天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(4)

 その後、二人はそれぞれの抱えた荷物を片すと、早速連れ立ってザルームの元へ赴(おもむ)く事にした。
 ── 善(?)は急げ、である。
 位置的には皇女ミルファの天幕に程近い、雑然とした一角。そこにひっそりと建てられた天幕がザルームに与えられた場所だった。
 人の動きがほとんどない、目立たない場所だ。周囲には様々な物資が乱雑に積まれ、更にそこを人の目から隠していた。
 わざとかと思いきや、そうではなく、まず物資を置いたのが先で、目立たない場所を探した結果ここになったのだという。
「…本当にここにいるのか?」
 信じない訳ではないが、それにしては静か過ぎる気がした。思わず尋ねたルウェンに、ジニーは少し自信のない顔で頷く。
「ええ…いるはず、なんですけど。あ、そうだ。他の方には秘密にしていて下さいね? 伝令の中でも、ここを知るのは限られた人だけなんですから」
「ああ、わかってるって」
 そこまで秘密にする必要性を感じないが、それがザルームの── その主であるミルファの意向だと言うのなら従うしかないだろう。
 心配無用とひらひらと手を振りながら、ルウェンは今のジニーの言葉におやと思った。
「── という事は…ジニー。お前って結構、将来有望?」
 限られた、という言葉からカマをかけてみると、ジニーは一瞬虚を突かれたようにその焦げ茶の目を丸くした。
 …が、すぐにとんでもない、と首を横に幾度も振った。
「そんな事ないですよっ!!」
 一瞬で耳まで赤くなっている。面白い位の反応の早さだった。
「ぼ、僕はただ── 昔、伝令になる前にザルーム様と個人的に面識が出来てて。それが縁でザルーム様の所にも行くようになっただけですし!」
「そうなのか?」
 伝令になる前に面識が出来たというのも興味が惹かれるが、ルウェンはひとまずそれは横に置いてジニーの言葉を吟味した。
(…面識があるからって、見習いに毛が生えた位の人間を使うとは思えねえけどなあ……)
 確かにまだうまく感情を自分で制御できない未熟さは否めないが、今までを振り返るに、物覚えは良いし、細い見た目に寄らず体力もあるようだ。そして何より向上心がある。
 フィルセルが言うには足も速いという話だし(ただし、その際フィルセルは『逃げ足は速い』と表現したが)、伝令という役職に向いているように思えた。
 総合的に考えても、一概に買い被りとは思えなかったのだが── これ以上言うと、ジニーが照れ隠しにこの場から退散してしまいかねない予感がした為、それを直接口にするのは差し控えた。
 何となくだが、ジニーの仲立ちでもなければ自分と直接会う事は避けられてしまいそうな気がするのだ。何しろ、前回の会話が会話である。
 たとえ相手が姿を見せたとしても、決して友好的とは言えない今の状況では、自分を抑えきれる自信がなかった。
 明らかにザルームは何かを知っているのだ。…この自分が仇とみなす相手の事を。
「随分と静かだな。…不在か?」
 近くまで寄っても、相変わらず気配らしきものを感じない事を不審に思いながら呟くと、それを耳にしたジニーはまだ赤い顔のまま、幾分自信のなさそうに口を開いた。
「ミルファ様からの呼び出しがない限りは、基本的にはいらっしゃるはずなんですけど……」
「はず、って…また曖昧だな、オイ」
 思わず突っ込みながらも、今の彼等に出来る事は天幕の中に入る事しかなく。
 入り口に下がった厚手の布を持ち上げて、まずジニーが中に入る。そこに続いたルウェンは、やがて目に入った無人の空間に少々落胆した── が。

「…これはまた…、随分と珍しい客人を連れて来たのですね…ジニー」

 何処からともなく聞こえた声に、ジニーは安堵の微笑を、ルウェンは驚愕の表情を浮かべる事になった。
 その声はルウェンの記憶が正しければ、あのセイリェンで聞いた声と同じものだ。
 暗く沈んだ── 底知れない大地の奥底から聞こえてくるような、声。それを認識した瞬間、彼等の前に赤黒いローブを纏った人物が現れた。
「…!」
「ザルーム様、突然来てしまって済みません」
 その出現の仕方を目撃したのは初めてで、思わずぎょっと立ち尽くすルウェンに対して、ジニーは見慣れた様子で礼儀正しく一礼する。
 そんな対照的な二人を交互に見ると、ザルームはそのほとんど感情のこもらない暗い声音に微かな苦笑を漂わせて、驚きを隠さないルウェンに説明した。
「驚かせてしまったようですね。申し訳ありません、ルウェン殿。…時折、この場に何も知らない者が誤ってやって来る事があるものですから。人の気配がした時は、一度姿を隠すようにしているのです」
「…なるほど」
 そこまでして隠さなくても── と一瞬思ったが、ザルームの姿を改めて見る事で納得する。
 身体を覆い隠すローブに、表情を隠す被り布。
 どのような姿かわからないこの様子では、何も知らない者が見れば一発で不審者と思うに違いない。
 …実際、ルウェンも初対面の時は状況も状況だったが、曲者だと認識し剣を向けた位だ。
 無用の混乱を避ける為にも、そうせざるを得ないのだろう。── 慣れるまでは心臓に悪そうだが。
「それで、今回は二人揃って一体何の用でしょう……?」
「実は…ザルーム様に一つ、質問があるんです」
 ザルームの問いに、幾分緊張した表情でジニーが答える。
 その目は傍目にでもわかる程に敬意に満ちており、ルウェンは内心苦笑した。
(…『心の師』って感じだな)
 果たして過去に何があったかはわからないが、ジニーがザルームに敬意を抱く切っ掛けになった出来事はジニーの中ではかなり大きいらしい。
「聞きたい事……」
 ジニーの言葉に、一瞬布の向こうの目がこちらに向けられたのを感じ取る。どうやら、前回のやり取りを気にしているのは、ザルームも同様らしい。
 確かにその件に関してははっきりと問い質したい所だが、今は何も知らないジニーがいる。ここで事を荒立てる気はないと示すために、ルウェンはジニーよりも先に口を開いた。
「『聖女』とは何ぞや── それを聞きに来た。俺もジニーもさっぱりでな」
 口にした後で、ひょっとして敬語を使うべきだったかとちらり思ったが、後の祭りだった。何しろ、公に秘されていても皇女ミルファの参謀的な役割を果たす人物である。
 ジニーが一瞬焦ったような顔をしたのを横目で見ながら、かと言って今更態度を変えようもなく、ルウェンはそのまま続けた。
「…あんたならわかるんじゃないかってジニーが言うから、それじゃとここまで着いてきたって訳だ」
 セイリェンで言葉をまともに言葉を交わした時から砕けた口調だったせいか、それとも最初からそういう事にまったく頓着しないのか、ザルームは気にした様子もなく納得したように頷いた。
「そういう事でしたか……」
「知ってるか?」
「はい、多少は……。世間一般よりは詳しいとは思います。…お聞きになりますか」
 まるで元からの知人のような二人のやり取りに、ジニーの表情も和らぐ。
 その様子に安堵しつつ、ルウェンはザルームに説明を求めた。
「頼む。…知らなくても困らないが、なんかすっきりしなくてな」
「── では、まず…『聖女』の位置づけからお話しましょう」
 やはり何処となく苦笑を漂わせた口調で、ザルームは淡々と彼の知る限りの知識を語り始めた。

+ + +

「…神官にも上下の別があり、それを位階と申します」
 立ち話も辛いだろうと、思い思いに腰を下ろした中、ザルームの声だけが響く。
「最上位は帝都に置かれし大神殿の長── 主席神官。その下にその補佐となる三人の次席神官…東西南北に置かれた主神殿に置いても、さらにその下に置かれた地方神殿にも、同様のものが存在し、実際には非常に複雑なものとなっています。たとえば、大神殿の最下位に当たる見習い神官は、見習いでありながらも主神殿の役付き神官と位の高さが等しいといった具合です」
 そこで語られる内容は、ルウェンの知らない事ばかりで、ザルームの博識さがそれだけでも窺(うかが)い知れた。
 二人は感心しつつも、ただ黙って話に耳を傾けるばかりだ。
「ただ、この位階は単純にその能力を示すもので、ルウェン殿のような兵士の上下のそれとは大きく異なります。呪術の世界においても上位下位の別はありますが、呪術師は基本的に単独行動が基本なのでそこまで厳密ではありません。言うならば全てが名誉職なのです。ですが逆を言えば、努力でどうにかなるものでもない」
 そこで一度言葉を切ると、ザルームはその手を持ち上げる。
 長い袖から出された骨のような白い手に、ルウェンは思わず息を飲んだ。その骨ばった掌を上に向けると、ザルームは布の内で低く呟く。
「── メイ・イルシュ・フォルン」
 すると一瞬にしてその掌に拳大の炎が生じ、ゆらりとその身を揺らした。
「お、おい!?」
「ザルーム様!?」
 大きくはないと言え、確かに伝わる熱と存在感に二人は揃って青褪める。
 だが、ザルームの掌は炎を乗せても焼ける事はなく、そこに燃えるものなど何一つないのに炎は二人の視線の先で燃え続けた。
「…ご心配なく。呪術の炎は基本的に術者を傷つけはいたしません」
 言うや否や、ザルームはその掌の炎をいきなりぎゅっと握り締める。
「!!?」
 大丈夫だと保障されても、目と心に優しい光景ではない。ジニーに至っては、すでに涙目になっている。
 一体今のは何だったのかと思いながらも、思わず手にかいた汗を服の裾でさりげなく拭い、ルウェンは今の行動の意味を問うた。
「…今のは?」
 対するザルームは、その問いが来るのを見透かしていたようにごく普通の口調で返答する。
「今のが呪術です。私の術力とこの場に存在する要素を── 今回は火の要素でしたが── 『言葉』により結び合わせる事で生じるもの。つまり、術力が弱くとも、その場の要素が濃い場合は比較的大きな術も使えるという事でもあります。ところが、神官の場合そういう事はまず有り得ません。何故なら彼等の力── 神力は、自分自身の持つ力だけで行使されるからです」
「…? それで、それが『聖女』とどう関係するっていうんだ?」
「大きく関係します。まず『聖女』は神官でありながらも、その位階制度を無視した存在であり、そしてその神力は通常とは違う形で発露するのです」
 そろそろ混乱し始めた頭に、ザルームの核心ともいえる言葉は馴染まない。
 首を傾げるジニーとルウェンに、ザルームは気を悪くした様子も見せずにさらに噛み砕いて説明した。
「つまり、ティレーマ様を例に挙げるならば、あの方は位階においては西の主神殿の正神官── 見習いより上という低い立場に過ぎませんが、『聖女』としての力を持つが故に特別扱いをされているのです。位階が名誉職ならば、『聖女』というのは称号と捉えると近いでしょう。…もっとも、ティレーマ様の場合、その聖女としての力の為に複雑な立場に置かれているようですが」
「複雑…? 聖女である事に何か問題でもあるのか?」
 多少飲み込めたものの、謎が謎を呼んでいるようでなかなか頭の中が整理出来ない。
 ザルームの説明が難しいのではなく、神殿の在り方が非常に複雑なのだろう。
 しかも呪術師よりも馴染みのない世界の話だ。特別扱いと聞いてもどう悪いのかピンと来なかった。
 しかし、ジニーはその言葉に何か思い当たったようだ。もしかして、とおずおずと口を開く。
「あの…皇位継承権の問題ですか?」
 その言葉は正鵠を射ていたらしく、ザルームはゆっくりと頷いた。
「他の主神殿にいる聖女達は皆、その能力によりそれぞれの重職につかれています。一番有名なのは、南の主神殿に在する聖女マラーハ。彼女は聖女であると同時に、次席神官という要職を担っています。他の聖女達も同様に何らかの役職を持っていますが、ティレーマ様はどんなに能力が秀でていようと、現在の立場から上に上がる事はありません。それは全て── 神官であると同時に皇女である為なのです」
「ちょっと待った。何で皇女だと…上の位になれないんだ?」
「そんなの決まってるじゃないですか。正神官よりも上の…ええと位階? になったら、還俗出来なくなってしまうからですよ」
「は? 神官ってのは、一度なったら一生じゃねえのか?」
 今まで全く縁のなかったルウェンには未知の情報だったが、ジニーが知っている所を見るとそれは比較的一般的な知識だったらしい。
 てっきり、神官とは神殿に入った時から神官として生きる事が決まっているのだと認識していた。手に聖晶を持って生まれてきたその時点で、先の人生も決まっているのだと──。
 驚きを隠さないルウェンに、ジニーが苦笑する。
「違うそうですよ。僕も詳しくは知りませんけど…いくら聖晶を持って生まれたからって、必ずしも全てがラーマナに対する信仰心を持てる訳じゃないでしょう? 正神官までは一般の成人のように全ての見習いが対象になるみたいですけど、そこから先は本人の意思が尊重されるらしいです」
「…という事は、あれか? 聖女ティレーマは神官として生きてゆきたいと望んでも叶わないって事か── 皇女であるせいで」
 言いながらも、ルウェンの顔は憮然としたものへ変わる。複雑というよりは、中途半端な扱いという感想を抱いた。
 その思いはザルームも同じらしく、続いた言葉は何処か重かった。
「皇族の血は何よりも優先されるものですから。皇帝の不在は在り得ない。その為にも必ず『皇帝』を継ぐ存在がいなければならないのです。せめて…『聖女』の力を持っていなければ、まだ現在の状況を甘受できたかもしれません。しかし困った事に、ティレーマ様の力は他の四人の聖女よりも強いのです。だからこそ、神殿側も出来る事なら手放したくないと考えているようですが……」
「…それで聖女の力って、一体どういうものなんですか?」
 ふと思いついたようなジニーの言葉に、ルウェンも促すように視線をザルームに向ける。ザルームはしばし言い淀むように沈黙した後、静かに口を開いた。
「──『癒しの奇跡』」
「…癒し?」
「はい…聖女の力はそう呼ばれています。あらゆる病も命に関わる怪我も、完全に治癒させてしまう── それも、ごく僅かな時間で。調和を司るラーマナに仕える神官の中で、最も尊ばれると同時に、最も異端に属する者。それが…『聖女』です」

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