天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(11)

 ルウェンが後方へ向かう中、ようやく三体の魔物達が動きを見せた。

 バサッ…

 それなりに距離があるというのに、兵士達の耳にも翼が大気を打ちつける音がはっきりと届いた。
 夕闇に広がる、巨大な翼の影。
 有翼の魔物を初めて目の当たりにし、多少は魔物に免疫が出来ていたはずの彼等も思わずその動向を固唾を飲んで見守る。
 翼は魔物の巨体を支えるに相応しく、その身体の大きさの二倍は大きいものだった。それがゆっくりと具合を確かめるように数度羽ばたく。

 バサッ、ブォン……

 空気を孕(はら)み、吐き出し、翼はそれ自体が独立した生き物のように動く。その間も、本体に当たる魔物は微動だにしない。赤い瞳をひたと反乱軍に向けるばかりだ。
 翼だけが動き、今にも空へと舞い上がる素振りを見せながら、それを見つめる兵士達の緊張を高めた。
 ── そして。

 …バサ……ッ!!

 ひときわ大きく翼が空を叩いたかと思うと、その身体はその大きさが嘘のように、一気に重力の軛(くびき)を断ち切って上空へと一直線に舞い上がる!!
「…と、飛んだ!?」
「そんな……!」
「嘘だろ!!」
 翼がある以上、空を飛ぶ可能性がある事は予測していたものの、実際にそれを目の当たりにした精神的な衝撃は大きかった。
 何しろ空が飛べるという事は、こちらからの直接の攻撃は一切効かないという事だ。逆に向こうはいかようにでも攻撃出来る。空からの攻撃に対する防御や心構えなど一切ないのだから。
 そして兵士の多くが遥か上空にまで一気に飛翔した魔物に目を奪われている一方で、地上に残った二体の魔物も動き始めていた。
 飛行能力こそないが、その戦闘能力が低い訳ではない。一度の跳躍で距離が一気に詰まる。兵士達が我に返った時には、二体の魔物がすぐ目の前にまで接近していた。
「げ、迎撃せよ!!」
 指揮官の一人が指示を飛ばすが、一度乱れた緊張が一瞬で戻るはずもない。
 最前列に構えていた兵士が得物を構えなおした時には遅かった。

 シュガッ!!

 空と地面を同時に切り裂きながら、魔物の手首が下から斜め上方に向かって翻(ひるがえ)る。
 最初はまだ手の形状をしていたそれは、疾走する最中に形を変え、さながら槍のようなものになっていた。

 …ガギッ……!

 兵士が二人掛かりでその腕を受け止める。二人とも鍛え上げられた肉体を誇る戦士である。だが、やがて彼等二人の額に玉のような汗が噴出し、滴(したた)り落ちた。
 ── 重い。
 片方の腕の一撃、しかも二人掛かりでこれである。盛り上がった腕の筋肉に血管が浮かび上がり、噛み締めた奥歯の奥から苦悶の呻(うめ)きが上がった。

 シュッ!!

 そんな彼等を支援すべく、少し後方に下がって配置されていた弓を得意とする兵士が一矢を放つ。
 二人の兵士に攻撃を受け止められ、動きを止められていた魔物の目に向かって放たれたその矢は、しかし空いていたもう片方の腕によりあっさりと跳ね除けられる。

 シュ…ッ!
 シュシュンッ!!

 正に矢継ぎ早に矢が放たれるが、結果はどれも同じだった。
 前方、側方、いずれの方向から放たれても、魔物の驚くべき反射神経と動体視力はそれらを的確に跳ね返す。
 そうしながらも、もう片方の手は二人の兵士にぎりぎりと重圧をかけ続けている。
 残る一体はハンマー状になった腕を振り回し、兵士達を蹴散らしていた。
 わざとのように外れた場所に一撃を振るい、無駄に地面を揺らし、陥没させる事で威嚇(いかく)する。速さはそれほどではないものの、その一撃の威力を目の当たりにした兵士達はどうしても二の足を踏んでしまうのだ。
 もし直撃を受けたら── 確実に死ぬ。それがわかるが故に。
 結果として防戦一方となる彼等は、当然ながら自分の事で精一杯で先程上空へと飛び上がった魔物の事など記憶の端からも消え去っていた。
 ── それこそが、この二体の魔物に与えられた役目だと気付かないまま。

+ + +

 ズゥウウウゥン……

 微かに響いてくる剣戟の音と地響きに、ミルファは魔物との戦いが始まった事を確信する。
 後方に位置する彼女からは前線の様子を直接知る事は叶わないが、状況が芳しいものではない事は薄っすらと理解出来ていた。
 肌で感じる── 危険、だと。
 その頃、上空に昇った魔物はミルファを見下ろす位置へと移動していた。
 魔物が空を飛ぶなど今まででは有り得なかった事態だけに、実際に目にしていない後方の部隊は上空に対しては無防備だ。空からの攻撃などないと思い込んでいる。
 地上から見上げても、小さな点にしか見えない程に上昇した魔物の事など気付きもしていない。
 雲を透かして地上を見下ろす魔物は、にたりとその口元に歪んだ笑みを浮かべる。

「…ミツケタ、《ヨウメイノフンドウ》……」

 キイキイ、と金属が擦れ合うような耳障りな声がその口から漏れた。

「ワガアルジノメイ、カナエルベシ」

 その背にある翼がばさりと羽ばたく。
 ゆっくりと持ち上げた掌に、ポウッと赤黒い光が宿った。
 大きさは人間の男の拳ほど。魔物の手では軽く包み込める程のそれは、闇の中でゆらりと揺らめく光を放つ。
 ── その光一つで、小さな村を軽く消せる威力を秘めている事を知るのは、それを目の当たりにした者だけだ。
 魔物はその光をじっと見詰め、やがて笑みを収めると静かに呟いた。
「── ゲンショノヨヲ、サイケンセン」
 それは何処か厳かな呟き。

 ── 原初の世を、再建せん

 異形のモノの口から紡がれるには、いささか不釣合いな言葉だった。その赤い瞳にあるのは、絶対的な忠誠にも似た── 狂信。
「ワガアルジヨ、ゴショウランアレ……!!」
 嬉々とした叫びを上げると同時に、魔物はその手を高々と上空に持ち上げた。
 掌の上で踊る破壊の光。その下にいるのは── 皇女ミルファ。魔物が主と呼ぶものが欲したものを有する者。
 ── 月に捧げる、贄(にえ)。

「ワレ、ココニササゲン!」

 ゴオッ、と音を立てて光はその大きさを増した。
 内に封じられていた力が僅かに解放され、束縛から完全に解放されるのを求めて荒れ狂っている。
 魔物はその腕に力を貯め、一瞬後全身のバネを利用してその光を地上へと叩きつけた。

 闇に、一閃。

 赤い光は軌跡を残し、空に一筋の光の線を刻み、一直線に地上へと舞い落ちる。
 地上にいた人々がその尋常でない光の気配に気付いた時には、もう遅かった。
(…あれは、何……!?)
 呪術によって炎の玉が降ってきたのかと思った。
 だがそうならば周辺に配置された呪術師── 流石にザルームに並ぶ程ではないが、それでもそこそこの力を有した者達だ── が気付かないはずもない。
 ルウェンから呪術師のような攻撃を仕掛けてくる魔物の存在を耳にしていたが、そこまでの連想は働かなかった。
 ── 炎が、降ってくる。
 周囲の兵士達も咄嗟にどう行動して良いのかわからず立ち尽くしていた。
 彼等の旗頭であるミルファを守るという職務を忘れた彼等を非難する事は出来ない。ミルファ自身、次の行動を選ぶ事が出来なかったのだから。
 呆然と見上げる。
 無意識に唇が彼女の影の名の形に動いたが、それは声になる事はなかった。


 …そして、訪れた夜の闇の中。
 轟音と共に赤い火柱が立ち上がった。

+ + +

 後方へと向かっていたルウェンは、その火柱を目にし、急いでいた足を止めた。
 遥か上空にまで昇る赤い光。
 鼓膜を破かんばかりに響き渡った爆音。
(…嘘だろ……)
 それが最初の感想だった。
 周囲の兵士も目の前の光景が信じられないように立ち尽くしている。
 こうした攻撃の可能性を予測していたルウェンですら絶句した程なのだから、それも当然の事だろう。
 だが、またすぐに走り出す。進行方向から熱風が吹きつけ、その威力の程を知らしめる。行くだけ無駄だと言わんばかりに。
 だが、彼には皇女ミルファがこんな所であっさりと倒れるとは思えなかったのだ。
 ── あの『影』がいる限り。
(…あのザルームが、皇女の側を離れるはずがねえ……!)
 ザルームの腕を信じたいと思う一方で、心の奥は不吉な予感を感じ取っていた。ある可能性に気付いてしまったが故に。
 本当にザルームがそこに控えていたのなら、こんな事態になる前に防げたのではないか。
 得体が知れない上に、真意がわかっていない相手だが、その実力は理解している。たとえ飛行能力を持ち、呪術のような技を使ってくる魔物が相手でも、自分よりは楽にあしらえたはずだ。
 …それが出来なかったという事は、ザルームが不在である可能性が高い。そして、もう一つ。
(…元々、敵方だったというオチか……。冗談じゃねえな)
 だが、その可能性も決して無ではないのだ。
 初めてまともに会話を交わしたセイリェンの夜。あの時、彼は言ったではないか。
『── 今の所は』
…と。
 ぐっ、と腰に下げた剣の柄を握りしめる。
 相手が誰であろうと、今の彼に出来る事は剣の主であるミルファの無事を確認し、その危険を排除するだけだ。
 そう── たとえそれが、強大な力を持つ呪術師であっても。
 幾人もの人とすれ違う。
 多くが放心したように火柱が上がった方角を見つめていた。彼等も気付いているのだ。その中心に誰がいたのかを。
 その人々の間を擦り抜け進む内に、やがて人が見えなくなり視界が一気に開けた。
(……?)
 最初に気付いた違和感は、そこに漂うにおいだった。
 青臭い、育ち盛りの草が放つ芳香がそこにある。だが、それだけなのだ。人を焼いたはずなのに、それ特有の臭いがまったくない。
 …まだ炎は燃え続けていた。
 だが、それはルウェンの予想に反して周囲の地面や草、そしてそこにいたであろう人々からのものではなかった。
「…何だ、これ……」
 思わず呟く。そこには魔物以上に常軌を逸した光景が広がっていた。
 …空が、燃えている。
 見上げた上空一面に炎の海が広がっている。まるで透明な巨大な屋根がそこにあるように、空と大地の間で炎が揺らめいていた。
 赤い光と熱が降り注ぐ。つまり炎は正真正銘本物という事だろう。
(…ザルームか?)
 彼の知識ではこんな事が出来る存在は彼しかいない。だが視線をその屋根の下にいる人々に向け、ぎょっと目を向いた。
 兵士や呪術師、そして医師や施療師と思われる人々が皆、糸を切られた人形のように普通に倒れたにしては不自然な体勢で地面に転がっていたのだ。
 反射的に駆け出し、一番近くに倒れていた若い兵士を抱き起こした。起こす前にその呼吸と脈を確かめる。
 ── 生きている。
 ほっと吐息をつき、そっと地面に横たえた。下手に起こして今の状況を目の当たりにさせる方が酷だと思ったのだ。
 …すぐ頭上に燃え盛る炎があるのを目にして、冷静でいられるはずもない。
 もしかすると、恐怖のあまり全員が失神してしまったのだろうか、そんな結論に達しかけながら立ち上がって周辺を見回す。皇女ミルファを捜さなければならない。
 相変わらず頭上には炎があり、正直言って落ち着かない。ふとした弾みに一気にその炎が雪崩れ落ちてきたら── どんなに頑丈な人間でも即死だ。
 熱された大気の中を進むと、すぐに汗が浮かび流れ出した。時折拭いながら倒れている人々の中にミルファがいないかを確かめる。
 こんな事なら前線に出るのではなく、身辺警護の方についていれば良かったと後悔しながら。
 …どれ程進んだ頃だろう。時間にするとおそらくそう短い時間ではなかっただろうが、熱さと本来ならば有り得ない空に炎が広がっている状況の為か、感覚が少しおかしくなっているのだろう、随分長く歩いた気がして視線を足元からふと前方に向けた時だ。
 視線の先に立つ人影を見つけた。その数は二つ。
(…ザルームと…皇女ミルファ……?)
 その人影は遠めでも空に広がる炎のお陰でか、片方が黒っぽい布を巻きつけるようにして身に着けている事はわかった。
 …そんな格好はルウェンが知る限り、ザルーム以外に存在しない。という事はそこから少し離れて立つ小柄な影は皇女ミルファだろう。
 やはり側に控えていたのか── そう納得し、安堵の息をつきかけたのは僅かな間。やがてルウェンはその目を見開く事になる。
 小さい方の人影── おそらくミルファだと思われる側の手が持ち上がったのだ。それだけではない、その手の先に空からの赤光を受けて鈍く光ったのは──。
(…剣!?)
 ここまでの道中で、ルウェンもミルファが剣を使える事は知っていた。ミルファ自身が彼に教えを請うたからだ。
 それはつい先日の事だった。
 南領では基礎だけを学ぶのが精一杯だったと言い、より実戦的な使い方を教えて欲しい、とミルファは言った。
 彼女に剣を捧げた身としては普通に守られていて欲しい所だが、魔物も出没する可能性が高い戦場の危険を考えれば、自分の身を自分で守ろうとする意志は大事だと考え、ルウェンは頷いた。
 ── 西に到着したら。
 そう、条件をつけて。いくらなんでも行軍中にそういう事は出来ない。
 先を急いでいるだけでなく、それでなくても最高司令官であるミルファは休憩時間であっても、まとまった時間を取る事が難しいからだ。
 そのミルファが剣を抜いている── しかも、剣を向ける相手は(恐らく)ザルームなのだ。
(まさか)
 一気に焦燥感が募った。
 空はまだ燃えている。だが、もう熱さは感じない。
 いつでも抜刀できる状態で、ルウェンは一気に人影に向かって駆け出していた。

BACK / NEXT / TOP