天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(12)

 …今度ばかりは流石に死ぬのだと思った。
 自分の方を目指して降って来る炎。頬を熱風が撫で、それが幻ではない事を知覚した時には、それはすぐ目前にまで迫っていた。
 周囲の人間も悲鳴すら上げる事も出来ずに立ち尽くしていたが、流石にその瞬間は呪縛から解放される── ただし、それはいずれも無意識のものであったが。
 両腕をかざし、蹲(うずくま)り、あるいは絶叫する。そうした所で事態は何も変わりはしないと、わかっていながら。
 ミルファもまた、手を動かしていた。
 伸ばされた先は胸元── 服によって隠された空色の石。それを指先で辿り、強く握る。…縋るように。
 絶体絶命の状況を前にして、ミルファの脳裏にあったのは、今まで心を支えてくれていた遠い笑顔、それだけだった。
 おそらくそれは、精神的な防衛本能が働いた結果だったのだろう。
 不思議とつい先程まで感じていた危機感は薄れ、混乱や恐怖も感じなくなっていた。時間の感覚すらも麻痺している。周囲の音も聞こえなくなっていた。
 瞬きほどの時間が、やたらと遅く感じながらも空を見上げる。自分に向かって一直線に近付く炎。そして、正に凝縮された炎が解放されようとしたその刹那。
 ── 無意識に動いた唇が呼んだのは、思い出の中の人ではなく、今は傍にいない『影』の名だった。

「…目を閉じて」

 来る、と思ったその時、耳元をその場の緊迫した場にそぐわない声が掠(かす)めた。
 この窮地(きゅうち)にありながらも落ち着きを感じさせる、男か女かも、年寄りなのか若いのかもわからないくぐもった声。
 軽い混乱の中、反射的に向けた視線に見慣れた姿を見た気がしたが、それが自分の知る存在か確かめる事は出来なかった。
 その人物がその手を空を薙(な)ぐように一閃させた瞬間、視界は真紅に染まり、耳を劈(つんざ)かんばかりの轟音が生じたからだ。

 …ゴオォオオォオォ……ッ!!

 思わず耳を塞ぎ、目を閉じた。言われるまでもなく、本能がそうする事を命じたのだ。
 閉じてもなお、目の奥に光の残像が光の欠片となっていつまでも残る。次いで激しくも熱い風が衝撃を伴って吹きつけてきた。
 上空から地面へ叩きつけるように。一瞬、呼吸が出来なかった。
 ミルファの額にたちまち汗が浮かび、それは瞬く間に雫となって大地へ落ちる。
 顔を庇い、少しでも呼吸を確保しようと試みるが、鼻腔を通るのはどれも焼けて乾燥した大気ばかりだ。
 咽喉に軽く爪を立てられるような痛みを感じて咳き込みながら、ミルファはそれでも冷静に自分の状況を分析していた。
(…焼けていない)
 熱いのは確かだが、まるで暖炉の直前にいるように、じりじりと肌を焙(あぶ)るような熱だ。
 実際の炎に焼かれた体験など当然ないが、熱いばかりで苦痛を感じないはずがない。だから取り合えず自分は助かった、と言う事だろう。
 ようやく少し熱に慣れ、そろそろと腕を下ろすと、周辺の様子が一変していた。
 赤いのだ。
 夕暮れはとっくに過ぎ去ったはずなのに── 一瞬そう考えたミルファは、やがてその赤が何処から齎(もたら)されたものかに気付き、ひゅっと息を飲んだ。
(炎が…空に……!?)
 常軌を逸したその状況に、知らず目を奪われる。
 遥か上空にある炎の海── それでもこれだけの熱が届いて来る。もし直撃を受けたなら、おそらくこの身は瞬時に焼き尽くされ、何も残らなかったに違いない。
 呼吸すら忘れ、言葉もなくし立ち尽くしていたミルファは、やがてはっと我に返った。思い出したのだ。
(そうだ…ザルーム……!)
 炎が降る直前、自分に目を閉じるように命じた人物がいた。全身を黒っぽい布で覆い隠したその様は、正しく彼女の『影』と同一のもの。
 慌てて周囲を見回し、ミルファはそこでようやく、その場で意識を保っているのが自分だけだという事に気付いた。
 周囲を守っていたはずの兵士も、呪術師や施療師も── 全て地面に倒れ付していた。しかも普通に意識を失ったにしては、少々不自然な体勢で。
 ある者は剣を抜きかけた体勢のまま、後ろに倒れていた。ある者は悲鳴をあげかけ持ち上げた手をそのままに横に転がっている。またある者は頭を庇うようにしゃがみ込みかけた中途半端な体勢のまま、地面に顔を埋めていた。
 まるで── その状態で時だけを止めたように。
(これは、一体……)
 思わず我が目を疑った。
 この自分が意識を失わずにいられた位だ、誰か一人くらいは立っている人間がいても不思議ではないのに──。

「── あ、そうか。ミルファには効かないんだったっけ……」

 次の行動すら考えられず、呆然と人々を見つめていたその時、すぐ背後で突然そんな声がした。しまった、と言わんばかりの呟き。
 聞き覚えのない── 若い男の声。
「!?」
 すぐさま振り返ると、そこには先程ザルームだと思った全身を布で覆った人物が影のように立っていた。
「……!」
 違う。
 直感的に感じ取る。目の前にいる者は、一見した所とても似ているが、自分の知る『影』── ザルームではない……!
「…何者、です」
 慌てて身体を返し、ぞくりと背筋を這い上がった悪寒を振り切るように、殊更冷静さを保って誰何する。見ず知らずの人間に無防備な背を見せていた事に動揺しながら。
 落ち着かなければと自分に言い聞かせ、視線は目の前の男に向けたまま、手は腰に下げた剣に向かう。
 こんな剣で敵う相手ではないのは肌で理解していた。
 何しろ、目の前の人物は何らかの術を用いたにしても、落下してきたあの炎を腕一つで防いだのだ。
 つまり── ザルームと同等、あるいはそれ以上の呪術師である可能性が高い。だとしたらこちらが切りつけたとしても、簡単に退けられるのは目に見えて明らかだ。
 それでも、弱気をさらす訳には行かない。自分は──『皇女』であり、この反乱軍の旗頭なのだから。
 そんな警戒を剥き出しにしたミルファに対し、黒衣の人物は無言で立ち尽くしている。その様子は隙だらけで、いっそわざとらしい程に無防備だった。
「答えなさい。口が利けない訳ではないでしょう」
 触れれば切れそうなくらいに鋭い問いかけに、黒衣の人物はようやく口を開いた。
「…人に名前を聞く時は、先に名乗るものでは? 皇女ミルファ」
 やはり聞き覚えのない、ザルームとは異なる声が軽い口調で言い放つ。
「…っ!」
 予想外の切り替えしに思わず言葉に詰まった。
 確かにその言い分はもっともだが── この状況でそんな世間一般の常識を持ち出してくるとは思わなかったのだ。
 それと同時に相手が自分の名を知っている事に対し、なおさら警戒は募った。そんなミルファに、男はやれやれと言わんばかりに軽く肩を竦める。
「折角こんな変装までしたのに── 無駄になった」
 姿を隠す布を持ち上げながらの、嘆息混じりに呟く声。それを耳にして、ミルファは眉間に皺を寄せた。
 今の発言には、更に胡散臭さを強調する単語が混じっていた気がした為だ。
「…変…装……?」
「そう。ザルームと勘違いしてくれればと思ったんだけど…流石に騙されてはくれない」
 飄々と捕えどころのない口調で肯定したばかりか、よもやと思った通りの名前を口にしてくれる。
 失礼ではない程度に砕けた、親しみすら感じさせる言葉達。
 だが、油断してはならないと心の何処かが警鐘を鳴らす。『彼』の名を持ち出して来た事で余計にそう思った。
 ── その名は、反乱軍の内部でも限られた者しか知らないのだから。
「ザルームを、知っているのですか」
 簡単には名乗らないと見越し、別の方向から尋ねると、男は布の内でくすっと笑い声を上げた。
「知ってるよ。よーく、ね」
 その返事は予測できたものの、実際に聞くと軽い衝撃をミルファに与えた。
「…ザルームも、あなたを知っているのね?」
「もちろん。…ああ、疑ってるのか。まあ無理もないし、それが当然だけど」
「……」
 決して面を露にしようとしない男。ミルファの警戒にも動じた様子を見せず、態度だけは堂々としているだけに違和感は募った。
 違和感はあるし、とても警戒を解く事はできそうにないのだが── その言葉からは一切の敵意を感じないばかりか、いっそ友好的なものさえ感じてしまうのは何故だろう。
 その事実が不可解だった。
(…一体、何者なの……?)
 ザルームの知り合いだと言って安心は出来ない。何しろ当のザルーム自身、何処の誰だかわからないのだ。
 自分の知らない所で何処に繋がっているかなど── 予想する事も出来ない。
 ただわかるのは、目の前の人物が自分を助けてくれたという、たった一つの事実だけ。
「── 助けてくれた事に対しては礼を言います」
 ミルファはぽつりと告げるや否や、手をかけていた剣をすらっと抜き放ち、その刃を相手の首元に突きつけた。
「…けれど、信用は出来ません」
「恩を仇で返すと?」
「あなたがここで自身を証明すればいい事です。敵か── 味方か」
 答え次第では剣を振るうといわんばかりの言葉に、鼻白んだように男は沈黙する。だが、その態度が突きつけられた剣を怖れてのものではないのは確かだった。
 ミルファ自身、自分の今の行動が正しいのかどうか自信はない。それでも、知りたいという気持ちが勝ったのだ。
 ── この男、引いてはザルームを信じるべきか、否か。
 …今まで人に剣をまともに向けた事などほとんどない。セイリェンで刺客に襲われた時も、自分からは仕掛けたりしなかった。
 心が震える。
 この手で誰かを傷つけるかもしれない── その恐怖に戦(おのの)く。
 だがミルファは決してそれを面に出す事はなかった。視線は真っ直ぐに。突きつけた剣が震えないよう、しっかりと柄を握り締める。
 そんなミルファと剣を無言で見つめていた男は、やがてぼやくように呟いた。
「…あーあ……、こんな事になるんなら、助けなきゃ良かったかも……」
 そして僅かに頭が動き、視線がミルファから外される。
 何事かと思うが、つられて目を放す訳には行かない。そのまま見つめ続けると、男は突然前触れもなくふわりと宙に浮き上がった。
「!?」
「…少々長居が過ぎたみたいだ。これ以上の面倒は勘弁してもらうとするよ」
 言いながらも片手を上げ、早くも退散の体勢になっている。
「待ちなさい…! まだ何も答えてもらっていないでしょう!!」
 焦りが手伝い、ミルファは普段の冷静さをかなぐり捨てて叫んでいた。
「悪いけど今は何も話す事はない。世の中には、知らないでいた方がいい事があるんだよ」
「何を──…!」
「ほら、向こうから皇女殿下の騎士がやって来る。だからここでお別れだ。今はまだ、必要以上の干渉をするつもりはないんでね。その内…また会う事があったら、その時こそはちゃんと自己紹介するよ」
 手を伸ばしても届かない高さにミルファは歯噛みする。男はまったく聞く耳を持たず、そのまま浮かび上がって行く。
 その途中でふと思い出したように付け加えた。
「ああ…そうだ」
「…?」
 抜いた剣を戻す事も出来ず、しかしもはやこれ以上の手出しも出来ずに地上から浮かび上がった男を睨んでいたミルファへ、男は告げた。
「── 急いで西へ行った方がいい。この襲撃の目的は最初から聖女ティレーマを潰す事のようだから」
「な……!?」
 何故そんな事を知っているのか、と追求しようとしたものの、それは叶わなかった。
 ミルファが口を開く前に、男はパチリ、と軽く指を鳴らし── その音が聞こえたと思った時には、上空からは一切のものが消えていたからだ。
 先程まで燃え盛っていた炎の海も。何者かもわからない、男の姿も。
 そして── 誰の目にも止まる事がなかったが、さらに上空にいた魔物も消えていたのだった。
「…消えた……」
 呆然と呟きながら、のろのろと剣を下げる。
 そこでようやく背後から駆け寄ってきた『皇女殿下の騎士』が辿り着き、焦りを隠さない口調で無事を尋ねてきた。
「皇女ミルファ、無事ですか!?」
「ルウェン……」
 前線から後方にまで一気に駆けてきた為か、それともまだ大気に残る熱の残滓の為か。
 その額に汗が光っているのを呆然と見つめながら、ミルファは彼の名を確かめるように呼んだ。今までのやり取りが夢か幻だったかのように、現実感が希薄になっていた。
「お怪我はないようですね」
 ほっとしたように表情を緩めると、ルウェンはつい先程まで男が浮いていた場所に目を向けた。
 一体、いつ相手がミルファに手をかけるかと今まで気が気ではなかったのだ。
 距離的にはそれほどではなかったものの、地面に転がっている人々を踏み超えて進む訳にも行かない。
 ── もちろん、本当に危機的状況になったら、そんな事はお構いなしに踏んで進んだに違いないが。
「今のは、何者です。刺客にしては様子が変でしたが……」
 遠目から見たルウェンには、その人物はさながらザルームのように見えたが、あえて直接名を出す事を避けて問いかける。
 見るからにミルファが精神的に消耗しているのがわかったからだ。
 ミルファはルウェンの問いかけにしばらく沈黙し── やがてゆるりと首を横に振った。

「わからない……」

 男の正体も、その目的も── 。
 それが、今のミルファに答えられるたった一つの答えだった。

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