸べたまえ。彼等の魂が癒され、再び生命と身体を得る時まで、穏やかなる眠りを享受するよう祈らん。── 新たな生において、この者達に祝福と幸があらん事を」

 それは死出の旅に出た魂を送る弔いの言葉。何一つ持って行く事の出来ない彼等への唯一の餞(はなむけ)──。
 先の生にて不幸の中で死んだものは、次の生ではより幸福になれるという。それを信じて祈る事だけが残された者に出来ること。
 しめやかにその儀式が終わると、ミルファが代わって立ち、その場にいる人々を見渡した。
 設えられた壇上には上がらず、人々と同じ高さに立った彼女はそこで宣言した。
 曰く── 『これより皇帝を討つべく、帝都に向けて進軍する』、と。
 その言葉を、その場にいた人間は真摯な眼差しで受け止める。ついに時が来たのだと彼等は肌で感じていた。
 何か目に見えない、大きな流れが動き出す── そんな感覚を。
「今回の戦いで、多くの血が流れました。喪われた命を贖う事は出来ません。しかし…これ以上、必要のない血が流れる事は防げるはずです」
 しん、と水を打ったような静けさの中、シェリス河から聞こえる水音とミルファの凛とした声だけが響く。
 それは何処か厳粛で、さながら先程の儀式の続きのようだった。
「私の為に戦う必要はありません。あなた方の大切なものを守る為に、あなた方の幸せの為に…私が望むのはそんな自ら戦う意志。それがなければ、これから先の戦いは決して切り抜ける事は出来ません」
 淡々と訴えかけるミルファの言葉は、彼等の耳を打ち胸に届いた。食い入るように彼等はそこに立つ一人の少女を見つめる。
 彼等の命を預かる── 将来、彼等を治めるかもしれない少女を。
「── 忠誠は無用です。現状を許せず、元の平穏を取り戻したいと望む意志があるのなら、私と共に参りましょう。…あなた方の手を、貸して下さいますか?」
 忠誠心ではなく、自分の意志で── そう告げたミルファに、彼等は一瞬沈黙した。
 従え、と命じられるのには彼等は慣れていた。そしてそれを受け入れる事も当たり前になって久しかった。…それが自分の本心にそぐわなくても。
 だが、ミルファはそんなものはいらないのだと言った。欲しいのは志を同じくする人間── 『同志』なのだと言ったのだ。
 それは本来ならば人に傅(かしず)かれて当然の皇女が口にするはずのない言葉。だからこそ、彼等は咄嗟に反応が返せなかった。
 だが── 緊張に満ちたその沈黙は、次の瞬間、割れるような歓声によって破られていた。
 口々に自分の名を呼び、笑顔を見せる彼等に、ミルファもまたその面に笑みを浮かべて応える。
 それは随分と長い事封じられていた、心からの笑顔だった。それ故に、それは強く心に焼き付く輝きに満ちていた。さらに歓声は高まる。
 権力でもなく、武力でもなく。
 ミルファはその言葉と笑顔で、彼等の心を掴んでいた。忠誠を望まなかったが故に、逆に確固たる忠誠心が彼等の中に生まれる。
 皇女ミルファ── 彼女にならば、命を預けられると。
 ミルファはまだ年若く、同じ年頃の娘達に比べ、どちらかと言えば華奢で非力に見えた。
 けれど、彼等は確かにその時、その姿に新しい時代に続く光を見たのだ。

+ + +

 その後、多くの人々が見守る中、一人の兵士が皇女ミルファへ剣を捧げた。
 今回の戦いで多大なる働きを見せ、正式な騎士としてミルファへと仕官する事になった男の名はルウェン=アイル=バルザーク。
 それは遥か後世まで語り継がれる事になる、『不敗の騎士』ルウェンの名が歴史に刻まれた瞬間であった──。



 第ニ章 騎士ルウェン(完)   第三章へ続く

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