天 秤 の 

第三章 聖女ティレーマ(5)

 切っ掛けは、一つの花だった。
 一晩中吹き荒れた嵐が去った翌日、主神殿の荒れた庭園を片付けていた時のこと。
 足元に散らばった無数の花を見下ろして、たとえようもなく淋しさを感じた。
 色鮮やかな朱色のその花は、風によって根元から倒れ、花びらは散らされ、濁った泥水を被って見るも無残なものだった。
 …昨日の朝、ようやく咲いたばかりだったのに。
 見習い神官は特に重要な役目もなく、神殿内の清掃や美化が仕事らしい仕事だった。
 庭の一角にその花を植えたのは、春先のまだ寒い頃。夏から秋の暖かい時期に咲く、西領では少し珍しい花。
 ── 思い出の、花。

『── どうぞ、道中のよすがに』

 西に向けて旅立つ時に受け取った花束。その中にも、この花は入っていた。
 …それが南領でよく咲く花だと知ったのは、随分後になってからだ。
 神殿に入る際には、身の回りのものから血縁まで、全てに別離しなければならなかったけれど、そこまでの道中の時点ではその制限はなくて。
 ── 切花ならば西へ行く途中にしおれて枯れてしまう。途中で捨てる事が出来る。
 だからこそ、餞別に花束を選んでくれたのだろう。付き添い役の神官も、それについては何も言わなかった。
 自分の心を置き去りにして誰もが嘆き哀しんでいたあの場で、ただ一人励ますような笑顔と言葉を向けてくれた人の面影を重ねて。
 毎日、毎日、かかさず水を与え、雑草をむしって世話をした。…なのに。
 ボロボロの花を手に取る。ざらりとした泥の感触に、思わず唇を噛み締めた。
 花が終わったら種が出来る。その種でまた来年咲かせよう── またその次も、その先も。
 …そんな風に考えていた矢先の出来事。
 嵐に罪はない。自然の力に抗う事は、ラーマナの教義に反する事だ。
 そう、自分に言い聞かせようとしたけれど。
(コンナノ・イヤダ)
 ── その衝動はたちまち幼い心を支配した。
(モウ一度・コノ花ヲ見タイ)
(モウ一度)
(…元通リニ・ナレバイイノニ……!)
 身体の中で、熱が生じた。その熱さに呼吸が出来なくなる。
 何かが燃えているように胸の奥に生まれた炎のような熱。それはすぐさま腕を伝わり、掌を伝わり、手にした泥だらけの花の残骸に向かった。
 …そして。
「……あ」
 その苦しさに思わず閉じていた目を開くと、手の中の花はかつての姿を取り戻してそこにあった。
 鮮やかな朱色の花弁が、微風に揺れる。信じられなくてまじまじと見つめ── それが本物なのだとわかった瞬間、目から涙が零れ落ちた。
 悲しかった訳ではない。嬉しかったのとも、違う。
 感情の箍(たが)が外れたように、ボロボロと涙を零しながら、甦った花をそっと胸に抱いた。


 …長じた今でも、その時の感情が何であったのかはわからないまま。
 ただ確かなのは、その出来事を境に時に埋没されて終わるはずだった自分の人生が、劇的に変わってしまったという事だけ。
 皇女と神官、その二つの狭間でどちらにも動く事の出来ない、雁字搦(がんじがら)めの日々へ── 。

+ + +

「…あ、聖女ティレーマ!」
 背後からかけられた明るい声に振り向くと、数日前にパリルの街まで出かけていた神官が足早に歩み寄ってくる所だった。
「託(ことづか)っていたあの書簡、確かに伝達人に渡しましたから!」
 言いながら、にこやかな笑顔を浮かべる顔はまだ幼さが強く漂う。それもそのはず、先月十七歳を迎えたばかりの少年である。
 しかし、その肩には斜めに布がかけられていた。主位神官のそれとは異なり、無地で暗めの赤に染められ端に小さく刺繍が刺されているだけだが、それはすなわちこの少年がこの神殿で何らかの役職を担っている事を示している。
 自身が決して持つ事のないそれを少し眩しげに見つめて、ティレーマは微笑んだ。
「ありがとうございます、祭祀様。申し訳ありません…個人的な用事をお願いしてしまって……」
「謝らないで下さい、この位お安い御用ですよ!」
 少年神官は微かに頬を赤く染めて首を振る。
 何しろティレーマはその美貌に加え、本来の位階がただの正神官という事もあってか、皇女の生まれでありながら誰に対しても分け隔てなく接する。
 気さくに話し、笑い── 決してその『血』をひけらかす事はない。
 元々女性の見習い以上の神官は少なく、この地方神殿にも数名(しかも比較的年配)いるだけである。
 若い女性に免疫のない彼等が、つい舞い上がってしまうのも無理はなかった。
 一般にはあまり知られていないが、神官は婚姻はもとより、恋愛も御法度とされてはいる。…が、心の中で想う事は自由である。
 結果としてティレーマは、特に年若い神官達の中で、憧れの女性として見られるようになっていた。
 ── もっとも、自身の事に対して無頓着なティレーマ本人は、そのような事はまったく気付いてもいなかったが。
「ま、また、何かあったら気軽に言ってくださいね!?」
「はい…ありがとうございます」
 心なしか上ずった言葉に、内心首を傾げながらもティレーマが頷くと、少年神官は傍で見ていてわかるほどに目を輝かせた。
 そしてきっとですよ! と念を押し、嬉しそうな顔で立ち去ってゆく。その姿を見送りながら、ティレーマはその口元に苦笑を浮かべた。
(…気軽に、ね。そういう訳にも行かないでしょうに)
 神官の社会は完全なる縦型社会だ。利権が絡まないとは言え、位の上下は絶対である。本来なら、下の位の者が上の位の者を使うなど在り得ない。
 主神殿の正神官と地方神殿の役職付きの神官(今回の場合は、婚姻の儀式や葬儀を行う祭祀神官だった)では、後者の方が上位になる。
 今回はたまたま、自らパリルへ向かおうとしたティレーマが、その旨を主位神官に報告した結果、丁度パリルに行く者がいるから、と間に主位神官が入ったからこそ頼めた事だ。
 …現実は違ったが、少なくともティレーマはそう思っていた。
 確かに自分は位階を無視して敬意を払われる『聖女』の名を持つ。しかし、それだけだと。
(── 『聖女』、…か)
 その呼び名を受け入れても、それによって払われる敬意は何時まで経っても受け入れる事が難しい。
 妬みや嫉みとはほとんど無縁の神官達だが、人間である事は変わらない。
 それなりの努力を払って上位の位階を得た人々の中には、ただの正神官でありながらも聖女である為に敬われるティレーマをやっかむ者もいた。
 どちらともつかない身で、聖女の力を持つなどおかしいと。
 だがそう言われても、この身が皇帝の血を引く限り、皇女である事は変わらないし、神官でありたいと願う限りは『聖女』の名からも逃れる事は出来ないのだ。
 彼等の言葉を正しいと思いながらも、同時に思わずにはいられない。
 ── 持っていても実際には役に立たない力など、持ちたくて持っている訳ではない、と。
 聖女の力は尊ばれると同時に、異端のものとして行使を制限される。
 ティレーマの場合は、その力が強過ぎる為に西の主神殿を預かる主座神官から『使うな』とまで言われていた。
 つまり── 本当に持っているだけ、なのだ。
「…これが『宝の持ち腐れ』というものかしら……?」
 自嘲するように呟いて、ティレーマもまた歩き始めた。

+ + +

 帝都へ入るのに先駆けて、西領にいる姉へ手紙を出してから十日余り経つ頃、ようやくその返事がミルファの元へと届けられた。
 こちらからは帝都を経由する危険を考えて、セイリェンから直接パリルまで鳩を飛ばしたが、こちらが動き出した後は向こうからは人を走らせるより手はない。
 十五年もの間、一度もやり取りのなかった姉からの手紙を受け取り、ミルファは何だか不思議な新鮮さを覚えた。
 何故だろう、としばらく考えた後、やがてその理由に気付く。
 …血の繋がった人間から手紙を受け取ったのが初めてだという事に。
 東領に兄がまだ生きていた頃もやり取りはあったが、全て間に人を介した口伝えのもので、こうして文章という形で直接やり取りをする事はなかったのだ。
「…変な、感じ……」
 思わず呟きながら手の中の書簡を見つめると、本当に姉がいるのだという実感が湧いてくる。
 今まで人伝えの噂程度しか聞いた事のない、遠い存在だったのが、急に現実味を帯びた気がした。
 封を切り、中身を改める。几帳面さを感じさせる、丁寧な文字で綴られた文面だった。
 果たして姉は、どんな言葉を返してくるのか── 幾分緊張を隠せない表情でそれを見つめていたミルファの顔は、読み進めるに従って綻び、終いには微苦笑へと変わっていた。
「ザルーム」
 読み終えると、ミルファは彼女の影を呼んだ。
 すぐさま見慣れたローブ姿が現れたかと思うと、気遣うような声が布の内から聞こえてくる。
「── ティレーマ様からは、何と?」
 ティレーマへ手紙を出す事は、すでにザルームの耳にも通していた事だった。
 その問いかけにミルファは頷くと、ひらりと手にした便箋を振り、微苦笑を浮かべたまま答える。
「…怒られた」
「……」
 余りにも簡潔にして予想外の答えだったのか、珍しくザルームが絶句した。その反応にミルファの苦笑はさらに深くなる。
 ミルファ自身、予想を覆される内容だったのだ。

『あなたは南領だけでなく、西領までも戦場にするつもりですか?』

 決して過激な言葉は使われていなかったが、そこに綴られた言葉は予想以上に厳しいものだった。まさに、『説教』と表現して差し支えないような。
「…流石に、西の端にある主神殿から民を守るが為に単身出て来られた方だ。かなり手厳しい」
「拒絶…なさいましたか」
 鳩に託した手紙には、西に向かって盾になる事と、父へ剣を向ける罪を見逃して欲しい事、そして── 叶うならば一度会って話をしたい、という事を書いた。
 東領で絶命した兄、ソーロンの時には果たす事の出来なかった。いつかわかり合える── そんな悠長な事を考えて、こちらから動こうとはしなかった。
 その後悔は今もまだ、胸に深く刻まれている。だからこそ、手紙を書いた。…拒絶されれば仕方がない、と思いながら。
「…それが、そちらに関しても少し予想外の反応が返って来た」
「予想外、ですか?」
「曰く──『どちらにしても止めても来てしまうのでしょうから、その事に関してはわたくしの意見を述べる事だけに留めます。その代わり…直接会う機会があったら、わたくしから一言ある事を覚悟なさいませ』」
「…それは、また……」
「噂では聖女ティレーマは、清く正しく美しく、たおやかで、正に神の寵愛を受けるに相応しい方だという話だったが…やはり人の噂は当てにならないようだ」
 軽く肩を竦め、ミルファは便箋を折りたたむと、再び封筒の中へと戻す。そしてぽつりと呟いた。
「── どのような方か、実際に会ってみたい気になった」
 十五年も会わないまま── しかも、互いに子供だった時代に生き別れたのだ。肉親としてよりも他人としての意識の方が強いのは仕方のない事だろう。
 だからこそ、もっと他人行儀な、あるいは当たり障りのない返事が返ってくるとばかり思っていたのだ。
 だが、実際に返って来た返事は遠慮というものを感じなかった。『姉』でなければ、無礼の一言で片付けられてしまいそうな部分もあった。
 ── その事を不思議と嬉しく思うのは何故だろう。
「では、予定通り…このまま西へ?」
「姉上の言うとおり、今更引き返す事など出来はしないのだから…このまま進むだけだ」
 もう二度と同じ過ちは繰り返さない。その誓いを胸に、ミルファは頷いた。
 今までに、たくさんの人を喪った。
 神官もただの人間なのだと教えてくれた人── ケアンを筆頭に、母、仲の良かった南の離宮の女官や警備兵達、兄、姉、そして…優しかった頃の、父。
 ケアンはその生死が未だにわからず、父も生きてはいる。しかしそれ以外の人間は、もう二度と還らない。
(…もう、何一つ喪いたくない……)
 その為に、今は動く。
 ── しかしそう思う一方で、ミルファは思う。間に合わないかもしれない、と。
(必ず、近い内に動きがあるはず……)
 帝軍の今までの沈黙が、嵐の前の静けさである事をミルファは確信していた。
 今までのやり方を考えるに、おそらく魔物を仕掛けてくるはず。
 神殿を直接襲っても、守りの術を行使する事の出来る神官を傷つける事は出来ないはずだが、そんな正攻法を仕掛けてくるとも思えない。
(どうか、間に合って……)
 不気味な沈黙に微かな焦りを感じながら、ミルファはその事を願わずにはいられなかった。

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